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第三十五話 イカレ帽子屋
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どうなっているの?
どういうこと?
何が起きたの?
誰の仕業?
そうして『考える』事だけは可能だが、脳みそや精神がパニックを起こしたわけではない。……否。今だに気味が悪いほど落ち着いている頭蓋骨の中身と心臓は、まるで別の誰かの物になってしまったかのようだ。
今の一瞬で移植されたり魂が入れ替わった覚えはないのだから、間違いなく私の一部分だというのに。
「ンッフフ……レディ、まずは座って話しをしましょう?」
喉の奥で笑ったソレが黒手袋に包まれた手でパチンと指を鳴らせば、私の身体は自分の意思と関係無しに歩みを進めてつい先ほどまで座っていた椅子の元へ戻り勝手に腰を下ろす。
そして、納得のいかない私を尻目に長身の男はスキップするような足取りで真正面の席へ座り、片手に持っていた自分用らしきマグカップをドンッとテーブルに置いた。
「さてさて。小生はまずレディに聞かなければならない事があるのです。ンン~……端的に申しますね。質問に『素直に』答えてくださいませ」
──……聞かなければならないこと。質問に素直に答えろ。
自分の中だけで話の流れを理解しているらしいその男は、左手でマグカップの取っ手をしっかりと握りしめたまま、斜め上空に視線を投げて右手をひらひらと振る。
その挙動は、まるで大きな独り言を漏らしている精神患者のようだ。
「……質問?」
──……ああ、驚いた。今この瞬間までどう足掻いても固く閉められていた喉の蛇口は、唇を持ち上げた瞬間にキュッと開かれて声が出せるようになっている。
私の反復を聞いて男はゆるりと顎を引き、テーブルの中心に置かれていたシュガーポットを右手で自分の方へ引き寄せてから、ガラス製の蓋をもう片方の手で持ち上げたまま角砂糖をボトボトとマグカップの中に投下し始めた。
四個、六個、八個……恐らく相当の甘党なのだろう。角砂糖を十個ほど投下した頃、彼はようやくシュガーポットに蓋をして、底に沈んだものをティースプーンでザリザリとかき混ぜる。
かさの増したコーヒーは表面張力だけでなんとかマグカップの中に収まっており、焦げ茶色の液体がどれだけ甘いのか想像しただけで胃がもたれそうだ。
思わず顔を顰める私を尻目に、男は貼り付いたような笑顔を浮かべて三回大きく頷く。
「ええ、ええ。本来、小生に任されている仕事は“そう”なのですよ。ンフフッ、ではお聞きします」
(改まって一体なにを、)
「レディは、我欲で人を殺したことがありますか?」
チリン。耳の奥で、鈴の音がこだまする。
「……」
ふと、鮮明に蘇る『ある日』の記憶。
ふわりと揺らぐレースのカーテン、窓から入り込む生温い風の匂い。夏の陽光に照らされてキラキラ光るお母様のブロンドヘアーはひどく眩しくて。
膝に置かれている本がぱらりとページを変えるのも気にせずに、空色の瞳は優しく私を映していた。
『──アリ……、今日は暑いわね。湖にでも行ってみましょうか』
窓辺の椅子に腰掛けて穏やかに微笑む彼女の姿は、まるで一枚の絵画のようだった。
ああ、でも。どうして今、そんな光景を思い出したのかしら?
「……我欲で人を殺したことなんてないわ」
無機質に一言唇から落とすと同時に、じくりとこめかみの奥が熱を持つ。
「ンン~……レディ、もう一度だけ問います。私利私欲のために、人を殺したことはありますか?」
「さっきも言ったでしょう? 私利私欲のために殺人を犯したりなんてしていないわよ」
表情も変えずに淡々と言い返せば、男は口元の笑みを深めて首を傾けた。その拍子に、片側だけ伸ばされた桃色の髪がわずかに揺れる。
「嗚呼、レディ……なんと嘆かわしい」
抑揚の無い低音が言葉を紡ぎ、海色の瞳に射抜かれた瞬間──ぞわりと全身が粟立った。
(どうして?)
……私は何か、忘れている?
「ンンー……では、質問を変えましょう」
二拍分の時間を使い一旦目線を他所へ逸らしてから、返事の代わりに男の顔を一瞥する。
「レディは、犯した罪を省みた事はありますか? 自分は正しくない人間であると、一度でも悔い改めた覚えはありますか?」
とても、とても。宗教的な問いかけだわ。
私は誰も信仰していないし、存在しないキリストや仏陀に『罪悪感』なんてイカレた感情を抱いたことはない。当然、赦しを乞う必要性も感じない。
皆、いったい何に怯えて過ごしているのかしら?ああ、だって。おかしいじゃない。
「……私はいつだって正しいもの」
「ンン~?」
「私は正しいし、いつだって選択を間違えないわ。台詞も、仕草も、全て間違えたりしない。だって『アリス』だもの」
私はもう、お母様に嘲られて生きる惨めな脇役なんかじゃない。主人公の『アリス』で、この国──ワンダーランドに居る限り絶対の正義であり、唯一の神聖で、尊崇の対象だ。故に、ワンダーランドはアリスにとっての楽園であるべきなのだ。
ああ、お母様。教えてちょうだい。私の言っていることはおかしいかしら?
「……アリスはいつでも正しいの。私の発言を、行動を。間違っていると認識する方が間違っているのよ」
そうよ、そうだわ。私に非がある事なんて、万に一つもありえない。間違いが起きたとしても、悪いのは周囲であって私じゃないわ。
人に罪をなすりつけようとする“いけない子”は、罰を受けても仕方がない。
「貴方もそう思うでしょう? ねぇ、ベルゼブブ」
確信的な五文字を口にした瞬間、真っ黒い巨体を持った目の前の男は整った眉を吊り上げ、獅子の尾をひらりと揺らしてからおもむろに項垂れる。
その拍子にシルクハットが頭からストンと離れると、山羊によく似た二本の角が顔を出した。
「ンッフ……フフッ、ンフッ、ンッフフッ。嗚呼、嗚呼。嗚呼、今では懐かしい呼び名です」
ソレが喉の奥で笑うたび、丸められた黒い背が耐え切れないと言いたげに小さく震える。
次第に、キャビネットの中で大人しく飾られていた白い食器達が全てカタカタと揺れ始め、全身を包む違和感に頭の奥で警笛が鳴り響くけれど、金縛りにでもあったかのように体が言うことを聞かずその場から動けない。
「イカレ帽子屋、底無し帽子、蝿の王、ベルゼブブ、ベルゼビュート、バアル……様々呼ばれてきましたが、小生は此処において役割を違えた事は一度たりともありません」
ゆらり。巨体は優雅に立ち上がり、ギラつく青い双眸に私を映す。
ガタガタと踊り狂う白い食器達に合わせて、建物全体が大きく左右に波打った後、縦方向にドンと跳ねて大地は再び静まった。だが、十八年間生きてきて地震を一度も経験していない私にとって、その事象は『恐怖心』たるものを煽り立てるのには十分すぎた。
ああ、声が出せない。全身が震える。今すぐこの場から逃げ出したい。助けて、と叫びたくなる。
「ええ、ええ。ええ! 小生は──『変成王』を全うしますとも」
(……ああ、そうだわ。そういえば、こんな話もあったわね)
──……“三”は神の世界を表す。そして、悪魔は“三”の数字を好む。
どういうこと?
何が起きたの?
誰の仕業?
そうして『考える』事だけは可能だが、脳みそや精神がパニックを起こしたわけではない。……否。今だに気味が悪いほど落ち着いている頭蓋骨の中身と心臓は、まるで別の誰かの物になってしまったかのようだ。
今の一瞬で移植されたり魂が入れ替わった覚えはないのだから、間違いなく私の一部分だというのに。
「ンッフフ……レディ、まずは座って話しをしましょう?」
喉の奥で笑ったソレが黒手袋に包まれた手でパチンと指を鳴らせば、私の身体は自分の意思と関係無しに歩みを進めてつい先ほどまで座っていた椅子の元へ戻り勝手に腰を下ろす。
そして、納得のいかない私を尻目に長身の男はスキップするような足取りで真正面の席へ座り、片手に持っていた自分用らしきマグカップをドンッとテーブルに置いた。
「さてさて。小生はまずレディに聞かなければならない事があるのです。ンン~……端的に申しますね。質問に『素直に』答えてくださいませ」
──……聞かなければならないこと。質問に素直に答えろ。
自分の中だけで話の流れを理解しているらしいその男は、左手でマグカップの取っ手をしっかりと握りしめたまま、斜め上空に視線を投げて右手をひらひらと振る。
その挙動は、まるで大きな独り言を漏らしている精神患者のようだ。
「……質問?」
──……ああ、驚いた。今この瞬間までどう足掻いても固く閉められていた喉の蛇口は、唇を持ち上げた瞬間にキュッと開かれて声が出せるようになっている。
私の反復を聞いて男はゆるりと顎を引き、テーブルの中心に置かれていたシュガーポットを右手で自分の方へ引き寄せてから、ガラス製の蓋をもう片方の手で持ち上げたまま角砂糖をボトボトとマグカップの中に投下し始めた。
四個、六個、八個……恐らく相当の甘党なのだろう。角砂糖を十個ほど投下した頃、彼はようやくシュガーポットに蓋をして、底に沈んだものをティースプーンでザリザリとかき混ぜる。
かさの増したコーヒーは表面張力だけでなんとかマグカップの中に収まっており、焦げ茶色の液体がどれだけ甘いのか想像しただけで胃がもたれそうだ。
思わず顔を顰める私を尻目に、男は貼り付いたような笑顔を浮かべて三回大きく頷く。
「ええ、ええ。本来、小生に任されている仕事は“そう”なのですよ。ンフフッ、ではお聞きします」
(改まって一体なにを、)
「レディは、我欲で人を殺したことがありますか?」
チリン。耳の奥で、鈴の音がこだまする。
「……」
ふと、鮮明に蘇る『ある日』の記憶。
ふわりと揺らぐレースのカーテン、窓から入り込む生温い風の匂い。夏の陽光に照らされてキラキラ光るお母様のブロンドヘアーはひどく眩しくて。
膝に置かれている本がぱらりとページを変えるのも気にせずに、空色の瞳は優しく私を映していた。
『──アリ……、今日は暑いわね。湖にでも行ってみましょうか』
窓辺の椅子に腰掛けて穏やかに微笑む彼女の姿は、まるで一枚の絵画のようだった。
ああ、でも。どうして今、そんな光景を思い出したのかしら?
「……我欲で人を殺したことなんてないわ」
無機質に一言唇から落とすと同時に、じくりとこめかみの奥が熱を持つ。
「ンン~……レディ、もう一度だけ問います。私利私欲のために、人を殺したことはありますか?」
「さっきも言ったでしょう? 私利私欲のために殺人を犯したりなんてしていないわよ」
表情も変えずに淡々と言い返せば、男は口元の笑みを深めて首を傾けた。その拍子に、片側だけ伸ばされた桃色の髪がわずかに揺れる。
「嗚呼、レディ……なんと嘆かわしい」
抑揚の無い低音が言葉を紡ぎ、海色の瞳に射抜かれた瞬間──ぞわりと全身が粟立った。
(どうして?)
……私は何か、忘れている?
「ンンー……では、質問を変えましょう」
二拍分の時間を使い一旦目線を他所へ逸らしてから、返事の代わりに男の顔を一瞥する。
「レディは、犯した罪を省みた事はありますか? 自分は正しくない人間であると、一度でも悔い改めた覚えはありますか?」
とても、とても。宗教的な問いかけだわ。
私は誰も信仰していないし、存在しないキリストや仏陀に『罪悪感』なんてイカレた感情を抱いたことはない。当然、赦しを乞う必要性も感じない。
皆、いったい何に怯えて過ごしているのかしら?ああ、だって。おかしいじゃない。
「……私はいつだって正しいもの」
「ンン~?」
「私は正しいし、いつだって選択を間違えないわ。台詞も、仕草も、全て間違えたりしない。だって『アリス』だもの」
私はもう、お母様に嘲られて生きる惨めな脇役なんかじゃない。主人公の『アリス』で、この国──ワンダーランドに居る限り絶対の正義であり、唯一の神聖で、尊崇の対象だ。故に、ワンダーランドはアリスにとっての楽園であるべきなのだ。
ああ、お母様。教えてちょうだい。私の言っていることはおかしいかしら?
「……アリスはいつでも正しいの。私の発言を、行動を。間違っていると認識する方が間違っているのよ」
そうよ、そうだわ。私に非がある事なんて、万に一つもありえない。間違いが起きたとしても、悪いのは周囲であって私じゃないわ。
人に罪をなすりつけようとする“いけない子”は、罰を受けても仕方がない。
「貴方もそう思うでしょう? ねぇ、ベルゼブブ」
確信的な五文字を口にした瞬間、真っ黒い巨体を持った目の前の男は整った眉を吊り上げ、獅子の尾をひらりと揺らしてからおもむろに項垂れる。
その拍子にシルクハットが頭からストンと離れると、山羊によく似た二本の角が顔を出した。
「ンッフ……フフッ、ンフッ、ンッフフッ。嗚呼、嗚呼。嗚呼、今では懐かしい呼び名です」
ソレが喉の奥で笑うたび、丸められた黒い背が耐え切れないと言いたげに小さく震える。
次第に、キャビネットの中で大人しく飾られていた白い食器達が全てカタカタと揺れ始め、全身を包む違和感に頭の奥で警笛が鳴り響くけれど、金縛りにでもあったかのように体が言うことを聞かずその場から動けない。
「イカレ帽子屋、底無し帽子、蝿の王、ベルゼブブ、ベルゼビュート、バアル……様々呼ばれてきましたが、小生は此処において役割を違えた事は一度たりともありません」
ゆらり。巨体は優雅に立ち上がり、ギラつく青い双眸に私を映す。
ガタガタと踊り狂う白い食器達に合わせて、建物全体が大きく左右に波打った後、縦方向にドンと跳ねて大地は再び静まった。だが、十八年間生きてきて地震を一度も経験していない私にとって、その事象は『恐怖心』たるものを煽り立てるのには十分すぎた。
ああ、声が出せない。全身が震える。今すぐこの場から逃げ出したい。助けて、と叫びたくなる。
「ええ、ええ。ええ! 小生は──『変成王』を全うしますとも」
(……ああ、そうだわ。そういえば、こんな話もあったわね)
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