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第61編「普通に怖いんで睨みつけないでくださーい」

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 千に裕一郎を紹介した翌日から、恋幸は彼とほとんど顔を合わせなくなっていた。
 と言っても、怒鳴どなり合いの喧嘩をしたり心のすれ違いが起きたわけではなく、ただ単に『裕一郎の仕事が忙しい』。それだけだった。

 どうしても1日1回は裕一郎を摂取せっしゅ……もとい、話しをしたい一心いっしんで、恋幸は毎朝彼の起きる時間帯に目覚ましをセットしてなんとか見送る事に成功していたものの、ここ最近は日付を越えても布団に入りまぶたを閉じても裕一郎は帰って来ない。
 業務内容までは把握できていないため突然忙しくなった理由を推測するのは難しく、恋幸は寂しさに包まれつつひたすら裕一郎の身体からだを案じるばかりだった。





 日が過ぎるのはあっという間でそんな生活も6日目を迎え、気がつけば恋幸の誕生日を目前にひかえている。

 今日までに裕一郎から投げられた貴重な言葉は「動物園と水族館。直近の作品では、どちらを資料に使いたいと思いますか?」「苺大福は好きですか?」「15日、何か予定はありますか?」の3つだった。
 どれも質問形式なのはなぜか? という疑問など、「裕一郎様とお話しできた!」と舞い上がる恋幸の頭には一瞬たりとも浮かんでいない。


「ふぅ……」


 夕飯時に使用した食器等を洗い終えた恋幸は乾燥機かんそうきのスイッチを入れてから小さく息を吐き、顔を上げてとこの壁掛け時計へ目線を向ける。

 今日も気が付けば21時を過ぎており、改めて襲いかかる寂しさに自然と眉尻が下がってしまった。


(裕一郎様、今夜も遅くなるのかな)


 今だに電話番号以外の連絡先を知らないため、帰りは何時頃になるのか文章で確認するすべは無い。ただ一つだけ確かなのは、どんなに帰宅が遅くなっても恋幸と星川の用意した夕飯を必ず食べてくれているという事だけだ。

 ラップをかけた裕一郎用の夕飯を座卓の上に並べ、フードカバーをかぶせる。手元に落としていた目線は自然と壁掛け時計へ移動し、再度時間を確認すると大きな溜め息が漏れた。

 ……と、その時。
 聞き覚えのないエンジン音が耳に届き、恋幸は勢い良く玄関の方向へ顔を向ける。


(こんな時間にお客さん……? 裕一郎様宛ての宅配便かな?)


 今日は星川が休みの日で、この家には今恋幸1人である。万が一に備え、ハエ叩きを片手に握り締めてそろりそろりと玄関へ向かった。





 ちょうど恋幸が辿たどり着いたタイミングでガチャガチャッ! と音を立てて玄関の鍵が解錠かいじょうされ、大きく肩が跳ねる。
 剣士さながらにハエ叩きを構えて生唾なまつばを飲み込むと、少し手荒に扉がスライドされてつい先ほど頭に思い浮かべた人が姿を現した。


「……! 倉本さん!」


 彼の帰宅を出迎えることができたのはずいぶん久々で、嬉しさのあまり恋幸の表情は途端にぱあっと明るくなり、護衛ごえい用に持って来たハエ叩きを急いで玄関棚の上に置く。


「おかえ」
「恋幸さん、ただいま」
「!?」


 どこかおぼつかない足取りで靴を脱ぎスリッパに履き替えた裕一郎は、恋幸が『おかえりなさい』を言い終わるより先にその腕の中へ彼女の小さな体を閉じ込めてしまう。

 突然の出来事に一瞬フリーズする恋幸だったが、すぐに違和感の存在に気がつき裕一郎の広い背中に腕を回しながら首をかしげた。


(あれ? お酒の匂い?)
「すんません、小日向さん。あ、お邪魔しまーす。今日ちょっと、お偉いさん方との打ち合わせ終わりにほぼ強制的な流れでバーへ呑みに行くことになっちゃって」


 馴染なじみのない香りをすんすんと嗅いでいると、頭の中に浮かんだ問いに対していつの間にか玄関先へ入って来ていた縁人よりひとが答える。


「社長、なーんかイライラしながらガバガバ飲んじゃったもんだから、」
「……酔っ払っていらっしゃる、と?」
「そっす。そりゃもーベロッベロンに酔ってます」


 縁人は抱き合う二人に視線を向けてひどくあきれた様子で片眉を上げた後、スリッパラックのわきに裕一郎のビジネスバッグを置いて人差し指でこめかみをいた。


「まったく。帰る気満々だったところを引き止められて大好きな恋人に会えなくなるかもしれなかったからって、やけ酒しなくたっていいのに……ねぇ?」
「え? ええっと、はい……?」


 今しがた暴露された話に心臓の鼓動が速まる中、咄嗟とっさ相槌あいづちを返せば縁人はわざとらしく肩をすくめる。

 すると、今まで口を挟まなかった裕一郎が首だけで振り返り、珍しくいきどおりを表情に表して秘書を一瞥いちべつした。


「……縁人。恋幸さんに用は無いよね?」
「はいはい、勝手に話しかけてすんませーん。ビジネス敬語忘れてますよー気をつけてくださーい。そんじゃ小日向さん、後はよろしくお願いしまーっす!」
「えっ!?」
「あ、社長の車は代行に任せて持って帰って来たんで、駐車場に停めるよう伝えておきまーす。おやすみなさい!」


 縁人が矢継ぎ早にそう告げて玄関を出て行けば、裕一郎は待ってましたと言わんばかりにスリッパのままで扉へ歩み寄って鍵を閉め、もう一度恋幸を抱きしめに戻って来る。

 嬉しい気持ちと羞恥心や困惑が混ざり合って上手く働かない頭に、熱さの増す頬と上昇していく体温。まるで自分まで酔っ払ってしまったかのようだ。

 あとはよろしくお願いしますと言われても、どう対処するのが正解か恋幸の脳内にはデータがおさめられていなかった。


「あっ、えっと、倉本さん?」
「うん?」
(ひゃーっ!!)


 耳元で低くささやかれ、反射的に全身が硬直する。

 恋幸はしばらく唇の開閉かいへいを繰り返してから、なんとかしぼり出した言葉を小さな声でぽとんと落とした。


「お、お着替え……先に、着替えを……」
「あー……ねえ、恋幸さん?」
「はいっ!」
「着替え、手伝ってくれますか?」
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