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第30編「寝言は3回ほど聞きましたけど」

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 気がつくと、そこは朝だった……というネタはさておき、恋幸は意識が覚醒した瞬間に全身の血の気が引く。
 隣に目をやるとそこにはすでに裕一郎の姿どころか布団の一枚すら無くなっており、彼女は弾かれたように体を起こして部屋を飛び出した。

 そして運良く迷わずに辿り着いた玄関先で彼の姿を見つけ、今にも出て行ってしまいそうなその背中を慌てて呼び止める。


「倉本様……っ!!」
「……! おはようございます」


 振り返った際にほんの一瞬だけ驚いた顔をした裕一郎だったが、恋幸を視認すると同時にいつもの無表情へ戻ってしまった。


「おはようございます! あ、あの、私……昨日の夜、すごく眠たくて途中から何も覚えてないんですけど、何か倉本様におかしなことを言ったりしたりしませんでしたか……!?」
「……」


 おかしな言動があったかどうかで言えば肯定するしかない場面である。
 だが、裕一郎が黙り込んだ様子を見て恋幸が不安げに眉を寄せると、彼は小さな咳払いを一つしてから「いえ、特には」と返し目を逸らした。


「そう、ですか……それなら良かったです」
「……では、仕事があるので失礼します。八重子さんは今日お休みですから、出かける用があれば私に電話してください。家の物は好きに使って頂いて構いませんので、適当にくつろいでいてください。20時には帰ります」
「は、はい。わかりました」


 矢継ぎ早に要件だけ伝えた裕一郎は、「行ってきます」とすぐに背を向けて玄関を出てしまう。
 内側から鍵をかける恋幸の心の中には、漠然ばくぜんとした不安だけが取り残されていた。





 あれから恋幸の脳みそを延々と支配しているのは「昨夜、記憶の無い間に重大な失言もしくは悪行を働いてしまい、裕一郎に嫌われてしまったのではないか?」という大きな不安感で、執筆作業も手につかず、昼にウサギの花へご飯をあげてからひたすら床の間で畳の上を転がっている間に時は過ぎていく。
 彼は「特に何もなかった」と言ってくれたが、それもこちらを傷つけないために言ってくれたのではないだろうか? と、そんな風に疑ってしまう自分自身も嫌になって恋幸は涙が出そうだった。


(明日になったら出ていけ、って言われたらどうしよう……)


 裕一郎を信じているのに、悪い想像ばかりがぷかりと浮かびあがり心を侵食してしまう。

 スマートフォンは自分用の部屋に置いたままでテレビもつけていないため、今が何時なのか・あとどれぐらいで裕一郎が帰宅するのかわからない。
 重い首を持ち上げて床の間の壁に飾られた時計へ目をやった時、音もなくふすまが開き恋幸は間抜けな声を上げて飛び起きた。


「……驚かせてすみません。一応、襖を開く前に声はかけたのですが」
「はっ、あっ、こちらこそすみません! おかえりなさい!」
「ええ、ただいま」
(はわ……このやりとり、新婚夫婦みたい……)


 と、彼女の頭の中にお花畑が出来上がったのもほんの数秒で、すぐに“しなしな”と音が付きそうな動きで表情がかげり俯いてしまう。


「……? 小日向さん?」
「あの……決して倉本様を疑っているわけじゃないんですけど、私やっぱり何か失礼を働いてしまったんじゃないでしょうか……? 寝相が悪かったり、いびきがうるさかったのなら直しますので言ってほしいです」
「……なぜ、そう思ったんですか?」
「だって、何だか……倉本様が、ちょっとだけ、いつもと違うから……」


 恋幸の言葉に対して裕一郎は何も答えず、後ろ手に襖を閉めると彼女のすぐ目の前に腰を下ろした。
 顔を上げられないままでいる恋幸の肩がびくりと跳ねれば、彼はおもむろに手を伸ばしその頭を優しく撫で始める。


「……!? く、らもと、さま……?」
「不安にさせてしまい、すみませんでした。本当に、貴女は何もしていませんよ。寝相も良かったですし、いびきもかいていませんでした」
「……えへへ、よかったぁ」


 ようやく彼女が笑顔を見せた時、裕一郎は引き寄せられるかのように自然な流れで自身の顔を近づけて恋幸のひたいに一つ口付けを落とした。
 驚きから硬直する彼女とは対象的に、彼は落ち着いた様子で体を離して目の前にある長い黒髪を指でく。


「……すみません。可愛かったので、つい」
「え……? は、はい……あっ、ありがとうございます……」
「こちらこそ。……今朝も思いましたが……寝癖、付いたままですよ」
「え!?」


 一連の出来事にしばらくほうけていた恋幸だが、『寝癖』というワードが耳に入った瞬間ハッとして頭に片手を当てた。
 それを見て裕一郎は「ここです」と短く告げ、該当箇所を長い指で軽くつつく。


「な、直したはずなのに……!」
「残念でしたね。まあ、可愛らしいのでそのままでも良いと思いますが」
(へ!?)


 先程から何度も甘い言葉をかけられて、恋幸の頭は今にもオーバーヒートしてしまいそうだった。

 彼女が真っ赤な顔で口をつぐむと、彼は「ふ」と小さな息を吐きスーツのジャケットを脱いで両腕を広げる。


「……?」
「小日向さんに一つ、お願いがあります。抱きしめさせてくれませんか?」
「……!! よ、よろかん……っ、喜んで……」


 噛んでしまった気恥ずかしさと緊張から裕一郎の顔をまともに見ることができず、足元のたたみを見つめたままゆっくりとした動きで彼の腕の中へ収まる恋幸。
 永遠にも思えるそのわずかな時間の中で、時計の秒針の音だけが静寂を支配していた。
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