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第23編「睡眠はしっかりとってください」

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 恋幸の心臓が落ち着いてきた頃。

 彼女はタンブラーを手にとって中身のメロンソーダを飲み込んだあと、大きく息を吐いていったん脳みそを冷やしピンと背筋を伸ばす。
 一方で、向かい側に座る裕一郎はまるで何事もなかったかのような涼しい表情でテイクアウトしたコーヒーを口に運んでいた。


「では、これよりっ! 自分は! 本題に入りたいと思いますっ!!」
「……自衛官のようですね」


 びしりと音が鳴りそうな勢いで片手をこめかみ辺りにつけ手のひらをさらす恋幸の様子は、まさに裕一郎の言う通り自衛官候補生の“それ”によく似ている。

 彼の冷静なツッコミに対し、恋幸はハッとした表情でスマートフォンの画面を確認してから自信満々に再び姿勢を正した。


「いちさん、まるなな!! これより会議を始めますっ!!」
「ああ、もう13時ですか。早いですね」


 蛇足だそくだが、『いちさんまるなな』とは現在時刻の13時7分を指している。
 恋幸のくだらな……少々幼稚なごっこ遊びに文句一つ言わない裕一郎からはどこか深い愛情に似た雰囲気が漂っていることなど、当の本人はまだ気づいていないのだろう。


「ええっと、その……詳しくは、倉本様がおっしゃった通り守秘義務があって明かせないんですけど、」
「はい」
「その、協力してほしい事がありまして……」


 自身の人差し指同士をくるくると絡ませて伏し目がちに裕一郎を見やる恋幸。
 彼はそんな彼女に話の先を急かすわけでもなく、首を傾げてただ静かに次の言葉を待っていた。


「……その、」
「はい」
「えっと……く、倉本様に……『大人の恋愛』を、教えてほしくて、ですね……えへ……」
「……」


 場の空気が凍りついてしまわないよう恋幸は無理やりに笑顔を浮かべて言葉を放ったのだが、そんな努力も虚しく裕一郎は目を丸めたまま動きを止めており、静寂が二人の間を支配する。

 みずから“助けてほしい”とすがった手前、今さら「なんちゃって! 変なこと言ってごめんなさい! 他の人に聞いてみますね!」と取り消すわけにもいかず、恋幸はあまりの気まずさに胃がはち切れてしまいそうな思いだった。


「そ、その……ほら、あの……社会人って、同棲とか当たり前じゃないですか! 私そんな経験がないので、あの、大人はどんな風に愛を育んでいくのかな~? とか、知りたくてですね!」
「……」
「ほ、ほら! 特に、恋愛を知らないキャリアウーマンと御曹司の恋愛とか? 大人の男性がどんな感じでアプローチするのかな? とか!」


 なんとか空気を誤魔化そうとした結果、余計なことを次から次へ口走ってしまい恋幸は心の中で「詳細を喋ってしまう前に誰か止めて」とむせび泣く。


「えへ、あの、大人の恋愛は体の相性を知るところからって言いますけど本当なんですかね? なんて、」
「小日向さん」
「……っ!!」


 心地よい低音が名前をなぞった瞬間、恋幸の声帯はようやく震えることをやめて、やっと唇を引き結べた。
 少しの間を置いて裕一郎の瞳が彼女を捕らえ、おもむろに伸ばされた大きな手がそっと顎を持ち上げる。

 そのまま、彼は親指で恋幸の唇をなぞりつつ口を開いた。


「それ、意味がわかって言っているんですか?」
「い、み……?」
「……あまり大人をからかうと、本気にしてしまいますよ?」


 どういうこと?
 そう問うために恋幸が唇を持ち上げたタイミングで、聞き覚えのない着信音が室内に鳴り響く。


「……失礼、会社からです。少し席を外します」
「あっ、は、はい……!」
「できるだけ早く戻りますので、適当にくつろいでいてください」


 それはどうやら裕一郎のものだったらしく、彼は胸ポケットから取り出したスマートフォンの画面を確認するなり、恋幸に軽く頭を下げて部屋から出て行ってしまった。

 一人取り残された彼女は「ふう」と深く息を吐き、左胸に片手を置き考える。


(意味……? 本気にする、って……何を?)


 上手く回らない頭の中には少しずつもやがかかり始め、恋幸はそこでようやく自身が一睡もしていないことを思い出した。


(だめだめ、人の家で寝るなんて失礼すぎる……! 裕一郎様が戻ってくるまで、起きてなきゃ……)





「お待たせしてすみません、小日向さ……」


 部屋に戻った裕一郎の目に映ったのは、座卓に突っ伏して寝息を立てる恋幸の姿。
 彼はできる限り音を立てないよう後ろ手にふすまを閉めると、眠る恋幸のすぐ隣に腰を下ろした。


「……そういえば、今日は会った時から隈がひどかったな……」


 寝顔を眺めながらそんな独り言をこぼし、裕一郎は自身のジャケットを脱いで恋幸の背中にかけてやる。
 それから、規則正しい寝息を立てる彼女の長い髪を指でき、頬に触れるだけの口付けを落とした。


「……いつもお疲れ様です、日向ぼっこ先生」


 そんな彼の顔にひどく優しい微笑みが浮かべられていたことなど、恋幸が知るわけもない。
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