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第70編「気にしていないわけがないでしょう?」

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 お風呂を済ませてパジャマに着替え、とこでテレビを見ていた裕一郎に「お風呂、先にいただきました。次どうぞ!」と声をかけてから一旦自室へ戻り、ドライヤーを終えた後。
 恋幸は時間差でやって来た大きな羞恥心の波に飲まれていた。


(アァア……ッ! 私ったらなんてことを! でもびっくりした顔の裕一郎様、可愛かったな……じゃなくて! どんな顔で話をしよう!?)


 部屋の中心で正座したまま頭の中で様々な対応シュミレーションを繰り返し、パターンKまで用意できた頃。小さな足音が耳に届き、勢いよくそちらに目をやる。
 それと同時に、低くおだやかな声が「小日向さん」と名前をなぞり、恋幸は慌てて立ち上がると声のした方へ駆け寄ってふすまを開いた。

 そう。いつものごとくに開いたのだ。


「はっ、……ッ!!」


 襖の向こう側――廊下に立っていた声の主は、とうぜん裕一郎である。
 いつもはサイドパートで綺麗にセットされている前髪を真っ直ぐに下ろし、男性らしく筋の浮き出る首筋にじわりと汗をにじませて、着流しを身にまとったお風呂上がりほやほやの“倉本裕一郎”だ。

 そんな彼をほぼゼロ距離で恋幸が平常心でいられるはずもなく、恋人の整った顔をあおぎ見たままフクロウのように「ほーっ……」と鳴き声を漏らした。かと思えば、両手で左胸を押さえて「過剰接種!!」とうなる。


「うん?」
「なっ、なんでもないです……っ」
「それなら良いのですが……ケーキ、食べませんか?」
「……!! 食べます!!」





「お誕生日、おめでとうございます」
「えへへ、ありがとうございます」


 帰宅した際、裕一郎が冷蔵庫へしまっていた箱にはバースデーケーキがワンホール入っていた。

 テーブルの上に現れたは真っ白なクリームを全身に纏っており、円形の側面そくめんからはミルフィーユのように生地が何層にも重なっていることがありありとうかがえる。てっぺんには惜しみないほど苺が飾り付けられており、隙間に落とされたホイップが九つ等間隔とうかんかくに寄り添っている。
 腰を下ろす場所を無くしたプレートは苺に支えられて中心に寝そべったまま『Happy Birthday』と恋幸に伝えていた。


「ロウソク、ふーってしたいですか?」


 2と5の形をしたロウソク入りの小袋を片手に、裕一郎はわずかに口の端を引いてからかうような口調で問う。
 本来であれば頬を膨らませてプンプンとわざとらしく怒って見せたい場面であるが、


(ふ、“ふーってしたいですか?”ですって……!? 待って待って、可愛すぎて無理すぎますが!? いや、無理じゃない!! 裕一郎さま可愛い!!)


 倉本裕一郎限界オタクの恋幸は、彼の発した何気ない一言を延々と頭の中でループさせて『萌え』の感情にひたっていた。

 とは言え、それもほんの十数秒間の出来事だ。
 まぶたを閉じて大きな深呼吸を一つ済ませた恋幸は、改めて彼の青い瞳に視線を向ける。

 ――……からかわないでください!


「ふーって言う裕一郎さま可愛い!!」
「ありがとうございます。おそらく本音と建前が逆になっていますよ」





 おかしい。『あんな事』があったにも関わらず、ケーキを食べ始める前も食べ終えた後も、裕一郎の態度は一切変わらない。
 恋幸が彼の心情を案ずるのは見当違いかもしれない。しかし、あまりにも変わらなさすぎていっそ不安になってくる。


(気にしてないってことかな……裕一郎さま、すごく大人っぽいもんね。さすがだなぁ)


 ケーキを食べ終えた後で歯磨きを済ませている間に、幸せいっぱいの誕生日にも終わりが近づいていた。


(あれ?)


 おやすみなさいと言うために立ち寄った床の間はあかりが消えており、つい先ほどまでテレビを見ていたはずの裕一郎がもうには居ないことを告げている。
 彼は恋幸より先に歯磨きを終えていた。きっと自室へ戻ったのだろう。

 目的地を変更して、高鳴る心臓を落ち着かせながらひとり廊下を歩く。暗所恐怖症の恋幸のために、夜間であっても彼女が起きている間は廊下の電光はけられたままだ。

 すっかり慣れた道順を行き、裕一郎の部屋へ繋がるふすまの前に立つ。声をかけようとした瞬間、


「小日向さん? どうかしましたか?」


 さざなみのように心地良い声が恋幸の耳を撫でた。


「えっと、おやすみなさいって言いたくて」
「ああ、そうでしたか。おやすみなさい」
(え?)


 改めていだく、小さな違和感。
 やはりおかしい。よほどのことがない限り裕一郎はいつも扉を開けて、目をまっすぐに見て、大樹のようにおだやかに微笑んで挨拶を交わしてくれる。こんな風に適当に済ませるような恋人ひとではなかった。


「……あの、」
「……はい」
「ここ、開けてもいいですか? ……倉本さんの顔、見たいです」
「……」


 自信の無さから小さくなる恋幸の声は、静まり返った夜でなければ雑音にかき消されてしまっていただろう。

 三拍分の間を置いてから、すっすっとたたみこすかすかな音が耳に届く。それからすぐに襖が開かれ、いとしい人が姿を現した。


「あ、」


 名前を呼ぶ暇もなく、大きな手に腕を掴まれてぐいと引っ張り寄せられる。
 裕一郎のたくましい胸に抱き留められた事に気づくと同時に、背後でトンと木材同士のぶつかり合う音がした。


(ふすま、)


 襖を閉められた。
 他人事ひとごとのように恋幸がそう理解した瞬間、長い指に顎をすくい取られてほとんど強制的に顔が上を向く。


「……どこまで私をあおったら気が済むんですか?」


 低くつむぎ落とされた言葉に対して反論しようと開いた唇は、甘い熱に塞がれてしまった。
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