【完結】アリスゲーム

百崎千鶴

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第18話 二分の一

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 時計屋さんの家を飛び出して一心不乱に走り続けていると、いつの間にか森の奥まで来てしまっていた。辺りは不気味なほど薄暗く、気づけば月が顔を出している。

(……怖い……)

 けれど……勢いであんなことを言ってしまった手前、今さら帰るわけにもいかなかった。とりあえず一人で頭を冷やそう。

「はぁ……」

 腰を下ろして木の幹に背中を預け、深呼吸を繰り返して息を整えていると、止まっていたはずの涙がこみ上げて視界を歪ませた。
 この世界に来てから、私はずいぶん泣き虫になってしまったような気がする。

「うっ……ひっく……」

 膝を抱えたまま泣いていた、そんな時。突然、頭上から降ってきた呑気な声が鼓膜を揺らす。

「第一問! ネズミの子供ぉ、大きさはー、どのくらいでしょうかぁ?」

 声の主を探して顔を上げると、そこには長い尻尾をふにゃりと揺らすチェシャ猫がいた。
 太い枝に寝そべったまま口元に三日月型を描く猫と目線が交われば、彼女は耳をぴゅるりと動かし「わかるぅ?」と小さく首を傾げる。

(ねずみの、こども……?)
「にゃーん! 正確はねぇ……『チュー』くらいでしたぁ」
「……ふふっ、ダジャレみたい」

 目尻に溜まった涙を指で拭い立ち上がってチェシャ猫を仰ぎ見ると、彼女は嬉しそうに顔をほころばせて耳をピンと直立させる。

「あー、アリスはにこにこぉ。うんうん、やっと笑ったにゃー」
「……私のこと、元気づけようとしてくれたの?」
「んー? ううん、それは違うんだにゃあ。僕はぁ、泣いている顔を見るのが好きでぇ、でもぉ、泣き顔を見るのは楽しくないんだけどぉ……アリスはぁ、笑っている方が好きだからぁ。笑わにゃいかにゃーと思ってぇ」

 言っていることがなぞなぞに似て無茶苦茶でよくわからないが、私を笑わせようとしてくれたという事だけはたしかで。
 前に会った時はチェシャ猫に対して少し危機感を覚えたが、本当は私が思っていたよりも良い猫のようだ。

「チェシャ猫、ありがとう」

 微笑んで見せると、彼女はただ口元に弧を描き目を細める。
 チェシャ猫に限った話ではないが……まるで、マイナスイオンでも出ているのではないかと錯覚するほどに癒される笑顔だ。

「……ねぇアリスー、『ダウト』ってトランプゲーム知ってるぅ?」
「ダウト? ええ、知っているわよ」
「ちょっと似てるよねぇ……アリスがぁ、今やってるこの『ゲーム』とさぁ」

 ああ……まただ。また、この感じ。
 本能が発する危険信号――今すぐこの場から逃げろと命じられているかのような感覚……そして、頬を伝い落ちる冷や汗。
 大丈夫、と自分自身に繰り返し言い聞かせる。チェシャ猫は武器になりそうな物など持っていないし、偽物ジョーカーになった気配もない。だから、今は大丈夫なはずだ。

「やっぱりぃ、ダウトと似てるにゃあ……誰かに指摘されるまでぇ、みーんな嘘を吐き続ける。怪しいにゃあ? おかしいにゃあ? そう思ってもぉ、誰も声を上げにゃい。だってぇ、その方がゲームは長く続いて面白いもんねぇ」
「そうね……」
「ゲーム中はぁ、みーんな嘘つき。手札には無いくせにぃ……ダイヤのジャックのふりをしてぇ、ダイヤのキングのふりをしてぇ、ハートのエースのふりをしてぇ……にゃんにゃん? ジョーカーはぁ、誰のふりをしてるんだろうねぇ?」

 チェシャ猫はそこまで言うと「あー!」と思い出したような声を出して尻尾を揺らめかせる。

「そうだぁ、ババ抜きとも似てるよねぇ! いつも煙たがられてぇ、鬱陶しがられてぇ、除け者にされる嫌われ者のジョーカー!」

 けらけらと楽しそうに笑ったかと思えば、灯りを消すようにぱちりと表情が消え失せてしまったチェシャ猫。とても不気味、だ。

(ああ、だめ……)

 脳みそがしつこく告げている。すぐに逃げろ、猫に背を向けて走れと。
 ああ、そうだわ。助けてくれそうな人なんて、今この場には誰もいないんだった。

「……っ!!」

 慌てて踵を返し、チェシャ猫から距離を取るために走り出そうとした――瞬間、いつの間にか背後に立っていたらしい何者かと正面からぶつかってしまい、思い切り顔を強打する。

「~~っー!」
「ん? あれ……? アリス?」
「ひゃ、ひゃっく……!?」 

 痛む鼻を両手で抑えながら見上げると、そこには驚いた様子で目を丸くするジャックが立っていた。
 胸元にぶつかってしまったというのに、ジャックは一切ふらつかずに体勢を保っている。

(体幹の問題かしら……?)

 少しの間を置いてから再びいつもの笑顔に戻ったジャックから目線を移動させて振り返れば、木から降りてきたチェシャ猫は特に焦る様子もなくただ悠然と私に歩み寄っていた。
 彼女の両手は背中に隠されたままで、ひどく恐怖心を煽られる。

(もし……もしかして、)

 刃物でも持っているの?それとも、銃で撃ってくる気?花屋さんのように何か周囲の物を操ることができるの?
 ぽつりぷかり、最悪の想像ばかりが浮かび上がる。

「どうした? アリス。顔色悪いぜ!」

 みんな偽物ジョーカーに見えて、からからと茶化すように笑うジャックまで恐ろしく思えてくるのだ。
 まばたきした次の瞬間に、彼も私に斬りかかってくるのではないだろうか?
 ぐるぐる、もわもわ。頭の中で広がる真っ黒い霧が、思考を鈍らせる。 

「ね……ねえ、ジャック……助け、て……?」

 恐れを抱いている相手に言う台詞ではないと自分でもわかっているけれど、藁にもすがる思いでジャックを見上げて彼の服を握りしめた。
 しかし、自称・騎士が相変わらずの笑みを顔に貼り付けたまま吐き捨てたのは、

「え? なんで? あー、そうだ! アリス、たまには自分一人の力でどうにかする事も大切だと思うんだよな!」

 あまりにも、冷酷な言葉だった。
 それだけでは飽き足らず、ジャックは私の手を振り払って二、三歩後ろへ下がると、胸ポケットのペンを手に取りいつだかのように剣へ変化させ、切っ先を真っ直ぐに私の喉元へ突きつけてくる。

「……え……じゃっ、く……?」
「にゃーん。さぁてアリスー、次の問題だよぉ」

 チェシャ猫は、恐怖で動けずにいる私の背後へ回り肩越しにひょこりと顔を出すと、逆手に持った短刀をジャックと同じように私の喉元に当て、歌うように耳元で囁いた。

「今ぁ、本当に偽物ジョーカーににゃっているのはぁ、僕と騎士さん……どっちでしょーか? 当てられたらぁ、アリスに何もしにゃいって約束するよぉ」
「ははっ、まあ……当てられたら、だけどな」

 チェシャ猫の言葉に同調するジャックは軽い声音でそんなことを言いながらも、なぜか……ひどく、辛そうな顔に見える。それを隠そうと、無理やり笑っているような。

(私の願望で、そう見えているだけ……?)

 当てられたら、殺されずに済む。確率は、二分の一。
 大丈夫、二択なら簡単よ。落ち着いて考えるのよ、アリス。焦っちゃだめ。
 今、偽物ジョーカーになっているのは……、

「……じ……ジャック」

 口内の渇きを覚えつつ、震える声で騎士を指名した。すると、二つの刃はゆっくりと私の体から離される。

「当たり!」
「アリスはぁ、運が良いねぇ」

 ほっと胸をなでおろしたのも束の間、

「……あーあ、残念だな……やっとジョーカーになれたから、“約束通り”アリスのこと殺してあげようと思ったのに」

 笑顔のまま、ジャックが小さく呟いた言葉に鳥肌が立つ。
 彼はさっき本気で私を殺すつもりだったのだと、嫌でも思い知らされた。もし、選択を間違えていたら……そう考えるだけで体が震える。
 同時に、気づいたことが一つあった。

「ねえ、チェシャ猫。あなた……死にたいの?」
「にゃん? どうしてぇ、そう思うのぉ?」
「だって……前に、帽子屋さんが言っていたわ。ジョーカーでもない時に私を殺せば、あなた達も死んでしまうって……」

 もしもあそこで私が「チェシャ猫」と答えて、彼女が私の首を切り裂き殺していたなら……恐らく一緒に死んでしまっていたのだろう。 
 しかし、当の本人……本猫は、けろりとした顔で口を開いた。

「んー? 僕はまだぁ、死にたくにゃいよぉ」
「でも、それじゃあ矛盾しているわ」

 死にたくないのに、わざわざその危険性がある真似をするだなんて。

「……僕と言う『チェシャ猫』はぁ、自由に生きていてぇ、矛盾した存在だからねぇ」

 まるで本物の猫のように、身軽な動きで木の枝に飛び登るチェシャ猫。「わー! 相変わらず本物の猫みたいですごいな!」と感心するジャックに対し、チェシャ猫はにこりと一度笑顔を向けてから私を見据えた。
 太い枝に尻尾を巻きつけてくるりと一回転し隣の木へ飛び移ったチェシャ猫は、黒板消しを使う時に似た動作で尾の先を使い自分の体を少しずつ消していく。

「光の闇、悪魔な天使、敵の味方、近づかせて遠ざける……そして、殺して笑顔にしたいけど、生きて泣いていてほしい。そんな風に願う、それが僕だよ」
「ま、待って! チェシャ猫……! それは、どういう意味……」
「アリスの探している『ジョーカー』は、何にでもなれて、何にもなれない……この国じゃあ、今は誰も信じちゃいけないよ……これだけヒントをあげたんだからぁ、あとは自分で見つけてねぇ。また会おうねぇ、アリスー」

 ひらりと手を振ったのを最後に、チェシャ猫の姿は完全に見えなくなってしまった。

「さっきの……どういう意味なのか、ジャックにはわかる?」
「……あー……いや、さっぱり! というか、ごめん! 猫くんの話、途中から全然聞いてなかったんだよな! 何て言ってたっけ?」
「……なんでもないわ」

 何にでもなれて、何にもなれないジョーカー。それがどんな意味を指すのか、この時の私にはわからなかった。 

「気をつけてねぇ、アリスー。落ちぶれたキングのそばにはぁ、いつも『ダイヤのジャック』のふりをした偽物がいるよぉ」
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