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第29編「とりあえず素数を数えましょう」

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 心臓の跳ねる音が、喉の奥まで響いているように錯覚する。
 肌寒い夜だというのに火照って仕方のない恋幸の頬に、裕一郎の冷たい指先が優しく触れた。

 ――……彼は今、何を考えているのだろうか?
 恋幸は特に抵抗もせず、呼吸をすることも忘れてただ静かに空色の瞳を見つめる。


「……」


 裕一郎の整った顔が至近距離に迫り、彼の前髪が恋幸の額をくすぐった。


(裕一郎様になら、私……何をされても、)


 彼女にとって今は唯一が確かな事で、静寂が支配する室内では二人分の呼吸音だけが鼓膜を震わせる。

 キスをされるのだろうか? と、淡い期待を抱いた恋幸がまぶたを伏せようとしたタイミングで、裕一郎はひたい同士をコツリと軽くぶつけて深い溜め息を吐くと、体を離して一言謝罪の言葉をこぼした。


「……へ? な、なんで謝るんですか……?」
「……変な気を起こしそうになったからですよ」
「!?」


 驚きのあまり海老えびが跳ねるかのごとく俊敏しゅんびんな動きで飛び起きた恋幸をよそに、裕一郎はそそくさと自身の布団に潜り込み彼女に背を向けてしまう。


「手を出したりしませんから、安心して寝てください」
「……手、出してくれないんですか……?」
「……」


 思わず唇からこぼれ落ちた恋幸の本心。
 それを聞いて裕一郎はゆっくりと体勢を変え、布団の上で正座したままの恋幸の顔を仰ぎ見た。


「……言葉の意味、ちゃんと分かっているんですか?」
「わ、わかってます……! 私だって、それくらい分かります……」
「……馬鹿にしたわけではありませんよ」
「知ってます……!!」


 彼は息を吐くように小さく笑うと、布団を少しめくってちょいと手招きする。

 誘われるがままややぎこちない動きで恋幸がすぐ側に寄れば、裕一郎は上半身を起こして恋幸を抱き寄せ、自身の布団に招き入れた。
 一人用の敷布団は、二人で寝転がると少し狭く感じる。


「……小日向さんは、やはりもう少し発言に気をつけた方がいいですよ」
「……っ、くらも、と、さ……」


 恋幸を抱きしめていた片方の手が背筋をなぞってゆっくりと移動し、くすぐったさから身をよじれば裕一郎が頬に口付けを落として静かに牽制けんせいした。

 心拍数を増す心臓の音が彼に聞こえてしまいそうなほどに密着する体。
 次は何をされるのだろうかと考えただけで緊張から体がこわばり、固く目をつむる恋幸の様子に裕一郎はまた一つ小さな笑みをこぼす。


「……すみません、からかいすぎましたね」
「え……?」
「手を出さない、と言ったのは本当です。何もしませんよ。……今はまだ、ね」
「!!」


 今はまだ、ということはつまり……?
 さすがの恋幸でもその言葉の意味くらいは明確に理解できており、ただでさえあつい体が恥ずかしさやら何やらで更に熱を増していった。

 と同時に、何度も裕一郎にからかわれてばかりで「仕返ししてやりたい」という悪戯心が心の隅に顔を出す。
 相手がいくら大好きな裕一郎でも『それはそれ、これはこれ』だ。


「……倉本様、失礼します」
「……!? 何を、」


 腕と両足を絡ませて彼の体にしっかりと抱きつき白い首筋に顔を埋めると、裕一郎は特に抵抗しないものの困惑の声を漏らす。
 そのままわざとリップ音を立てて何度かそこに口づければ、彼の低い声が「こら、やめなさい」と恋幸に静止をうながした。


「どうしてですか……? 許可なく触っていい、って言ってくれたのは倉本様ですよ」
「……そうですが、」
「じゃあ、いいですよね?」


 ちゅ、ちゅ、と小鳥がついばむかのように唇を移動させるたび、恋幸の腕をそっと掴んでいる裕一郎の指がピクリと反応を示す。
 最初はそれが楽しかっただけで、


「倉本様……」


 彼をからかうだけのつもりだったはずなのに、


「は……っ、くらもとさま、」
「……っ、」
「……裕一郎様……すき、大好き……」


 彼が抵抗しないから、先にからかってきたからなどと言い訳を並べているうちに、恋幸はおかしな気分に襲われていた。
 生まれて初めて胸に芽生えた感情の名前はひどく曖昧あいまいで、眠気も合わさってどう処理すればいいのかわからない。


「すき……」
「……小日向さん。いい加減に、」


 彼を想えば想うほど無意識のうちに体が動き、みっともなく裕一郎に体を擦り付けてしまう。


「裕一郎様……っ」


 ――……と、その時。
 彼の体に絡ませていた足に違和感を覚え、恋幸は一旦動きを止めて彼の顔に目をやった。


「……? 裕一郎様、何か」


 硬いものが。
 言い終わる前に彼女の口を裕一郎が片手で塞いでしまい、彼にしては珍しくあからさまに眉をしかめて何か言いたそうな表情を浮かべている。

 気づけば呼吸も随分と荒くなっており、密着しているお陰で心臓の高鳴りが腕を伝って恋幸に届いていた。


(あ……裕一郎様、良い匂い……心臓の音も、気持ちいい……)
「小日向さん……本当にいい加減にしないと、」
「……」
「……小日向さん?」


 懲りずに体を寄せてきた彼女に対し裕一郎がもう一度警告の言葉を投げようとした途端、恋幸はぴたりと動きを止めてしまう。

 かと思えば、少し遅れて規則正しい呼吸音が彼の耳をくすぐり、裕一郎が首を起こしてその顔を覗き見ると、恋幸は一人呑気に夢の世界へ飛び込んでいた。
 いわゆる、寝落ちである。


「はぁ……どうしてくれようか……」


 起こしてしまうかもしれない可能性を考えると、自身にしがみつく彼女の体を無理矢理引き剥がすわけにもいかない。
 裕一郎の夜は、まだまだ長くなりそうだ。
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