アリスが死んだ不思議の国には神が住む

百崎千鶴

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第八話 芋虫さん

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(気の毒……?)

 その言葉に隠された真意が見えず首をかしげるが、彼はそんな私を気に留める様子もなく、踵を返してどこかに向かって歩き始めてしまう。

「あのっ……! 待って……!」

 慌ててその後を追えば、不思議な彼はビルキノコの笠からさらに生えているテーブルサイズのキノコに優雅な動きで腰かけ、足を組み水煙草のホースを手首にくるりと絡めて呑気に吸い始めてしまった。

「ねえったら……!」
「……! 人の子は、まだ居たのか……?」

 先程から何度も声をかけていたのだけれど、彼の耳には一切届いていなかったらしい。
 驚いた様子で丸められた黒い瞳をまっすぐに見つめ返し、口元に笑みを作りながら言葉を紡ぐ。

「えっと……聞きたいことがあるのだけど、」
「……聞きたい、こと……?」

 彼が首をかしげると、その耳を飾るピアスのチェーンがシャランと軽快な音を立てて煌めいた。

「ええ……あっ、そうだわ。まず、私は貴方を何と呼べばいいの? お名前は?」
「……名前……? 我は……『芋虫』と呼ばれている……故に、人の子も……我を、そう呼ぶといい……」

 ――……芋虫。
 簡単で単純な『名前』だからこそ、気になってしまう事がある。

「貴方、たしかに髪は薄緑色だけれど……どこからどう見ても人間よ? どうして『芋虫』と呼ばれているの?」
「……ふむ……人の子は、おかしな話をする……二足歩行をしていれば『人間』なのだろうか……? それとも……言語を理解すれば『人間』なのか……? では……二足歩行する『猿』や『ペンギン』と呼ばれる生物は、全て『人間』で……言語を使う『オウム』と呼ばれる生物もまた、『人間』という事になってしまう……それら全ての明確な違い、生物の分類は……見た目では無く……自身が己を『何』と認識しているか、ではないだろうか……?」
「……あの、」
「……我は……自分を『芋虫』という生物であると、認識し……我と、過去に口を聞いた他者もまた……共通の意識を持っている……故に、我を『芋虫』だと定義する条件は……」
「わかった、わかったわ! そうね、芋虫さんね! 改めてよろしく!」

 なんだか……とんでもなく面倒臭い人に出会ってしまったらしく、先が思いやられてしまった。
 ため息を吐き落としてしまいたいのをぐっと堪え、自称“芋虫”さんへ改めて笑顔を向ける。

「もう一つ聞きたいのだけれど……『気の毒だ』って、どういう意味かしら?」
「……うん……?」

 芋虫さんは私の言葉を聞くなりぽかんと間抜けに口を開けたまま動きを止め、少しの間を置いて二、三度まばたきを繰り返してからのんびりとした仕草で水煙草を吸い、輪っか状の煙をポワポワと吐き出して見せた。

「……ふむ……気の毒、とは……そうだな……可哀想、同情……他にも……気がかり、という意味もあったか……」
「えっと……ごめんなさい? 言葉の意味は知っているから大丈夫よ。そうじゃなくて、どうして私は貴方に『気の毒だ』と言われたの?」
「……? 我は……人の子に、そう言った覚えはない……」
「……」

 はいはいわかりましたもういいですさようなら、と言ってしまいたくなる。
 話が全く噛み合わないというのは、短時間であれどそれほどまでにストレスを増長させるものなのだ。

「ええっと、そうね……芋虫さん? 貴方は、どうして『気の毒だ』って言葉を使ったのかしら? 何か理由があるでしょう?」
「……それは、単純な話だろう……我がそう感じたから、口に出した……それだけのことだ……」

 ああ……何か、手軽に火を起こせそうなものはないかしら?
 私は今とてつもなく、このビルキノコを焼き払ってしまいたい衝動に駆られているわ。

「……貴方と話していると気が狂いそうになる、って言われたことはない?」
「……うん……? いや……今、現在まで……そのような言葉を、浴びせられた経験は……無い……」
「そう、それじゃあ私が一番乗りね。貴方と話していると気が狂いそうになるわ」
「……!?」

 意外なことに、芋虫さんは見るからにショックを受けたような顔をして口をつぐみ、水煙草のホースを指先でくるくるといじりながら「……そう、か……」と短く呟き肩を落とした。
 どうせまた素っ頓狂な受け答えでかわされてしまうだけだろうと思っていたため、その様子に少しだけ困惑してしまう。

「えっ、と……あの。芋虫さんは、どうしてこんな所に居たの?」
「……クッキーくん……それでは少し、語弊がある……我は、」
「話を遮ってごめんなさい? クッキーくん、って……もしかして私のことかしら?」
「……ああ、その通り……人の子は、クッキー色の髪をしている……」

 はじめに私は「アリス」と名乗ったのにこの短時間でもう忘れてしまったの?と問い詰めたくなる衝動をぐっとこらえ、愛想笑いを浮かべながら納得する“ふり”をした。
 先ほどのように、関係ない方向へ話が延々と脱線してしまうととても面倒くさい。

「……我は、好んでここに“居た”わけではない……ここにしか“居られない”のだ……」
「……? ここにしか居られないって……このキノコの上?」

 私の問いに対し、芋虫さんはゆるゆると首を左右に振ってから水煙草のマウスピースを口に咥えた。
 そして、深呼吸の要領で大きく息を吸い口を離すと、器用にドーナツ型の煙を吐き出して見せる。

「……我は……この森から出られない……」
「えっ? どうして?」
「……ふむ……」

 ふいと目を逸らした彼は少しの間なにか考えるようなそぶりを見せた後、灰受け皿にマブサムを置いて長い足を組み替えながらこちらへ向き直った。

「……遡れば……我と、遅刻ウサギの話から始まる……」
「遅刻ウサギ?」
「……なんと言ったか……ああ、そうだ……白ウサギ、と言う名だ……」
「ああ……!」

 どうやらこの芋虫さんは、他人に独特なニックネームをつける癖があるらしい。

「……まだ、この国に来て日が浅い頃……我は、この国の『成り立ち』を……運良く“る”事ができたのだが……その際に、我は『まるで、兎の子こそがこの国の王……いや、まさに神のようだ』と……素直な感想を述べた……」

 思い出にでも浸っているのか、長い睫毛を静かに伏せる芋虫さん。

「……すると……遅刻ウサギは、素晴らしい剣幕で怒り狂い……赤の王に、我に処罰を与えてほしいと願った……」
(赤の王……?)
「……赤の王は、『言い得て妙だ』と……我の発言を、気に入った様子ではあったが……遅刻ウサギが、自らの意思で赤の王に指図するなど……滅多に無い事だ……それほどまでに彼の怒りは濃く、深く、強いのだと……聡明な赤の王は、理解し……このまま我を見逃しては、遅刻ウサギが抱える怒りの行き場を失い……哀れだとでも思ったのだろう……そして、」

 そこで一旦言葉を切った彼は、ゆっくりと瞼を持ち上げ漆黒の双眸に私を映すと、右手で人差し指を立てながら言葉を紡いだ。

「……赤の王は、我に『呪い』をかけた……この森から、もう二度と出られないように……」
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