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第62編「あまり、可愛いことをしないでください」※

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(……あれ?)


 ――……着替え、手伝ってくれますか?

 その問いかけにはじめこそ狼狽うろたえて「え」だの「その」だのと言いどもっていた恋幸だが、鼻の先にぶら下げられた『久々に裕一郎様といちゃいちゃできるチャンス』という甘い誘惑に打ち勝てるわけもなく、気がつけば顎を引いて同意の意思を彼にしめしてしまった。

 そして裕一郎と手を繋いだまま廊下を歩き、緊張を抱えたまま彼の部屋に足を踏み入れたのがつい10分ほど前の出来事である。


「はあ、癒される……」
(……どういう状況?)


 現在、恋幸は座布団に腰を下ろした裕一郎と向き合うような体勢で抱きしめ合っており、着替えを手伝うどころか身動きがとれないままひたすら頭を撫でられていた。
 更には時折「可愛い」「よしよし」と低くささやかれ、酒の入った彼の予測不能な言動に混乱しつつも心臓はどきどきと早鐘を打つ。

 恋幸はしばらくのあいだ彼の肩に顔を埋めて身をゆだねていたが、時刻はすでに21時を過ぎている。さすがにいつまでもこうしているわけにはいかず、顔を上げて間近にある裕一郎の青い瞳を真っ直ぐにあおぎ見た。


「あ、あの。倉本さん?」
「うん? なーに?」
(~~っ!!)


 彼は恋幸の問い掛けに対して口の端を引き、長いまつ毛をわずかに伏せて首をかたむける。
 アルコールの効果によるものなのか、機嫌が良さそうにふわふわと微笑む姿が目の保養になる反面たいへん心臓に悪い。

 胸の苦しみを覚えて左胸に右手を宛てがうと、裕一郎は二、三度まばたきの時間をはさんでから綺麗な眉で八の字をえがいた。


「胸、痛いんですか? 大丈夫ですか?」
「大丈夫です! ちょっと、あの、急な供給にときめいちゃって……す、好きだなって……」
「……恋幸さんは本当に素直で可愛いですね。よしよし、私も恋幸さんが好きですよ」
(また……っ!)


 ただでさえ裕一郎による『本気の甘やかしモード』を前に脳みそがキャパオーバーを起こしてしまいそうだというのに、帰宅時から下の名前で呼ばれ続けて恋幸の体温は上がる一方だ。

 人は酔った時に本性や本音があらわになるとはよく耳にする話だが、もしもが裕一郎の本性ならばとても良い意味でとんでもない事である。


(どど、どうやって対処すれば……っ、裕一郎さま大好き! もっと下の名前呼んでほしい!)


 ときめきと欲望がせめぎ合う恋幸をよそに、裕一郎は片手で彼女の頬を撫でて横髪を優しく耳にかけると、空色の瞳をすっと細めた。


「ねえ、恋幸さん?」
「はいっ! 恋幸です!」
「キスしてもいいですか?」
「!?」


 毎回毎回、問われるたびに心臓が止まりそうになる。

 許可なんて取らなくてもいいのに。裕一郎様がキスしたいと思ってくれた時、好きにすればいいのに。
 心でそう思うと同時に、恋幸は彼の持つ『優しさ』を頭の中できちんと理解できていた。


(そっか。裕一郎様は、)


 ――……不意に、以前彼から伝えられた言葉が脳裏をよぎる。


『小日向さんは、私の大切な人ですから。だからこそ、何をしても良いわけがないんですよ』


 好意をどれだけ言葉や態度で明確に伝えられていようと、裕一郎の中では“常に尊重されるべきは恋幸自身の意思や意見である”という考えが前提にあるのだろう。

 そして、優先されるべきは己の性欲などではなく、恋幸の希望する関係の進め方と触れ合い方であるという事。裕一郎が伝えようとした『言葉の意味』に気がついた瞬間、


(私なんかのこと……いっぱい、大切にしてくれてるんだ)


 どうしようもないほどに、愛おしさが込み上げた。


「……倉本さん、」
「はい」
「キス、してください」


 手のひらから、唇から。“愛情”の漢字二文字だけでは収まりきらない感情があふれ出る。

 躊躇ためらいなく落とされた希求ききゅうに対して裕一郎は動じた素振りを一切見せず、ただ口元にゆるやかな三日月型を浮かべた。


「はい。喜んで」


 ひどく優しい声音が恋幸の鼓膜を震わせて、長い指の先でくいとあごをすくわれる。
 目線がまじわった瞬間、ぐらりと揺れたアクアマリンの瞳にわずかな劣情れつじょうの色がにじみ、頬が火照ほてるのを感じながらまぶたを閉じた。


「!!」
「……大丈夫ですよ」


 ほんの少し冷たい彼の唇が恋幸の唇に重なると、反射的に体がこわばる。
 裕一郎はそんな彼女の頭を優しく撫でつつ、ちゅ、ちゅと触れるだけの口付けを何度か繰り返す。

 そんな甘酸っぱいたわむれをしばらく続けた後、恋幸の体から力が抜けたタイミングで裕一郎が低く囁いた。


「恋幸さん。口、開けてください」
「……っ、」
「いい子」


 目を瞑ったまま言われた通りに口を開けば、二、三度頭を撫でられて再び唇を重ねられる。

 あらかじめ何をされるか分かっていても、口内に自分以外の温度が侵入する瞬間はいつも体がびくついてしまう。


「……っは、」


 深く重ねられた唇の隙間から入り込んだ裕一郎の舌は、ゆっくりと恋幸の舌を絡めとり、このまま食べられてしまうのではないか? という錯覚におちいらせた。


「ん、っん……っ」
「ふ……」


 静かな室内に、くちゅ、ぴちゃと唾液だえきの混ざり合う水音が響いて羞恥心をあおり続ける。
 けれど、今の恋幸の心はそんな事が気にならないほどに裕一郎を求めていた。


(気持ちいい。好き、裕一郎様。大好き)


 閉じていた瞼を持ち上げて本能がおもむくまま舌を絡め、彼の首へ両腕を回して抱きつけば、まるで迫り来る何かをえるかのように裕一郎は眉間に深いしわきざむ。

 どうしたのだろうか? と心配するために思考をく余裕すら失っていた恋幸はそんな変化に気がつくこともなく、彼にされたのと同じようにちゅうと舌の先を吸う。


(ゆーいちろ、さま)
「……っ!」


 不意に、肩をとんと押されて裕一郎の片手が恋幸の後頭部にえられる。
 次の瞬間――眼前には、馬乗りになって荒い息を吐く“恋人おとこ”の姿があった。
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