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第17話 理性の砦
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「ただいま」
やっと花屋さんから解放され、時計屋さんの家に帰ってくることができた。
もらった数輪の薔薇を片腕で抱いたまま後ろ手に玄関の扉を閉めると、ソファに座ってくつろいでいた時計屋さんは私を見るなり少し驚いたように目を見開く。
「……花屋に会ったのか?」
なんだか、焦りが入り混じったような声音。
「ええ。少しだけ鬱陶しいけど、良い人だったわ。時計屋さんは、花屋さんを知っているの?」
彼の隣に腰を下ろし、花屋さんを真似て微笑みながら薔薇を差し出してみる。すると、時計屋さんは薔薇と私を交互に見てからしどろもどろに「いらない」と言いつつそっぽを向いてしまった。
その耳たぶが赤く染まっているように見えるのは、きっと気のせいなのだろう。
「……知ってるも何も、花屋は……俺の、友達だから」
「……時計屋さんにも、ちゃんとお友達がいたのね……」
わざわざこんな森の奥に住居を構え、ジャックが遊びに来るとあからさまに嫌そうな顔をするし、仕事以外ではほとんど外出する事もない時計屋さん。
そんな、引きこもり同然で人嫌いに見えた彼に『友達』と呼べる関係の人物がいたことに少しだけ驚いた。
「……意外と失礼だよな、アリスって」
「あっ、馬鹿にしているわけじゃないわよ……?」
時計屋さんは、訝しむような眼差しで私をちらりと見て「……まあ、いいけど……」と呟き、一呼吸置いてからこちらへ向き直る。
どうしたの?と問う暇もなく突然手を握られ、時計屋さんはいつになく真剣な表情で距離を詰めてきた。
少しでも身じろぎをすれば、唇が触れてしまいそう。
「あ、あの……時計屋さん……?」
「なあ、アリス」
あいている方の手が横髪をすくい上げて、指の腹でするりと撫でられる。
「……アリスは、この国が気に入った? ずっと、ここに居たい……元の世界になんて、帰りたくない。そう思ってる?」
「そ……んな、わけ……ないでしょう……?」
緑の隻眼をまっすぐに見据えて否定を口にすれば、時計屋さんの眉間に深いしわが刻まれた。
幾度か目にしたこの表情は、不機嫌の表れ。しかし、やはり私には彼が怒っている理由はわからない。
「アリス……嘘をつくのは良くないよ」
「う、嘘なんてついていないわ……! 私は本当に帰りたいと思っているし、記憶だって……」
「……だったら、俺がまだここに居るのはおかしいだろ……そんなわけないんだよ、アリス」
時計屋さんはわずかに震える声でぽつりと呟き、内ポケットからナポレオンケース型の懐中時計を一つ取り出す。
光を反射してキラキラと輝く金色で、蓋に繊細な模様の彫られたそれを時計屋さんが私に向けた瞬間、眩しい光を放って彼の手元に拳銃が現れる。
「時計、屋さん……?」
「……アリス、」
その銃口は私の眉間を捉えており、なんの拘束もされていないというのに体が動かせない。
潔く死を覚悟した瞬間、今までこちらに向けられていた銃口と目線は私の頭上へ移動し、直後に弾丸を放つ音が狭い室内で鳴り響いた。
「……え?」
「……アリスが前に会いたがってた、この街の住民たちだよ」
時計屋さんの目線を辿って振り返ると、我先にと窓から侵入してくる住民が、少し数えただけでも十五人。窓枠の真下には、足を引きずるようにこちらへ這って来る者もいた。
どういうわけか、住民たちは揃いも揃って窓ガラスをすり抜けている。
あまりにも『不気味』としか言いようのない光景だ。住民達が必死になにかを求めるように伸ばす手の先にいるのは――私。
「……アリスは動くな、じっとしてて」
異様な住民達の頭を、時計屋さんは淡々と撃ち抜いていく。
弾丸に貫かれた人々は血の一滴も流すことはなく、ただ真っ黒いトランプの形をしたもやに変化し、風で吸い出されるかのように窓の外へ消えていった。
「な、に……? 今の……」
「……アリスがこの国を気に入るほど、ランク持ちに会えるようになる。その分、偽物ジョーカーに遭遇する確率は上がり、アリスは命を狙われる。それがルールで、皆にとってこれは“ただの”ゲームでしかない」
時計屋さんは拳銃を懐中時計に戻して内ポケットへしまうと、深いため息を一つ吐き出してうなだれる。
「……本当に、この国を気に入っていないなら……帰りたい、死にたくないと心から願ってくれているなら……ランク持ちでもない住民は、アリスの前に現れる事はできないし、今みたいなことは絶対に起こらないんだよ。あいつらは、アリスに恐怖を与えて『帰りたい』『こんな世界にいたくない』と心の底から思わせるために、アリスをこの国から追い出すために……そのためだけに存在する、最後の“理性”だ」
(理性……? 誰の……?)
「アリス……自覚が無くても、その感情を覚えていなくても、アリスは嘘を吐いているんだよ」
彼は絞り出すような声でそう言って、苦しげに歪められた緑の隻眼に私を映した。
私は……私は、こんな国を気に入ってなんていない。死にたくもないし、早く帰りたくて仕方がない。それなのに、私の言うことを時計屋さんまで「嘘だ」と否定するの?
「何で……どうして、そんなことを言うの……? 時計屋さんは、私の言うことを……!」
……あれ?
「……アリスの言うことを、なに?」
「だから……時計屋さんは、私のこと、」
私のことを、何……?
「私を……」
そこから先の言葉を紡ごうとすると、途端に頭の中が真っ白になって声が出なくなる。
いったい何を伝えたかったのか、自分でもわからなかった。
「……っ、時計屋さんのバカ!!」
衝動的に湧いた怒りに任せて罵倒をぶつけ、時計屋さんの家を飛び出してしまう。「バカ」なんて八つ当たりもいいところだというのに、「だけど」「私だって」と言い訳ばかりが心の中で繰り返された。
ああ、本当に……バカなのはどっちだろうか。
***
「……本当に帰りたいなら、死にたくないと願ってくれているなら……その先の言葉だって簡単に出てくるはずなんだよ、アリス……本気で帰りたいなら、思い出したいなら……花屋も、ジャックも、俺も。今頃、とっくに……」
気に入ったのなら、アリスはこの世界に居続けるべきだと思うのも本当だ。
ここには、アリスを守ってくれる人がたくさんいる。
こんなゲームなんて中止にしてしまえばいい、アリスにはそれができるのだから。思い出せないのなら、そのままでいい。何もかも、忘れたままで。
「……『現実』なんて、アリスは知らないままでいい……そんなものは俺に任せて、ずっと忘れたままでいいんだよ。アリス……」
悲しみに歪められた時計屋の顔。その唇からこぼれ落ちた言葉を、直接アリスに伝える勇気など『元・王様』は持っていなかった。
やっと花屋さんから解放され、時計屋さんの家に帰ってくることができた。
もらった数輪の薔薇を片腕で抱いたまま後ろ手に玄関の扉を閉めると、ソファに座ってくつろいでいた時計屋さんは私を見るなり少し驚いたように目を見開く。
「……花屋に会ったのか?」
なんだか、焦りが入り混じったような声音。
「ええ。少しだけ鬱陶しいけど、良い人だったわ。時計屋さんは、花屋さんを知っているの?」
彼の隣に腰を下ろし、花屋さんを真似て微笑みながら薔薇を差し出してみる。すると、時計屋さんは薔薇と私を交互に見てからしどろもどろに「いらない」と言いつつそっぽを向いてしまった。
その耳たぶが赤く染まっているように見えるのは、きっと気のせいなのだろう。
「……知ってるも何も、花屋は……俺の、友達だから」
「……時計屋さんにも、ちゃんとお友達がいたのね……」
わざわざこんな森の奥に住居を構え、ジャックが遊びに来るとあからさまに嫌そうな顔をするし、仕事以外ではほとんど外出する事もない時計屋さん。
そんな、引きこもり同然で人嫌いに見えた彼に『友達』と呼べる関係の人物がいたことに少しだけ驚いた。
「……意外と失礼だよな、アリスって」
「あっ、馬鹿にしているわけじゃないわよ……?」
時計屋さんは、訝しむような眼差しで私をちらりと見て「……まあ、いいけど……」と呟き、一呼吸置いてからこちらへ向き直る。
どうしたの?と問う暇もなく突然手を握られ、時計屋さんはいつになく真剣な表情で距離を詰めてきた。
少しでも身じろぎをすれば、唇が触れてしまいそう。
「あ、あの……時計屋さん……?」
「なあ、アリス」
あいている方の手が横髪をすくい上げて、指の腹でするりと撫でられる。
「……アリスは、この国が気に入った? ずっと、ここに居たい……元の世界になんて、帰りたくない。そう思ってる?」
「そ……んな、わけ……ないでしょう……?」
緑の隻眼をまっすぐに見据えて否定を口にすれば、時計屋さんの眉間に深いしわが刻まれた。
幾度か目にしたこの表情は、不機嫌の表れ。しかし、やはり私には彼が怒っている理由はわからない。
「アリス……嘘をつくのは良くないよ」
「う、嘘なんてついていないわ……! 私は本当に帰りたいと思っているし、記憶だって……」
「……だったら、俺がまだここに居るのはおかしいだろ……そんなわけないんだよ、アリス」
時計屋さんはわずかに震える声でぽつりと呟き、内ポケットからナポレオンケース型の懐中時計を一つ取り出す。
光を反射してキラキラと輝く金色で、蓋に繊細な模様の彫られたそれを時計屋さんが私に向けた瞬間、眩しい光を放って彼の手元に拳銃が現れる。
「時計、屋さん……?」
「……アリス、」
その銃口は私の眉間を捉えており、なんの拘束もされていないというのに体が動かせない。
潔く死を覚悟した瞬間、今までこちらに向けられていた銃口と目線は私の頭上へ移動し、直後に弾丸を放つ音が狭い室内で鳴り響いた。
「……え?」
「……アリスが前に会いたがってた、この街の住民たちだよ」
時計屋さんの目線を辿って振り返ると、我先にと窓から侵入してくる住民が、少し数えただけでも十五人。窓枠の真下には、足を引きずるようにこちらへ這って来る者もいた。
どういうわけか、住民たちは揃いも揃って窓ガラスをすり抜けている。
あまりにも『不気味』としか言いようのない光景だ。住民達が必死になにかを求めるように伸ばす手の先にいるのは――私。
「……アリスは動くな、じっとしてて」
異様な住民達の頭を、時計屋さんは淡々と撃ち抜いていく。
弾丸に貫かれた人々は血の一滴も流すことはなく、ただ真っ黒いトランプの形をしたもやに変化し、風で吸い出されるかのように窓の外へ消えていった。
「な、に……? 今の……」
「……アリスがこの国を気に入るほど、ランク持ちに会えるようになる。その分、偽物ジョーカーに遭遇する確率は上がり、アリスは命を狙われる。それがルールで、皆にとってこれは“ただの”ゲームでしかない」
時計屋さんは拳銃を懐中時計に戻して内ポケットへしまうと、深いため息を一つ吐き出してうなだれる。
「……本当に、この国を気に入っていないなら……帰りたい、死にたくないと心から願ってくれているなら……ランク持ちでもない住民は、アリスの前に現れる事はできないし、今みたいなことは絶対に起こらないんだよ。あいつらは、アリスに恐怖を与えて『帰りたい』『こんな世界にいたくない』と心の底から思わせるために、アリスをこの国から追い出すために……そのためだけに存在する、最後の“理性”だ」
(理性……? 誰の……?)
「アリス……自覚が無くても、その感情を覚えていなくても、アリスは嘘を吐いているんだよ」
彼は絞り出すような声でそう言って、苦しげに歪められた緑の隻眼に私を映した。
私は……私は、こんな国を気に入ってなんていない。死にたくもないし、早く帰りたくて仕方がない。それなのに、私の言うことを時計屋さんまで「嘘だ」と否定するの?
「何で……どうして、そんなことを言うの……? 時計屋さんは、私の言うことを……!」
……あれ?
「……アリスの言うことを、なに?」
「だから……時計屋さんは、私のこと、」
私のことを、何……?
「私を……」
そこから先の言葉を紡ごうとすると、途端に頭の中が真っ白になって声が出なくなる。
いったい何を伝えたかったのか、自分でもわからなかった。
「……っ、時計屋さんのバカ!!」
衝動的に湧いた怒りに任せて罵倒をぶつけ、時計屋さんの家を飛び出してしまう。「バカ」なんて八つ当たりもいいところだというのに、「だけど」「私だって」と言い訳ばかりが心の中で繰り返された。
ああ、本当に……バカなのはどっちだろうか。
***
「……本当に帰りたいなら、死にたくないと願ってくれているなら……その先の言葉だって簡単に出てくるはずなんだよ、アリス……本気で帰りたいなら、思い出したいなら……花屋も、ジャックも、俺も。今頃、とっくに……」
気に入ったのなら、アリスはこの世界に居続けるべきだと思うのも本当だ。
ここには、アリスを守ってくれる人がたくさんいる。
こんなゲームなんて中止にしてしまえばいい、アリスにはそれができるのだから。思い出せないのなら、そのままでいい。何もかも、忘れたままで。
「……『現実』なんて、アリスは知らないままでいい……そんなものは俺に任せて、ずっと忘れたままでいいんだよ。アリス……」
悲しみに歪められた時計屋の顔。その唇からこぼれ落ちた言葉を、直接アリスに伝える勇気など『元・王様』は持っていなかった。
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