来世にご期待下さい!〜前世の許嫁が今世ではエリート社長になっていて私に対して冷たい……と思っていたのに、実は溺愛されていました!?〜

百崎千鶴

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第58編「目、少し冷やした方が良いんじゃない?」

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 恋幸は現在、2つのあせりを覚えていた。

 まず1つ目は、気が付けば裕一郎の部屋および裕一郎の布団で私服のまま寝ており、スマートフォンの画面に表示された時刻は午前8時12分だった事。


(ま、まさか私……)


 ――……そう、そのである。

 あの後、泣き疲れた恋幸は彼の腕の中で強い安心感に包まれたせいでそのまますやすやと眠ってしまったのだが、裕一郎はあえて彼女を起こさずに布団をいてそこに運ぶとしっかりと肩まで毛布をかけてやり、彼自身は2枚敷いた座布団の上に寝転がり毛布をかぶって寝たのだった。

 サーッと血の気が引く感覚をおぼえながら恋幸が上半身を起こした時、ふと枕のすぐ隣に置かれている『何か』が視界のはしに映り、心にのしかかる自己嫌悪を抱えたままゆっくりと目線を移動させる。


「あ、」


 そこに置かれていたのは、メモ用紙が貼り付けられた1本のペットボトル。中身は恋幸の好きなフォンタのメロンソーダ味で、小さな紙には丁寧な文字で『おはようございます、20時半には帰ります。風呂は自由に使ってください』と書かれていた。


「裕一郎様、優しい……好き……」


 しかし、心ときめかせている場合では無かった。


「やばい……!!」


 恋幸が焦っている2つ目の理由は、9時半に予定している編集の清水との打ち合わせだった。

 集合場所までは、現在地から早歩きでおよそ15分。身支度に要するのが10分だとして、朝御飯を食べている暇などあるわけがない。


「やばいやばい!!」


 大きな独り言を漏らしながら布団をたたんで押し入れへ仕舞しまい、誰も居ないのを良い事にどたどたと足音を立てて廊下を走り抜ける。
 一旦自室に戻り荒々しく荷物をあさって着替えをかき集めた恋幸は、脱兎だっとごとく風呂場へ向かうのだった。





「小日向さんさ、何か悩みでもある?」
「へ?」


 プロットのまとめられた原稿用紙を茶封筒へ詰めながら前置きなく清水しみずが落とした問いに対して、恋幸はシロイノワールを口に放り込みかけたままの体勢で頭の上に疑問符を浮かべる。


(悩み?)


 今日は新連載用のプロットおよび構成案の提出と、現在連載中の『未来まで愛して、旦那様!』についての軽い打ち合わせが目的だったので、編集本部ではなく恋幸行きつけのモチダ珈琲店こーひーてんで落ち合う予定になっていた。

 そして本来の目的を果たした後は13時まで清水と2人で食事を楽しむ流れとなったのだが、突然悩みの有無を問われて恋幸はシロイノワールを咀嚼そしゃくしながら首をかしげる。

 すると、そんな彼女の様子を見るなり清水は眉根を寄せて「はあ」と深く溜息を吐いた。


「今日、鏡見てないの? いかにも『泣き腫らしました』ってサマのひどい顔だけど」
「んぐっ!!」


 直球を越えてもはや弓矢のようにするどい発言が心に突き刺さり、一時的なショックで恋幸は喉を詰まらせる。

 清水が恋幸に対してあまり言葉を選ばないのは、今に始まった話ではない。
 彼は悪意を持ってしているわけではなく、時に勘がにぶく、のほほんとマイペースな思考を持つ天然の恋幸や他の担当作家に発言の意図が曲線をえがかず真っ直ぐに伝わるよう、普段からあえてはっきりと物申しているのだ。


「……もしかして、痴話ちわ喧嘩?」


 すっかりぬるくなってしまったコーヒーにフレッシュを投入してティースプーンでかき混ぜつつ、ほとんど独り言のように清水がそう呟く。


「ごふっ!!」
「えっ」


 瞬間、恋幸はたった今飲み込もうとしたばかりのメロンソーダが喉で詰まりそうになり、慌ててストローから顔を離すと急いでおひやグラスを手に取って勢いよく中身を飲み込んだ。

 これ以上無いほどあからさまに狼狽うろたえるさまを目にした清水は、ひどく怪訝けげんおも持ちでティースプーンをソーサーのすみに置く。


「本当に恋人関係? まさかDVとか、」
「無い無い! 無いです!! むしろこれ以上ないくらい大切にされてます!!」
「そっか、恋人できたんだ。おめでとう」
「あっ、え、えへ……ありがとうございます」


 顔を赤くして縮こまった恋幸は両手でお冷グラスを持ち上げると、しおらしくちびちびと中身を飲み込んで少しでも体温を下げようとこころみる。
 一方で、清水は一重ひとえまぶたの上を指先できながらちらりと腕時計を確認した後、再度恋幸に視線を投げた。


「あ、プライベートにまで口挟んでごめんね」
「いえ! 大丈夫です、気にしないでください!」
「……僕はね、小日向さん。これでも、小日向さんのことは我が子のように思ってるんだよ。デビュー当時のコンテストにたずさわったのが僕だから思い入れがあるとも言うけど、それくらい『日向ぼっ子先生』が大切だし、だから当然心配もするわけで」
「し、清水さん……」


 デビューしてから今まで彼にないがしろにされた経験は無いが、執着や贔屓ひいき・それに近い感情を向けられた覚えも無い。

 常に気怠けだるげ……冷静沈着で、仕事に対して真摯しんしに向き合う担当編集の清水は、簡単に表せば『感情が読みやすくいつも疲れている裕一郎』である。
 そんな彼が恋幸を我が子のように思っているなど、当の本人は当然ながら一度も考えたことがない。突然の告白に驚くと同時に、恋幸は心の奥がじーんと温かくなった。


「小日向さんが幸せな恋愛できてるなら、僕から何か言うつもりは無いです。良い経験は、良い作品を生み出すと思ってるからね。でも、不幸な恋愛してるなら僕は『そんな男やめておけ』って口出ししなきゃいけなくなる。……小日向さんは、今ちゃんと幸せ?」


 眼鏡の奥にある黒い双眸そうぼうが、強い色をともして真っ直ぐに恋幸を射抜く。
 普段であれば目を逸らして萎縮いしゅくしてしまうような場面だが、恋幸は背筋をしゃんと伸ばして深く頷いた。


「はい、すごくすごく幸せです」
「そう、それなら良かった。なら、どんどん恋愛経験値を貯めて作品に活かしてください。今後の『日向ぼっ子先生』を楽しみにしてます。……あ。相手に甘えて受け身で待ち続けるスタンスは良くないから気をつけてね」
「えっ!? は、はい! わかりました……?」


 ――……その後。店頭販売されている珈琲豆を経費で2袋購入した“日向ぼっ子先生”は、清水の冷たい目線を浴びつつ次の待ち合わせ場所へ向かって足を進めた。
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