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第44編「調子を狂わされてばかりですよ」

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 ゼロ距離で低く心地良い声に鼓膜を揺らされたせいで脳が痺れ、連続して甘い言葉を浴びせられた事により恋幸は軽いパニック状態におちいり、その結果まともな判断能力を失いかけていた。


(はわわわ、あわ、)


 ついでに言うならば、言語能力も急激に低下しつつある。


「くっ、倉本さんは、」
「はい」
「もっと、ご自分がセンシティブだという自覚を持たれた方がよろしいように思います……」
「……はい?」


 恋幸の真っ赤に染まった顔も、裕一郎の「意味がわからない」と言いだけな表情も、互いに見えていないのが不幸中の幸いだろうか。

 小動物のようにぷるぷると肩を震わせる彼女を見て、裕一郎は横から覗き込むような形で顔を近づけた。


「センシティブ、とは……具体的には、どのような部分が? どういう意味で言っていますか?」
「へっ……!?」


 恋幸の耳たぶにぴたりと口をつけたまま吐息を混ぜて裕一郎が低く囁けば、彼女の薄い肩は大袈裟なほどに跳ねて彼の加虐心をぞわりとあおる。

 裕一郎は恋幸の長い後ろ髪を片手で軽く束ねると、彼女の肩越しに前へ流してそのうなじをあらわにさせた。
 そして彼の冷たい指先がをついとなぞるだけで、恋幸の体はふるりと震えて首の裏側まで紅色をにじませる。


「具体的に、は、」
「はい」
「ひゃっ、」


 説明のために必死で頭を働かせる彼女の思考をさえぎったのは、裕一郎の唇だった。
 彼は真っ赤に染まった恋幸のうなじに顔を寄せると、小さなリップ音を立てつつ頚椎けいついを伝って短い口づけを何度も落とす。

 そのせいで乱され続ける彼女の思考。
 まるで一色のクレヨンでぐちゃぐちゃに塗り潰されたかのように、浮かんだ言葉があちこちに散らかり脳みそを埋め尽くしていった。


「……っ、」


 耳の奥まで響いているように錯覚する心臓の音を隠すために恋幸が上半身を少し前に倒せば、お腹に回されている彼の片腕が「逃げるな」と言いたげに自身の方へ抱き寄せる。

 そして、首筋にまた一つキスが落とされ反射的に肩が跳ねた。


「ほら、教えてください?」
(裕一郎様、なんだか変)


 裕一郎は、仕事で疲れている時は甘い言葉を多用したり接触の頻度が増える性格だという事は恋幸も既に理解できている。
 だが、彼女の知る限り今日の彼は短時間のテレワーク以外何も無かったはずで、疲労が溜まっているようには見えなかった。

 それなのに、


「小日向さん」
「……っ、くらも、と、さん」


 密着したまま、心の底から求めるような熱のこもった声で名前を呼ばれて、恋幸はどうすればいいのかますます分からなくなる。


「……ずるい」
「うん?」


 心の中にぷかりと浮かんだ感情が恋幸の理性をすり抜けて口からこぼれ落ちてしまい、「ああ、しまった」と思った時にはすでに裕一郎の相槌あいづちが耳を撫でていた。

 彼女は首だけでゆっくり振り返ると、裕一郎の整った顔をまっすぐに見据えて声帯を震わせる。


「倉本さんは、ずるいです」
「……なぜ?」
「だって、いつも……私ばっかり余裕が無くて、どきどきしっぱなしだから」
「……」


 不服そうに恋幸が眉で八の字を描いたのを見て、彼は二、三回まばたきをした後「ふ」と小さく息を吐いて彼女の赤い頬を指の背で撫でた。


「ずっと恋焦がれた女性を目の前にして、余裕なんてあるわけがないでしょう?」
「えっ……だ、だって、いつも」
「いつもは貴女にバレないように『余裕』ぶっているだけですよ。ほら」
「わっ!?」


 裕一郎は、それでも信じられないと言いたげな顔をする恋幸の体を持ち上げて横抱きの体勢にすると、片手を優しく掴んで自身の左胸に触れさせ口元に緩やかな弧を描く。


「私も、貴女と同じですよ」
「……ほんと、だ……」


 指先の感覚に集中しているのか、恋幸の目線は珍しく裕一郎の顔を逸れて彼の左胸に注がれていた。
 彼女は再度「本当だ」と呟いた直後、花が開くかのようにふわりと顔をほころばせる。


「えへへ……よかった。倉本さんとお揃いで嬉しいです」


 ――……は、裕一郎の理性を溶かすためには十分すぎるものだった。


「……本当は、貴女に『夢の中で私はどんな言動をとっていたんですか?』と聞きたくてここに呼んだんです」
「え!?」
「ですが、それはまた気が向いた時に聞くことにします。小日向さん、」


 彼は一旦そこで言葉を切り、眼鏡の奥にある目を細めて右手の親指で恋幸の唇を優しくなぞる。


「私を避けてしまった、という貴女の罪悪感につけ込んでもいいですか?」
「……はい。大好きな倉本さんになら、何されてもいいです」
「……『殺し文句』なんて言葉じゃ足りませんね、それ」


 裕一郎が顔を近づけると、恋幸は誰に教わったわけでもないというのにまぶたを伏せて口を閉じた。
 ゆっくりと重なる唇の感触が心地良くて、時間が経つのを忘れてしまいそうになる。


「小日向さん、少し口を開けてください」
「は、」


 返事をするために開いたはずの口が、自分とは違う熱におかされる。
 彼の左胸に添えていた手で服をぎゅっと握り、恋幸は頭の隅で必死に息継ぎの仕方を思い出していた。
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