70 / 72
第70編「気にしていないわけがないでしょう?」
しおりを挟む
お風呂を済ませてパジャマに着替え、床の間でテレビを見ていた裕一郎に「お風呂、先にいただきました。次どうぞ!」と声をかけてから一旦自室へ戻り、ドライヤーを終えた後。
恋幸は時間差でやって来た大きな羞恥心の波に飲まれていた。
(アァア……ッ! 私ったらなんてことを! でもびっくりした顔の裕一郎様、可愛かったな……じゃなくて! どんな顔で話をしよう!?)
部屋の中心で正座したまま頭の中で様々な対応シュミレーションを繰り返し、パターンKまで用意できた頃。小さな足音が耳に届き、勢いよくそちらに目をやる。
それと同時に、低く穏やかな声が「小日向さん」と名前をなぞり、恋幸は慌てて立ち上がると声のした方へ駆け寄って襖を開いた。
そう。いつものごとく後先を何も考えずに開いたのだ。
「はっ、……ッ!!」
襖の向こう側――廊下に立っていた声の主は、とうぜん裕一郎である。
いつもはサイドパートで綺麗にセットされている前髪を真っ直ぐに下ろし、男性らしく筋の浮き出る首筋にじわりと汗を滲ませて、着流しを身に纏ったお風呂上がりほやほやの“倉本裕一郎”だ。
そんな彼をほぼゼロ距離で浴びた恋幸が平常心でいられるはずもなく、恋人の整った顔を仰ぎ見たままフクロウのように「ほーっ……」と鳴き声を漏らした。かと思えば、両手で左胸を押さえて「過剰接種!!」と唸る。
「うん?」
「なっ、なんでもないです……っ」
「それなら良いのですが……ケーキ、食べませんか?」
「……!! 食べます!!」
◇
「お誕生日、おめでとうございます」
「えへへ、ありがとうございます」
帰宅した際、裕一郎が冷蔵庫へしまっていた箱にはバースデーケーキがワンホール入っていた。
テーブルの上に現れたそれは真っ白なクリームを全身に纏っており、円形の側面からはミルフィーユのように生地が何層にも重なっていることがありありと伺える。てっぺんには惜しみないほど苺が飾り付けられており、隙間に落とされたホイップが九つ等間隔に寄り添っている。
腰を下ろす場所を無くしたプレートは苺に支えられて中心に寝そべったまま『Happy Birthday』と恋幸に伝えていた。
「ロウソク、ふーってしたいですか?」
2と5の形を模したロウソク入りの小袋を片手に、裕一郎はわずかに口の端を引いてからかうような口調で問う。
本来であれば頬を膨らませてプンプンとわざとらしく怒って見せたい場面であるが、
(ふ、“ふーってしたいですか?”ですって……!? 待って待って、可愛すぎて無理すぎますが!? いや、無理じゃない!! 裕一郎さま可愛い!!)
倉本裕一郎限界オタクの恋幸は、彼の発した何気ない一言を延々と頭の中でループさせて『萌え』の感情に浸っていた。
とは言え、それもほんの十数秒間の出来事だ。
瞼を閉じて大きな深呼吸を一つ済ませた恋幸は、改めて彼の青い瞳に視線を向ける。
――……からかわないでください!
「ふーって言う裕一郎さま可愛い!!」
「ありがとうございます。おそらく本音と建前が逆になっていますよ」
◇
おかしい。『あんな事』があったにも関わらず、ケーキを食べ始める前も食べ終えた後も、裕一郎の態度は一切変わらない。
恋幸が彼の心情を案ずるのは見当違いかもしれない。しかし、あまりにも変わらなさすぎていっそ不安になってくる。
(気にしてないってことかな……裕一郎さま、すごく大人っぽいもんね。さすがだなぁ)
ケーキを食べ終えた後で歯磨きを済ませている間に、幸せいっぱいの誕生日にも終わりが近づいていた。
(あれ?)
おやすみなさいと言うために立ち寄った床の間は灯りが消えており、つい先ほどまでテレビを見ていたはずの裕一郎がもうそこには居ないことを告げている。
彼は恋幸より先に歯磨きを終えていた。きっと自室へ戻ったのだろう。
目的地を変更して、高鳴る心臓を落ち着かせながらひとり廊下を歩く。暗所恐怖症の恋幸のために、夜間であっても彼女が起きている間は廊下の電光は点けられたままだ。
すっかり慣れた道順を行き、裕一郎の部屋へ繋がる襖の前に立つ。声をかけようとした瞬間、
「小日向さん? どうかしましたか?」
さざなみのように心地良い声が恋幸の耳を撫でた。
「えっと、おやすみなさいって言いたくて」
「ああ、そうでしたか。おやすみなさい」
(え?)
改めて抱く、小さな違和感。
やはりおかしい。よほどのことがない限り裕一郎はいつも扉を開けて、目をまっすぐに見て、大樹のように穏やかに微笑んで挨拶を交わしてくれる。こんな風に適当に済ませるような恋人ではなかった。
「……あの、」
「……はい」
「ここ、開けてもいいですか? ……倉本さんの顔、見たいです」
「……」
自信の無さから小さくなる恋幸の声は、静まり返った夜でなければ雑音にかき消されてしまっていただろう。
三拍分の間を置いてから、すっすっと畳を擦る微かな音が耳に届く。それからすぐに襖が開かれ、愛しい人が姿を現した。
「あ、」
名前を呼ぶ暇もなく、大きな手に腕を掴まれてぐいと引っ張り寄せられる。
裕一郎の逞しい胸に抱き留められた事に気づくと同時に、背後でトンと木材同士のぶつかり合う音がした。
(ふすま、)
襖を閉められた。
他人事のように恋幸がそう理解した瞬間、長い指に顎をすくい取られてほとんど強制的に顔が上を向く。
「……どこまで私を煽ったら気が済むんですか?」
低く紡ぎ落とされた言葉に対して反論しようと開いた唇は、甘い熱に塞がれてしまった。
恋幸は時間差でやって来た大きな羞恥心の波に飲まれていた。
(アァア……ッ! 私ったらなんてことを! でもびっくりした顔の裕一郎様、可愛かったな……じゃなくて! どんな顔で話をしよう!?)
部屋の中心で正座したまま頭の中で様々な対応シュミレーションを繰り返し、パターンKまで用意できた頃。小さな足音が耳に届き、勢いよくそちらに目をやる。
それと同時に、低く穏やかな声が「小日向さん」と名前をなぞり、恋幸は慌てて立ち上がると声のした方へ駆け寄って襖を開いた。
そう。いつものごとく後先を何も考えずに開いたのだ。
「はっ、……ッ!!」
襖の向こう側――廊下に立っていた声の主は、とうぜん裕一郎である。
いつもはサイドパートで綺麗にセットされている前髪を真っ直ぐに下ろし、男性らしく筋の浮き出る首筋にじわりと汗を滲ませて、着流しを身に纏ったお風呂上がりほやほやの“倉本裕一郎”だ。
そんな彼をほぼゼロ距離で浴びた恋幸が平常心でいられるはずもなく、恋人の整った顔を仰ぎ見たままフクロウのように「ほーっ……」と鳴き声を漏らした。かと思えば、両手で左胸を押さえて「過剰接種!!」と唸る。
「うん?」
「なっ、なんでもないです……っ」
「それなら良いのですが……ケーキ、食べませんか?」
「……!! 食べます!!」
◇
「お誕生日、おめでとうございます」
「えへへ、ありがとうございます」
帰宅した際、裕一郎が冷蔵庫へしまっていた箱にはバースデーケーキがワンホール入っていた。
テーブルの上に現れたそれは真っ白なクリームを全身に纏っており、円形の側面からはミルフィーユのように生地が何層にも重なっていることがありありと伺える。てっぺんには惜しみないほど苺が飾り付けられており、隙間に落とされたホイップが九つ等間隔に寄り添っている。
腰を下ろす場所を無くしたプレートは苺に支えられて中心に寝そべったまま『Happy Birthday』と恋幸に伝えていた。
「ロウソク、ふーってしたいですか?」
2と5の形を模したロウソク入りの小袋を片手に、裕一郎はわずかに口の端を引いてからかうような口調で問う。
本来であれば頬を膨らませてプンプンとわざとらしく怒って見せたい場面であるが、
(ふ、“ふーってしたいですか?”ですって……!? 待って待って、可愛すぎて無理すぎますが!? いや、無理じゃない!! 裕一郎さま可愛い!!)
倉本裕一郎限界オタクの恋幸は、彼の発した何気ない一言を延々と頭の中でループさせて『萌え』の感情に浸っていた。
とは言え、それもほんの十数秒間の出来事だ。
瞼を閉じて大きな深呼吸を一つ済ませた恋幸は、改めて彼の青い瞳に視線を向ける。
――……からかわないでください!
「ふーって言う裕一郎さま可愛い!!」
「ありがとうございます。おそらく本音と建前が逆になっていますよ」
◇
おかしい。『あんな事』があったにも関わらず、ケーキを食べ始める前も食べ終えた後も、裕一郎の態度は一切変わらない。
恋幸が彼の心情を案ずるのは見当違いかもしれない。しかし、あまりにも変わらなさすぎていっそ不安になってくる。
(気にしてないってことかな……裕一郎さま、すごく大人っぽいもんね。さすがだなぁ)
ケーキを食べ終えた後で歯磨きを済ませている間に、幸せいっぱいの誕生日にも終わりが近づいていた。
(あれ?)
おやすみなさいと言うために立ち寄った床の間は灯りが消えており、つい先ほどまでテレビを見ていたはずの裕一郎がもうそこには居ないことを告げている。
彼は恋幸より先に歯磨きを終えていた。きっと自室へ戻ったのだろう。
目的地を変更して、高鳴る心臓を落ち着かせながらひとり廊下を歩く。暗所恐怖症の恋幸のために、夜間であっても彼女が起きている間は廊下の電光は点けられたままだ。
すっかり慣れた道順を行き、裕一郎の部屋へ繋がる襖の前に立つ。声をかけようとした瞬間、
「小日向さん? どうかしましたか?」
さざなみのように心地良い声が恋幸の耳を撫でた。
「えっと、おやすみなさいって言いたくて」
「ああ、そうでしたか。おやすみなさい」
(え?)
改めて抱く、小さな違和感。
やはりおかしい。よほどのことがない限り裕一郎はいつも扉を開けて、目をまっすぐに見て、大樹のように穏やかに微笑んで挨拶を交わしてくれる。こんな風に適当に済ませるような恋人ではなかった。
「……あの、」
「……はい」
「ここ、開けてもいいですか? ……倉本さんの顔、見たいです」
「……」
自信の無さから小さくなる恋幸の声は、静まり返った夜でなければ雑音にかき消されてしまっていただろう。
三拍分の間を置いてから、すっすっと畳を擦る微かな音が耳に届く。それからすぐに襖が開かれ、愛しい人が姿を現した。
「あ、」
名前を呼ぶ暇もなく、大きな手に腕を掴まれてぐいと引っ張り寄せられる。
裕一郎の逞しい胸に抱き留められた事に気づくと同時に、背後でトンと木材同士のぶつかり合う音がした。
(ふすま、)
襖を閉められた。
他人事のように恋幸がそう理解した瞬間、長い指に顎をすくい取られてほとんど強制的に顔が上を向く。
「……どこまで私を煽ったら気が済むんですか?」
低く紡ぎ落とされた言葉に対して反論しようと開いた唇は、甘い熱に塞がれてしまった。
0
お気に入りに追加
74
あなたにおすすめの小説
竜人のつがいへの執着は次元の壁を越える
たま
恋愛
次元を超えつがいに恋焦がれるストーカー竜人リュートさんと、うっかりリュートのいる異世界へ落っこちた女子高生結の絆されストーリー
その後、ふとした喧嘩らか、自分達が壮大な計画の歯車の1つだったことを知る。
そして今、最後の歯車はまずは世界の幸せの為に動く!
不能と噂される皇帝の後宮に放り込まれた姫は恩返しをする
矢野りと
恋愛
不能と噂される隣国の皇帝の後宮に、牛100頭と交換で送り込まれた貧乏小国の姫。
『なんでですか!せめて牛150頭と交換してほしかったですー』と叫んでいる。
『フンガァッ』と鼻息荒く女達の戦いの場に勢い込んで来てみれば、そこはまったりパラダイスだった…。
『なんか悪いですわね~♪』と三食昼寝付き生活を満喫する姫は自分の特技を活かして皇帝に恩返しすることに。
不能?な皇帝と勘違い姫の恋の行方はどうなるのか。
※設定はゆるいです。
※たくさん笑ってください♪
※お気に入り登録、感想有り難うございます♪執筆の励みにしております!
公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-
猫まんじゅう
恋愛
そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。
無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。
筈だったのです······が?
◆◇◆
「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」
拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」
溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない?
◆◇◆
安心保障のR15設定。
描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。
ゆるゆる設定のコメディ要素あり。
つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
危害を加えられたので予定よりも早く婚約を白紙撤回できました
しゃーりん
恋愛
階段から突き落とされて、目が覚めるといろんな記憶を失っていたアンジェリーナ。
自分のことも誰のことも覚えていない。
王太子殿下の婚約者であったことも忘れ、結婚式は来年なのに殿下には恋人がいるという。
聞くところによると、婚約は白紙撤回が前提だった。
なぜアンジェリーナが危害を加えられたのかはわからないが、それにより予定よりも早く婚約を白紙撤回することになったというお話です。
【完結】騎士団長の旦那様は小さくて年下な私がお好みではないようです
大森 樹
恋愛
貧乏令嬢のヴィヴィアンヌと公爵家の嫡男で騎士団長のランドルフは、お互いの親の思惑によって結婚が決まった。
「俺は子どもみたいな女は好きではない」
ヴィヴィアンヌは十八歳で、ランドルフは三十歳。
ヴィヴィアンヌは背が低く、ランドルフは背が高い。
ヴィヴィアンヌは貧乏で、ランドルフは金持ち。
何もかもが違う二人。彼の好みの女性とは真逆のヴィヴィアンヌだったが、お金の恩があるためなんとか彼の妻になろうと奮闘する。そんな中ランドルフはぶっきらぼうで冷たいが、とろこどころに優しさを見せてきて……!?
貧乏令嬢×不器用な騎士の年の差ラブストーリーです。必ずハッピーエンドにします。
新婚なのに旦那様と会えません〜公爵夫人は宮廷魔術師〜
秋月乃衣
恋愛
ルクセイア公爵家の美形当主アレクセルの元に、嫁ぐこととなった宮廷魔術師シルヴィア。
宮廷魔術師を辞めたくないシルヴィアにとって、仕事は続けたままで良いとの好条件。
だけど新婚なのに旦那様に中々会えず、すれ違い結婚生活。旦那様には愛人がいるという噂も!?
※魔法のある特殊な世界なので公爵夫人がお仕事しています。
【完結】うっかり異世界召喚されましたが騎士様が過保護すぎます!
雨宮羽那
恋愛
いきなり神子様と呼ばれるようになってしまった女子高生×過保護気味な騎士のラブストーリー。
◇◇◇◇
私、立花葵(たちばなあおい)は普通の高校二年生。
元気よく始業式に向かっていたはずなのに、うっかり神様とぶつかってしまったらしく、異世界へ飛ばされてしまいました!
気がつくと神殿にいた私を『神子様』と呼んで出迎えてくれたのは、爽やかなイケメン騎士様!?
元の世界に戻れるまで騎士様が守ってくれることになったけど……。この騎士様、過保護すぎます!
だけどこの騎士様、何やら秘密があるようで――。
◇◇◇◇
※過去に同名タイトルで途中まで連載していましたが、連載再開にあたり設定に大幅変更があったため、加筆どころか書き直してます。
※アルファポリス先行公開。
※表紙はAIにより作成したものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる