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第38編「いちいち反応が可愛らしいので、ね」

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 キリリと眉を逆八の字にする恋幸を見上げながら、裕一郎は静かにまばたきを繰り返し「いや、聞き間違いだろう」と心の中で頷く。
 そして少しの時間を置いてから片手でちょいと手招きをすれば、彼女は大人しくその場に腰を下ろしてゆっくりと彼に体を寄せ、しおらしげに目線を手元へ落とした。


「あの、倉本さん? 私が家事手伝いをする話、承諾しょうだくしていただけたということでよろしいでしょうか……?」


 まあ……残念ながら『聞き間違い』ではないのだが。


「……先日も言った通り、貴女をタダ働きさせたくないので承諾は出来ません。エアコン代も気にしなくていいと言っているでしょう?」


 ひどく落ち着いたトーンで言葉を紡ぎ落とした裕一郎が片手で恋幸の頭をポンと撫でた途端、彼女は弾かれたように顔を上げて空色の瞳を真っ直ぐに見据える。


「気にします……! だって、エアコンの件だけじゃありません! ここに住まわせてもらっている以上、水道代に光熱費、食費、諸々もろもろぜんぶ……! この先も倉本さんとずっとずっと一緒に居たいからこそ、こういう事はちゃんとしておきたいんです……!!」


 息継ぎもせずそれだけ言い終えた恋幸が深い深呼吸を挟んでからきゅっと唇を引き結んだのに対し、裕一郎はまるで鳩が豆鉄砲を食らったかのように眼鏡の奥にある瞳を丸くして言葉を失っていた。

 しばらくの間、二人を包み込む静寂。数秒の間を置いた後、彼はほんの少しだけ表情をやわらげ「ふ」と小さく息を吐く。


「……本当に、貴女のそういうところが私は……」


 独り言にも似たその呟きを恋幸は上手く拾い上げることができず、裕一郎に目線をやったまま小首を傾げた。


「えっ?」
「何でもありません、私の負けです。貴女のに、有り難く乗らせて頂こうと思います」


 彼は長いまつ毛を伏せて緩やかにかぶりを振った後、おもむろに片手を伸ばして彼女の頬に添えると、水色のビー玉に再度その姿を映す。


「ただし、やはりさせるというのはしょうに合わないので、何か別の形で報酬を支払わせてください」


 口元に柔らかな弧を描いた裕一郎が低く落ち着いた声で言葉を紡ぎ落とせば、恋幸は一度何か言いたげに持ち上げた唇をすぐに引き結び、2秒ほど目を逸らして考えるような素振りを見せてから改まった様子で彼の顔を見上げた。


「えっと、あの、それじゃあ……」
「うん?」


 裕一郎が触れている彼女の頬はじわじわと熱を帯び、白く透き通る肌に少しずつ朱色がにじむ。
 色素の薄い茶色の瞳が恋幸の心を反映してほんの一瞬だけ揺らぎ、意識を逸らせば聞き逃してしまいそうなほど小さい声が彼の鼓膜をノックした。


「……1日1回、ぎゅってしてほしいです……」
「……」


 良い意味で想像の斜め上を行った彼女の要求に、裕一郎は驚きのあまりまばたきを繰り返すことしかできない。

 いや、彼も初めから恋幸が金品やそれに近い何かを要求してくるとは思っていなかったのだが、さすがに形にすら残らないどころか彼女一人が得をするわけでもない“もの”を欲しがるというのは予想の範囲から外れていた。


「……そんな事でいいんですか?」
「あっ、勿論あの、倉本さんが嫌じゃなければなんですけど……!」


 それでは私にとっても『報酬』になってしまうので、もっと貴女だけにメリットがある事で良いんですよ。

 裕一郎は寸前でそのセリフを飲み込み、目の前で不安げに眉を寄せている恋幸の頭を優しく撫でる。


「嫌なわけがないでしょう?」
「えへへ、よかったです」


 大人しくされるがままになりつつ顔をほころばせる恋幸の姿を見た途端、彼の中に言葉では言い表し難い大きな感情が流れ込み、血液に乗って全身に行き渡るかのような錯覚をおぼえた。
 体温が上昇するのを自覚した時にはすでに体が動いており、


「……可愛いな」
「えっ」


 裕一郎は目の前にある恋幸の体をそっと抱き寄せる。


「えっ、あっ、くく、倉本さ、」
「よしよし。可愛い、可愛い」
(ひぇ~っ!?)


 突然のデレ期と抱擁ほうよう――何が起きたのか今だに状況判断ができていない彼女の頭を大きな手が撫でるせいで、脳みその処理スピードは急激に低下し言語能力にまで影響をおよぼしていた。

 恋幸はどさくさに紛れて彼の匂いを嗅いだところで、先日自分の唱えた「裕一郎様は仕事で疲れていると甘々になる説」をはたと思い出す。


「……あ、あの、倉本さん」
「はい。なんですか、小日向さん」
「つかぬことをうかがいますが……その、倉本さんって、疲れているとあの……ひ、人を甘やかしたいな~とか、誰かを可愛がりたいな~って思うタイプなのでしょうか?」


 もっとオブラートに包むべきではないかと勿論(さすがに)この数秒間で彼女も考えたのだが、どれだけ言葉をにごらせてもきっと裕一郎には本心が筒抜けになってしまうだろうという結論にいたり、聞きたい内容そのままを舌にのせて口から落とした。

 恋幸の問いに対して裕一郎は静かに体を離し、いつもの無表情で彼女の顔を見つめる。
 少しの間を置いて彼が投下したのは、


「いえ、『疲れているから』というだけでそんな風に考えた事は覚えている限り一度もありませんが……まあ、貴女と一緒にいると、毎日のように思うのは確かですね」


 質問への返答を大きく越えた甘い爆弾だった。


「んぐ、なん……」
「お腹が痛いんですか?」
「いいえ……倉本さんのせいで胸が苦しいんです……」
「それはそれは、すみませんね。お互い様ということで許してください」


 全く悪びれずどこか楽しげに口の端を持ち上げ、恋幸のひたいに口付けを落とす裕一郎。
 その柔らかな感触に、彼女はなんとか絞り出した声で「わかりました……」と返すことしかできなかった。
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