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第26編「こんな日が毎日続けば幸せでしょうね」

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 夜の8時半を過ぎた頃、カラカラと玄関の扉が開き心地よい低音が言葉を紡ぎ落とす。


「ただいま」
「裕一郎様、おかえりなさいませ」
「おっ、お仕事お疲れさまです!!」


 星川の横に並び頬を赤くして出迎える恋幸を見て、裕一郎にしては珍しくあからさまに驚いた表情を浮かべた。

 そんな彼の様子に、星川にも『驚き』が伝染する。
 裕一郎が自分以外のに対してここまではっきりと感情を表すのは、とても珍しいことであると既知していたからだ。


「……なぜ、小日向さんが?」
「お、お言葉に甘えて……泊まり、に、来ました……すみません……」


 語尾にかけて消えていく言葉と、少しずつ足元に移動する恋幸の目線。
 流れる沈黙に星川がフォローを入れようとしたタイミングで、裕一郎が「ふ」と小さく笑う。


「なるほど、そういうことでしたか」
「すみません……」


 靴を脱ぐ彼の背中に恋幸が再び謝罪をこぼせば、裕一郎は体勢を変えてゆっくりと彼女に歩み寄り、その頭をぽんと撫でた。


「どうして謝るんですか? こんなにすぐ会えるとは思っていなかったので、少し驚いただけです。……お陰様で、疲れが吹き飛びましたよ。ありがとうございます」
「あっ、あ……そ、それならよかったです……はい……おかえりなさい、です……」
「……うん。ただいま」
(うん!? うん、だって! 裕一郎様も『うん』とか言うんだ……!? 素敵!!)


 脳内に花畑が出来上がる恋幸には、そのすぐそばで星川が驚きに驚きを重ねていたことになど気づけるわけもない。





 星川と恋幸が先に床の間へ向かい夕飯の準備をしていると、手洗い・うがいを済ませた裕一郎が襖の向こうから顔を出す。


「……お二人に全て任せてしまってすみません」
「そんな……! 倉本様は仕事でお疲れなんですから、ゆっくりしていてください!」
「ふふ。そうですよ、裕一郎様。気にしないでください。それに、これが私の仕事ですから」
「……はい、ありがとうございます」


 建前では気の利いたことを言う恋幸だが、心の中では「新妻気分で楽しい!」とうかれきっていた。
 その証拠に、座布団に腰を下ろしてスーツのジャケットを脱ぎ、緩く畳んで自身の後ろに置く裕一郎の様子を見送る彼女の瞳孔はハート型になっている。

 星川は二人にバレないよう小さく笑って座卓に人数分の取皿を置くと、「さあ、食べましょう」と言って今だほうけて立ちすくんだままの恋幸の肩を軽く叩いた。


「いただきます」


 全員で座卓を囲んで手を合わせ、軽く一礼してから各々箸を持ち料理をつまむ。今晩のメニューは、肉じゃが・鯖の味噌煮・味噌汁とほうれん草のおひたしだ。
 そして、(星川のサポートがあったものの)その全てを調理したのは恋幸である。

 故に反応が気になって仕方のない彼女は今、自身の食事もそっちのけで食い入るように裕一郎を監視……見ていた。その目はまさに獲物を狙うライオンで、星川は唇を引き結び笑いを噛み殺す。


「……」
(どきどき……)


 よく味の染みたじゃがいもを箸で器用に持ち上げ口に運んだ裕一郎は、2、3回咀嚼そしゃくしたかと思えば手元に目線をやったままぴたりと動きを止めてしまった。
 同時に、恋幸の心臓も止まる。


(ひゅっ……まずかったのかな……)
「裕一郎様、どうかされましたか?」
「……いえ、」


 空気を読んだ“できる女”の星川がそれとなく声をかけると、彼は緩くかぶりを振って今度はほうれん草のおひたしを一口。
 それから十数秒かけて飲み込み終えるなり、ゆっくりと顔を上げ呟くように言葉を落とした。


「間違っていたら本当にすみません。……今日の夕飯、作ったのは八重子さんじゃないですよね?」
「……!! ええ、はい。その通りです! 実は、今日は小日向様が作ってくださったんですよ」


 嬉しそうな星川の返答を聞いて裕一郎は「なるほど」と一つ頷き、口の端を少しだけ持ち上げ恋幸の赤い顔に目線を移動させる。


「そ、の……お、お口に合いましたでしょうか……」
「ええ、とても。ありがとうございます」
「ど、どういたしましてです……」
「……胃袋を掴まなくても、私はどこにも行きませんよ」
「へ……!?」


 考えを見透かされ耳から首まで赤く染まっていく彼女とは反対に、彼は全く動揺した様子を見せず小さく笑って食事を再開した。
 星川はといえば、そんな裕一郎の言動に驚くやら二人の空気に当てられて暑いやらで、とりあえず温かい緑茶をすする。


「……はい……」


 蚊の鳴く音よりも小さな声でそう返した恋幸は恥ずかしさから二人の方を見ることができず、手元の味噌煮を小さく切って口に含むといつもより多めに咀嚼した。





「ああ、そういえば! あの、小日向様に大事な話がありまして……」


 夕飯を済ませた後。「洗い物は私がします」と立ち上がった裕一郎の背中を押し「私がするので先にお風呂に入って体を休めてください!」と床の間から追い出した恋幸は、星川と一緒に台所に立っていた。

 洗い終えた食器を乾燥機に入れたタイミングで星川は思い出したような声を出し、なにやら申し訳無さそうな顔で恋幸に向き直る。


「……? どうしました?」
「その……まだまだ夜になると冷え込むでしょう? ですから、小日向様の部屋用に裕一郎様がエアコンを購入されたんですけど……」
(え? わざわざ私のために……? 裕一郎様やっぱり優しい……大好き……)
「業者さんが取り付けに来るのが明々後日で、ですから……それまで、夜は裕一郎様と一緒のお部屋で寝て頂くことになるんですけど、大丈夫かしら……?」
「……なん……」


 3月も残り数日。夜空に向かって吐いた息は、まだわずかに白い。
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