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第71編「全然足りない」※

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「っん、……っ」


 言葉を発する暇もなく、彼の大きな手で顎を優しく掴まれたまま何度か角度を変えて口付けが落とされる。空いているもう片方の手は恋幸の細い腰を抱いており、後ずさることさえ許さない。
 とは言え、ただたわむれのように裕一郎の薄い唇が恋幸の唇をむのみで、3分ほど時間が経過しても『それ以上の事』は何もしてこなかった。

 裕一郎はいつも『そう』だ。恋幸が嫌がる事は勿論、自身の欲を優先させて無理やり触れる事も、行為を催促さいそくする発言もしない。
 常に心から恋幸を想い、宝物のように大切に扱ってくれている。


(ゆ、いちろ、さま……?)


 けれど、思考が上手く働かなくなってしまった。

 どんな状況でもまず先に『キスをしてもいいですか?』と許可を求めてきた理性的な恋人が、今は本能のままに唇を重ねている。
 交際が始まってから……いや、出会ってから初めて明確に見せつけられた“男性”の部分に、心の中が愛おしさでいっぱいになり脳が甘く痺れてしまう。


「……っは、……っ」


 名残惜しそうにゆっくりと唇が離れ、浅く息継ぎをしながら少し上にある裕一郎の顔を静かにあおぎ見た。


「……嫌? もうやめてほしい?」


 そう問いかけてくる彼は自嘲じちょうするような微笑みをたたえており、大きな手のひらが愛おし気に頬を撫でる。

 優しい彼のことだから、無理やりキスをした自分自身を心の中で叱責しっせきしているのかもしれない。
 恋幸はそんなことを考えてちくりと胸を痛めつつ、ゆるゆると首を左右に振って裕一郎の言葉に否定を示した。


「倉本さん、もっと触って?」


 嫌なわけがない、やめてほしいわけがない。
 裕一郎に恋をしてからの恋幸はどこまでも欲深で、『もっと』と求めてしまうたびに自己嫌悪する。

 けれど、裕一郎になら本心を口にしても大丈夫だと理解できていた。彼なら許してくれると、傲慢ごうまんになれてしまう。


「……“人をときめかせるにも限度というものがある”。貴女の言っていた事が、今ならよく分かります」


 眉根を寄せてうなるように言葉を落とした裕一郎は、恋幸の返事を待たずに再度唇を塞ぎ、片手で恋幸の腰を抱いたまま自分ごとぐいと体の向きを変えると、恋人の薄い背中を部屋の壁に押し付けて舌先で唇を舐める。
 言わんとすることを瞬時に理解した恋幸はおずおずと口を開き、彼の熱を口内に迎え入れた。


「……っは、っ、んん……っ、」


 ぴちゃ、と舌が絡み合うたびに発する音は、何度聞いても慣れずひたすら羞恥心を掻き立てる。

 顔に熱が集まるのを自覚しながらも必死に応えようとする恋幸を見て、裕一郎は優しく目を細めて彼女の顎から片手を離した。
 そして『大丈夫ですよ』と言う代わりに頭を撫でた後、一旦顔を離してわずらわしげに眼鏡を外し、そばにある棚の上へ放り投げる。

 はぁと息を吐いてからもう一度唇を重ねようとした時、躊躇ためらいがちに伸びてきた恋幸の小さな手が裕一郎の着流しをきゅっとつまんだ。


「ん? どうしました?」
「あの……倉本さんの誕生日、教えてください」


 予想外の方向から投げられた空気違いの問いに笑ってしまいそうになるが、裕一郎は深く息を吸って笑いを飲み込み恋幸の前髪を指先で撫でる。


「9月21日です」


 それがどうかしましたか? と問うより先に、目の前で顔を赤く染めている恋人が「よかった、まだ過ぎてなかった」と言ってゆるやかに口角を上げるものだから、裕一郎の中にポンと悪戯心いたずらごころが湧き上がった。


「……もしかして、誕生日プレゼントに『恋幸さん』をくれるんですか?」
「えっ、」


 てっきり「違います! からかわないでください!」と反論されるものだと思っていたが、予想に反して恋幸は引き結んだ唇を恥ずかしそうに震わせてから眉で八の字をえがく。


「わ、私はもう倉本さんのものだと思ってるんです、けど……あの……その方が、倉本さんは嬉しい? だったら、します」
「……自分が何を言っているのか分かっていますか?」


 恋幸ももう子供ではない。自分が今、暗に『誕生日に貴方に抱かれます』と宣言してしているのだと、裕一郎からの忠告を受けずともきちんと頭で分かっている。

 わずかに目を伏せて「はい」と顎を引けば、三拍分の間を開けて小さなため息が降った。


「小日向さん。冗談です、と誤魔化すなら今の内ですよ」
「……本気です。今日、触ってほしいって言ったのも。全部」


 大胆な発言している自覚はあって、痛いほどに心臓が跳ねている。
 着流し越しに指先から伝わる鼓動が彼のものであると気づいた瞬間――たくましい腕に抱き寄せられて、息継ぎがワンテンポ遅れてしまった。


「……っく、倉本さん? 何もしないの……?」
「小日向さんはお馬鹿さんですか?」
「えっ!?」


 つい先ほどまでとは打って変わって抑揚よくようのない声音で淡々たんたんつむがれたその台詞に驚き、恋幸は弾かれたように顔を上げて裕一郎を仰ぎ見る。
 真っ直ぐに彼女を映す青い瞳の奥にははっきりとした熱がこもっており、無意識のうちに息を呑んで唇を引き結んだ。


「……可愛い恋人にここまでお膳立ぜんだてされて、何もせずに『はい、おやすみなさい』だなんて言えるわけがないでしょう?」


 反論を考える前に唇を塞がれ、後頭部を片手で固定されたままちゅ、ちゅと音を立てて何度か短いキスを落とされる。

 そして、わずかに開いた唇の隙間を彼の熱い舌が割って入り、反射的に逃げようとした恋幸の舌をするりと絡め取った。
 優しくも激しく口内を深くむさぼられ、上顎うわあごの裏を舌先でなぞられるとぞわぞわとした感覚が背骨を抜けて肩が跳ねる。


「んんっ、ん、っはぁ……っ」
「は……」


 唇が離れると、二人の間に銀色の橋がかかり羞恥心をつうっとなぞった。

 裕一郎は親指で恋幸の口についた唾液をぐいとぬぐってから背中に片手を回し、自分の方へ抱き寄せてぽんぽんと優しく叩く。


「大丈夫、痛い事や怖い事は何もしませんよ」
「うん」


 胸元に顔をり寄せた恋幸がこくりと首を縦に振ったのを確認して、少し下にある頭へキスを一つ落とした裕一郎は低く囁いた。


「では……恋幸さん。上手になってくださいね」
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