チーズケーキ

カミツレ

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巡り合わせにより嚙み合いだした歯車

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ソーサーとコーヒーカップが振動でカタカタと音を鳴らす。

コーヒーにしか出せない唯一無二の香りが、鼻を刺激する。

 

「お待たせいたしました」

 

 何も置かれていなかったテーブルの上に、白色のカップを置く。

その中に浮かぶ黒色のコーヒー。

派手な色彩なく、小細工なしのモノクロの存在で、これほどまでにテーブルの上を華やかに彩っている。

この瞬間が一番好きだ。

 

「大我、すまん。今日少し伸ばせるか?」

 

 ホールのおれに、キッチンから目を細めて申し訳なさそうに聞いてきたのは、同じ大学に通う航平だった。

「まぁ考えてやらんこともない」

「今日、予定だと13時~18時だよな?」

「そうだったはず」

「18時から夜ご飯休憩で、19時~22時の閉店まで希望」

「閉店後の締め作業は免除か。まぁ明日は日曜日だし問題ないか」

「助かるよ」

 

 平日は大学がある。大学2年ということもあり、まだまだ講義数はパンパンだ。

そのためバイトは基本的には夜の18時~22時に入れている。

 

休日は日曜日を丸一日暇にして遊べるようにしておきたいが、そのための資金を調達するためには平日のバイトだけでは間に合わない。

 ということで、土曜日午前も各週程度には出勤していた。

 

昼間はカフェ、夜はBARのような場所であれば、夜遅くまで営業することも分かるが、ここはお酒の提供はない。

 だからこそ他のカフェと差別化が生まれてか、夜の売り上げは十分な数値を出していた。

 

 ここは横浜駅から徒歩6分にあるデパートの3Fにあるカフェ『Hafa Adai Cafe』

店内にある大きなガラスからは、横浜の街並みの一部を見ることが出来る。

 

 18時からの1時間休憩のため、デパート内で晩御飯を探した

フードコートの中にあるラーメン屋で注文し、ものの数分で体に流し込む。

「ふぅ…」

 

 周りを見渡すと、高校生と思われる集団が勉強を教え合っている。

カフェではスーツを着た人がパソコンを打ったり、資格の勉強をしていたりする。

そのたびに少しだけ胸がズキズキと音を鳴らす。

 

 昔から何かを必死にしたこともない。

中学高校の部活のテニスも、成績に影響しないために適当に流していただけだ。

大学だって、働きたくないからという志望理由だけで受験した。

受験勉強だって、必死に努力して届くかどうかの大学に挑戦するのではなく、無理しない程度に引っかかる大学を選択した。

「そんなおれがこれから社会に出て、何者かにならなきゃいけないのか?」

 

 気づくと頬を涙が伝っていた。

自分の中には、人間全員が持つべき『熱くなる感情』のようなものが欠けている欠陥品に思えた。

近くの学生に気づかれないように、携帯で顔を隠しながら、服の袖で涙を拭うと、航平から電話がかかってきた。

「どうした?」

『どうしたじゃねぇよ。帰ったのか?』

「え、飯だけど」

『まだ食ってんのか?あと2分で19時だぞ?』

「あ、わり。時間見てなかった。すぐに戻る」

 

 時間も気にせず今までの人生を思い返し、何もない自分を情けなく思い涙を流す。

周囲から見たら結構限界の人間として認識されるだろう。

 

 店に戻ると、店内はピークを迎えていた。

「ほら、大我。これ提供して!」

 

 チーズケーキとブラックコーヒーのセット。

ブラックコーヒーの湯気が、徐々に熱を空気に放出していくのが見える。

「分かったよ」

 

 ピーク時で一番難しいのは、慌ただしくしないことだと思う。

都会だけあって、入店待ちに5人などという状況もある。

 

提供、会計、食器の片づけ、客の案内。

全ての動作を流れるように、素早く行うが、そこに騒音や慌ただしさを表現してはいけない。

自らの音を消し、最速最善の最高効率で店内を回していく。

 

「あら見ない顔だね」

 

激流の中を荒々しく進むおれに、一瞬の平穏な湖が現れる。

 

「あまり休日の夜はシフトに入っていないので」

「あら、そうでしたか」

 

 年齢はおそらく70歳~80歳のご婦人。窓際の端の席に座っている。

綺麗な白髪と、かわいらしい服装。何より所作の全てが美しく、数秒間目が離せなかった。

「いかがしました?」

 

 不思議そうに聞かれて、ようやく自分がご婦人のことを凝視していたことに気づく。

 

「あ、すみません。つい…」

「お名前は何と言うの?」

「僕は大我です」

「私は紗都。このカフェには毎週土曜日に必ず来てるけど、大我さんが一番心地のいい店員さんね」

「…ありがとうございます」

 

 何かは分からないが、自分の中の何かの感情がグッと刺激され、目頭が熱くなった。

紗都さんは、ブラックコーヒーをゆっくり30分ほどかけて飲み終え、都会の夜に消えていった。

「不思議な人だ…」

「どうした大我。お前今日変だぞ?」

「うるせ。航平はこのまま締め作業だろ?」

「そうなんだよ手伝ってくれよ」

「おれは疲れた。裏でコーヒー飲んで待ってるよ」

「あらなにそれ、彼女みたい」

 

 語尾にハートをつけるような言い方に心底腹が立ったが、せっかくの紗都さんから得た空間を汚すように思えて、何も言わずにバックヤードに引っ込んだ。

 

 店内では、航平ともう一人のバイトが締め作業を開始し、

バックヤードでは店長がパソコンに今日のデータを打ち込んでいた。

「お疲れっす」

 

 バックヤードは2席しかない小さな空間。

特別普段から長話をしているわけではない店長と2人きりはさすがに気まずかったので、店内の窓際の席に座った。

「うま…」

 

 提供ミスで余っていたコーヒーを静かに啜る。

 

せっかち、おっとり、頑固、器用、不器用など、人を表す言葉はいくつもある。

自分がどれに当てはまるか分からないが、都会のせっかちな雰囲気は少し苦手だったため、どちらかというとおっとりなのだろう。

 

 そんなおれは、都会の雑踏がうっとうしいと思うことが多々ある。

そんな空間にいるのに、自分の周囲の張りつめた空気を緩めてくれるコーヒーが好きだった。

 

「そういや大我ってなんで都会にいるんだ?」

 

航平は、テーブルの上に置いてあるナプキンを整理しながら、コーヒーを飲みながら自分の世界に浸っているおれに対して、土足で踏み抜いていく。

 

「大きな理由なんかねぇよ。都会は便利だろ。だから」

 

この言葉以上でも以下でもない。

本当にこの「便利」という感覚が強いから、都会の大学に行くことにした。

 

 何か欲しいと思ったとき、テレビに出ていたお店に行きたいと思ったとき、

 こういう手に取りたいものがすぐに取れる感覚のみを求めて、都会を選択したのだ。

 

 航平は、質問して損をした様子でバックヤードに入っていった。

 

 今どきの人間は携帯でゲームをしたり、漫画や小説を読んだり、音楽を聴いたりして、手持無沙汰を解消している。

 おれはそういうとき、特に何もせずに街並みを見たり、そこにいる人を観察したりする。

「大我、お待たせ。またぼーっとしてたのか?」

「頭の中で、人類が証明できない問題に取り組んでた」

「頭の中だけで完結できるようなものなら、どっかの天才がとっくに解いてるよ」

 

 2人での帰り道。

電車に乗ることなく20分ほど歩くと、お互いの家の近くに着く。

何にもならないたわいない会話を続け、航平の家の前に着いた。

「それじゃ」

「おう、また月曜日」

 

航平の家からさらに5分ほど歩けば、家に着く。

「はーい、どうも」

 

 誰もいない部屋の中に謎の挨拶をし、部屋の電気をつける。

 時計は23時15分を回っていた。

「あーらら。ずいぶん遅くなっちゃって」

 

 明日は映画を見に、画館に行こうと考えていた。

しかしまだ公開してすぐの作品だから、まだまだ上映期間は長いだろう。

無理して明日行く必要はない。

 

 いつもシャワーで体の表面の汚れをさっと落として終わりにしているのだが、今日はそれだけでは何か足りない気がして、久しぶりに湯舟にお湯をいっぱい貯めた。

 

「あーー…」

 

 足先からゆっくりと肩まで湯舟に浸かる間、人間誰しもが発するあの声を出す。

 

「土曜日の夜もシフト入れてみるか…」

 

今までバイトはお金を稼ぐためだけのツールで、

コーヒーは好きだが、だからといって絶対にあの店舗でなければいけない理由などなかった。

しかし今日のあの充実感は、生きている心地がして非常に気持ちよかった。

その大きな理由の1つにあの紗都さんの存在があるのは明白だった。

 

 風呂の中に持ち込んだビニール袋に入った携帯から、店長に連絡を入れた。

『来週から土曜日の夜のシフト入りたいんですけどどうです?』

 

 初めて店長に連絡を取るとき、もちろん社会のマニュアルに従って電話をかけた。

その第一声が「電話なんかかけなくていいから。出られないこともあるし。メールしてくれ。いつでも見るから」

だった。

 

 不思議な人だと思い、次に連絡とるときは丁寧なメール文面の

「バイトの大我です。夜分遅くに申し訳ありません。明日のシフトの件についてですが…」

 

と5行程度の丁寧なメールを送ると、ものの1分で返信が返ってきて

 

「ながーい。社会勉強用のメール受け答えはおれにはツラーイ。ラフでいいから。1文の伝えたい内容伝達特化型のメールで頼む」

 

 それ以降、まるで幼馴染に送るような軽い文面を送っている。

だから別に店長と2人の空間そのものは何も問題ない。

 

 しかし店長が何かをパソコンに打ち込んでいるときに隣にいると、何かしらの話題を振ってくるのに、返答したときにはパソコンに集中していてこちらの言葉など入っておらず、会話が成り立たないのだ。

 それが少し億劫だったため、パソコンで打ち込んでいる店長の隣には基本的に座らないようにしている。

 

 それから30秒後、鬼の早さの返信が届く。

「りょーかい。来週から頼むわ」

 

 

 結局、この日は夜中の2時にベットに入った。

目覚ましはかけず、起きた時間が午前中だったら映画を見に行こうと思って眠りについた。

 

 

「ん?」

 

 携帯に移る時刻は9時30分だった。

大学生の体力は異常で、大学に通う周りの人間は、休日は基本的に午後まで起きない。

10時間睡眠を余裕で達成するのがザラだ。

 

 昨日自分とした約束通り、映画を見に行くことにした。

 

見たい映画は洋画のサスペンス。難しい説明を字幕で読んでいると、大切な映像を見逃すため、吹き替え版を選択してチケットを購入する。

 

 映画館のこの匂いが好きだ。

ポップコーンの甘い匂いと合わさった、映画館にしか出せない匂い。

 

 大学生は時間はあるが金はない。

バイトをしているのは見たい映画を見るためのお金を担保するためであり、そこに付随するお菓子代は含まれていない。

 手ぶらで自分の座席番号に座り、2時間半の映画に熱中した。

 

 映画が終わるときの光景はいつも面白い。

ストーリーが終わり、出演者の名前が上から流れ出した瞬間に退出する人。

途中まで見て、特典映像的なものがないことを悟り退出する人。

一緒に来た人と映画の振り返りを始める人。

最後まで見て、何も言わずに満足げな顔をして退出する人。

 

 おれは友達と来た場合は、友達のタイミングに合わせるが、自分ひとりで来た場合は最後まで座っている。

 

 映画館の外に出ると、時刻は13時だった。

「少し遅めの昼飯が必要だな」

 

 近くに新しくオープンしたカフェがあり、そこのサンドイッチサンドが人気だと、何かのサイトで見た。

 趣味はないと言ったが、好きなものは何個かある。

例えば、コーヒーの匂いの充満する空間に身を置くのが好きだ。

 

その結果、カフェ巡りが趣味であるかのような、The大学生が出来上がっているのが面白かった。

 

「いらっしゃいませ。何名様でしょうか」

「1人で」

 

 大学に入学した当初は口から発しにくかったこの言葉が、いとも簡単に店員に届けられる。

「ご注文お決まりの際、お声かけください」

 

 ショットグラスですか?と不安になるほど小さなコップに入った水と、おしゃれなメニューが置かれた。

 映画館で2時間半、飲み物も飲まずにいた体に、ショットグラスのお水を全て流し込む。

 

「すみません、サンドイッチセットで、飲み物はブラックコーヒーで。砂糖ミルクいらないです。後、お水ください」

 

 流れるような注文と、店員サイドに立った時に言ってほしい、砂糖ミルクの要不要についても正確に届けた。

 

 ここでようやく店内を見渡す。

白を基調とした可愛らしい店内で、カップルが2組と、女性3人組がそれぞれの場所で、話に花を咲かせている。

 若干の場違い感を感じながら、追加されたショットグラスのお水を再び飲みほした。

 

 サンドイッチは香ばしく焼いたパンと、挟まれたフレッシュな野菜が素晴らしいバランスで美味しかった。

コーヒーもこのサンドイッチに合わせた軽めの味わいで、満足して店を出た。

 

「6杯…」

 

 永遠と繰り返したショットグラスの水のお代わりの思い出が強く残った。

 

「ピッチャーで置いといてくださいなんて、おしゃれなカフェで言えるわけないじゃない…」

 

 育ち盛りの大学生男児のお腹には、少し物足りない量に感じたが、2件目の昼ご飯に行く気にもならず、おれの日曜日は静かに幕を下ろした。

 

 

 月曜日からは大学がある。

自分で選択した教科か不安になるほどまるで興味がない。

眠くなる目を擦りながら、それでも何とかノートを取る。

 

 ここで「眠る」という楽な選択をして、あとで他人のノートを借りるより、

自分でまとめたノートでテスト勉強をしたほうが遥かに効率的なことに気づいたのだ。

便利な道、最善な行動があるのに、わざわざ自分の睡眠欲を満たすためだけに、それらを棒に振ることは出来なかった。

 

「はぁ、眠かった…」

 

 全ての授業を終え、自分の部屋に戻る。

バイトまで1時間ほどある。

いつものように座椅子に座り、今日1日ほとんど見なかった携帯を触りながら、見もしないテレビをつけた。

 

 SNSというのは面白い。

なぜそれほどまでに自分のことを他人に自慢したいのか。

「承認欲求の化け物たちの巣窟…。しんどいな…」

 

 コーヒーやカフェの情報だけ見たいのに、その10倍は目に入ってくるそれらに嫌気がさし、天井を仰いだ。

「少し早いけど行くか…」

 

 Hafa Adai Caféにはいつも10分前程度に到着している。

しかし今日は20分前に到着した。

「今日は早いな」

「あれ、航平。今日もシフトか?」

「金がないからな」

「パチンコ行き過ぎなんだよお前は」

 

 そんな航平だが、将来に向かって資格の勉強をするなど、自分の夢に向かって進んでいた。

それをうらやましく見ることしかできない。

 

「お待たせいたしました」

 

 将来の夢がなく、何も頑張りたいことがなく、不安に押しつぶされそうな自分を脱ぎ捨て、カフェ店員としての精いっぱいの笑顔で接客する。

 

 コーヒーの香りがだんだんと体の中を支配していき、バイトが始まって1時間後には不安でそわそわしていた気持ちも落ち着いていた。

 

「いらっしゃいませ。こちらの席にどうぞ。いつもありがとうございます」

 

 何度も来店されるお客様の顔は、否が応でも頭に入る。

 

珍しい若い同年代の女性のお客様だからなおさらだ。

「ブラックコーヒーとタルトのセットをお願いします」

「かしこまりました」

 

 常連の客となると、メニューが固定されてくることが多いが、この女性は新メニューが出れば必ず食べるし、その日の気分によって通常メニューの中から選んでいるようだった。

「お待たせいたしました。ブラックコーヒーと、タルトです」

 

 女性から数秒間の視線を感じたので、顔を向けると、女性は顔をそらした。

「あの…。すみません。何か間違えましたか?」

「あ、いえ。私…。覚えていませんか?」

 

 人生において一番難しい質問が来たと思った。

「常連の方ですよね」という解答ではない、このカフェという場所以外での何かを答えなければいけないような聞き方だった。

 

まず最初に思ったのは「こんな綺麗で美しい方、どこかで会っていたら忘れるはずないだろ」ということ。

そんなナンパ師のようなセリフをそのまま口に出すことなど出来ないため、頭のフル回転を進める。

 

「あのー、そうですね…」

 

 場を繋ぐために勝手に口から出た言葉。しかしその後が続かない。

「そうですよね。大丈夫です」

「あの、何度もご利用していただいていることは存じておりますが、そうではなくってことですよね?」

「ヒント、お水」

 

 その瞬間、頭の高速回転は一瞬である角度で止まった。

「水、新しくオープンしたカフェ。ショットグラス。6杯…」

「あはは…」

 

 頭に思い浮かんだ言葉が自然と口に出ていたことを、彼女の笑い声で知る。

「あ、すみません…もしかして…」

「そうです。当たり」

「あの…え、あそこの店員さんですか?」

「私が6杯中、4杯もお水を注いだのに、顔見てなかったんですね」

「あれほど場違いな雰囲気で、あれだけ水を頼んでいると、店員さんの顔なんか見られません」

「面白い人ですね。あ、あそこのお客さん、注文決まったみたいですよ?」

「すみません、ありがとうございます」

 

 そのまま隣の席に座り、話し始めたいと思ったが、。その衝動を握りつぶし、注文を確認しに向かう。

 

 そこからほどなくして、店内はピークになる。

その中でたまたま彼女が会計に来たタイミングで、レジに入ることが出来た。

 

「また今度うちのカフェにも来てください。私もここ通い続けるんで」

「いいんですか?」

「もちろんです。場違いなんて勘違いですよ。今度はお水をピッチャーでお渡ししますし」

「なんかすみません…。ありがとうございました」

 

彼女が小さく手を振ったのを見て、小さな会釈で返すので精一杯だった。

 

 それをキッチンに入っていた航平に見られていたのか、ピーク終わりにしつこく聞かれた。

 

「はぁ、それじゃ上がります」

 

今日は航平も22時にバイトを上がった。

「それで、誰なんだよあの可愛い子」

 

 ニヤニヤと体を寄せて聞いてくる。心底めんどくさい

「たまたま知り合った人だようるさいなぁ」

「照れちゃって~」

「それより、資格の勉強進んでんのか?」

「あ?まぁな。そりゃしてるよ。結構難しいんだよなぁ」

「どうやって夢って見つけるんだ?焦るんだよなぁお前みたいに、キラキラ夢に向かってるやつ見ると。やりたいことも分からないし…」

「おれは子供の頃に、ふと憧れたからなぁ。見つけた感覚はなくて、気づいたらそこにあった対象なんだよな」

「はぁ、聞いたおれがバカだったよ」

 

 それから、何をしていたかと聞かれたら、

「なんてことない日常をただ垂れ流していた」と答える程度の平日を終え、土曜日の夜。

 

店長は上機嫌に鼻歌を歌っていた。

「あら大我さん。こんばんは。ありがたいよ休日の夜にシフト入れたいなんてさ」

「まぁ前回シフトに入った時、わりと面白かったんで」

 

 大きな窓から見る休日の都会の景色は平日とは違う。

平日は、仕事帰りのスーツ姿の人々が目立つのに対して、休日は酔っぱらった大学生が多いように思えた。

 さらにピークの波も平日とは違う。

穏やかな時は平日と変わらないが、ピークの波の最高点が平日の1.5倍に感じる。

 

 今日もその荒れ狂う激流の中、紗都さんが来店した。

「いらっしゃいませ」

「あら、またあなたですね。嬉しいねぇ」

 

 おっとりとした紗都さんを、窓際の角席に案内する。

「ブラックコーヒーを1つ」

「かしこまりました」

 

 ブラックコーヒーを持っていったとき、紗都さんは窓の外の人々ではなく、3Fの高さから真っすぐ遠くを見ているようだった。

「お待たせいたしました。紗都さん、何を見てらっしゃるんですか?」

「あら、名前を覚えてもらってありがとね。私も覚えているわよ、大我さんよね?」

「えぇ」

「私が見ているものはねぇ、過去」

「過去…?」

「まだ分からないかもしれないんだけどね。年を取るといろいろあるのよ」

 

 優しく微笑みながら紗都さんは静かにコーヒーを飲んだ。

 

 その後、紗都さんはピークが少し過ぎるまで店内にいた。

「ごちそうさまでした。会計お願いします」

「ありがとうございます。1200円です」

「大我さん、いろいろ悩んでおられるのね?」

「え?なんで?」

「あはは、私、そういうの得意なのかも。それじゃまた来ます」

「あ、ありがとうございました…」

 

 5000円札をレジの中に入れながら、どうしても聞きたくなった。

「紗都さん!」

「あれ、どうしました?」

 

エレベーターの前で立っている紗都さんに声をかけた。

「チンッ」という音とともにエレベーターが開くが、紗都さんはゆっくりとおれの方に歩いてきた。

 

「どうしました?」

「1分でいいんで話聞いてもらえますか?」

「いいですよ。座りましょうか」

 

 2人でエレベータを待つための長椅子に腰かけた。

この時には、自分がバイト中であるという感覚は、すでに消えていた。

 

「何も夢がないまま大学生になって、大人になっていく過程で何かしらやりたいことが見つかるのかと思ったら何も見つからなくて焦ってます。だから今までやったことがない土曜日の夜にシフト入れてみたり、映画を見る頻度を上げてみたり、新しいカフェに行ってみたり」

「うん、うん」

 

 紗都さんは特に返答することなく、真摯に向き合って話を聞いてくれた。

不安や焦りでいっぱいということを、人に打ち明けたのは初めてだった。

少し目に涙が溜まり、言葉が止まる。

「ふぅ…。どう思いますか紗都さん…」

 

 紗都さんからの言葉を待ったその瞬間、空間を壊すほどの鋭く大きな声が飛んできた。

「おい大我!何してる!早く戻れ!ホール回ってないぞ!」

「あぁ!今行くよ!」

 

 答えが聞けるかもしれないと期待して待っていたところの、航平からのこの言葉。思わずいらだちが言葉に乗っかった。

「すみません紗都さん。また来週の土曜日も来ますか?」

「えぇ、毎週必ず来ます。それと最後に1つだけ。今のあなたは正しいですよ」

「え?」

 

 紗都さんは困惑するおれの表情に、笑顔で返すとエレベータに乗っていった。

 

ホールに戻ると店内は回っておらず、すぐに忙しい空間に戻った。

しかし頭の中は紗都さんからの言葉がぐるぐると回っていた。

「正しい…。正しいって何…」

 

 今日も航平に、締め作業後まで待っててくれと言われたが断って帰宅した。

そして0時には別途に入り、目覚ましを9時にセットした。

「明日はコーヒー豆を買いにいくのと、カフェ…」

 

 メインの目的はあのカフェに行くこと。そう思う自分が恥ずかしく、ごまかすように言い聞かせる。

「コーヒー豆が切れかけてるんだ。それを買いに行くついでにお昼ご飯として寄るだけだ」

 

 

 次の日、目覚ましよりも前に目覚めたことに驚いた。

「目覚まし鳴ってないじゃん」

 

 心なしか、いつもより長めな身支度を終えて、出発する。

「さて、いつものコーヒーを…」

 

 家にはコーヒーマシンがあり、コーヒー豆でも粉でもどちらでも対応可能だった。

いつもは豆1袋、粉1袋としている。

 

 豆で買った方が、挽いてから時間が経っていない分美味しいコーヒーとなるが、如何せんコーヒーメーカーの掃除がめんどくさい。

 だからそういうときのためにコーヒーメーカーの掃除の簡単な、粉のコーヒーも同量購入する。

 

「よし…」

 

 コーヒーは選べばピンキリな値段となる。

大学生1人暮らしに特別な日などないため、いつもお手頃価格で悪くない味のコーヒー豆を購入する。

 

「さて、行くか」

 

 少し深く息を吐いてカフェに向かっている自分に、少し笑えた。

 

 彼女のいるカフェの名前は「Kokage」

シンプルなフォントだが、この店内を表現するにはピッタリだと思った。

「いらっしゃいませ。あ、来てくれたんですね」

「え、えぇ。どうも」

「あちらの席どうぞ。ご注文は何にしますか?」

「あぁ、おすすめって何ですか?」

「そうですねぇ。Kokageコーヒーと、フォンダンショコラですかね」

「いいですね。それでお願いします」

「かしこまりました」

 

 1回目に来たときは、雰囲気にのまれて気づかなかったが、ただのコーヒーというメニューと、このカフェの看板のKokageコーヒーがあるようだ。 

 

サンドイッチが美味しいと聞いていたため、前回のサンドイッチ以外の種類が来ると思いきや、まさかのフォンダンショコラ。

 まだ今日一食も食べていないので、出来ればサンドイッチがいいななど、いろいろな感情が浮かんだが、そんな感情は静かに内側に押し込んだ。

 

 店内にはカップルが1組。今日はそれほど混雑していないようだった。

ショットグラスの横に、ピッチャーが置かれた。

そして彼女は少し近くに来て、声を小さくしながら言った。

「ここってオープンして間もないので、まだいろいろ備品が揃っていなかったりするんですよね?なのでこの可愛いピッチャーも、その他のいろんな購入品に忍び込ませて買ってもらいました」

「あ…そうなんですね…。すごく可愛いです。あの、ピッチャーが。

ピッチャーを置くとこのカフェの雰囲気を壊すかなと思ってたんですけど、このピッチャーならぴったりの雰囲気です」

「あはは、ありがとうございます」

 

 ほとんど自分が何を言っていたのかは分からない。

少し彼女が近くに来たことで香った柔軟剤か何かの匂いに気を取られて、頭は真っ白だった。

「お待たせしました。Kokageコーヒーとフォンダンショコラです」

「おいしそ。ありがとうございます」

 

 店内に入ってからずっと緊張して変な気分で話していたが、この時ばかりは素の反応が出た。

 

「あ、私は志保って言います」

「あ、大我です」

「これからよろしくお願いします」

「こ、こちらこそ…」

 

 この前頼んだコーヒーとは違い、苦みに深みがあり、それに合った酸味を感じて、重くなりすぎていない。非常に好みのコーヒーの味だった。

フォンダンショコラとも相性抜群だったし、フォンダンショコラそのものの味も非常に美味しかった。

 

「どうですか?」

「めちゃくちゃ美味しいです」

「よかったぁ!」

 

 大人びた雰囲気の志保さんは、笑うと子供のように無邪気に見えた。

意識しなければ顔を見つめ続けそうになるので、意識的にフォンダンショコラに目線を向ける。

 

「今度Hafa Adai Caféのおすすめ教えてください」

「え、でも…志保さん…はいろんなメニュー食べるからもう食べたことないものないと思いますよ?」

「あそこは季節限定とかいろいろ出て、すごく楽しいカフェですよね。憧れます」

 

 その後、店内がピークとなり、志保さんは店内を縦横無尽に動き回っていた。

会話があったのはその後一度だけ。

食器を下げるタイミングだった。

「ピッチャーだったら飲み切らなかったですね。残念。もしこれでも飲み切っちゃうようなら、もう1サイズ大きいものも準備しようと思ってたのに」

 

 完全に圧倒された。何もかも彼女のペースでかき乱されてしまった。

明日はおそらく志保さんがHafa Adai Caféに来るはず。

その時に自分のペースで会話できるように、頭の中ではシミュレーションが進んでいた。

 

 家に着くころに携帯を見ると、珍しいやつからの着信履歴があった。

「もしもし彰吾?どうした?」

 

 彰吾は地元の友達で、他に仲の良かった数名を連れて、年に1回か2回程度飲みに行く程度の仲だ。そういえばそろそろ前回会ってから1年が経つ。

 

「お前今どこ?」

「横浜。今家に帰ってきたところ」

「そうか、ちょうどよかった。今から地元帰って来いよ」

 

 おれの地元は埼玉の田舎。まぁ公共機関を使って2時間と言ったところか。

実家帰省が楽でいいねとは言われるし、それはその通りだとも思うが、

一人暮らしの家に帰ってきた人間が、夕方から急に実家への帰省をするには少し遠い。

しかし彰吾は当然来るとして、返答を待たずにすぐに電話を切っていた。

 

 バックの中で鍵を探していた手を止め、イヤホンを取り出す。

夕焼けに染まる空を見て歩きながら、ロックを爆音で流していると無敵になった気分になる。

 そんな無敵なおれが向かう先は、どうってことない地元の田舎。

 

2時間半かけ到着すると、彰吾が車で待ち構えていた。

「よ」

「おう」

 

 彰吾の車の運転は、気の抜けた運転という印象で少々怖い。

「久々におれの家~。はい。それじゃそこからバスで駅前戻るぞ」

 

 彰吾は地元に就職したが、今は付き合っている人と同棲をしているようだ。

あまり人ののろけ話に興味がないので、深く聞いたことはない。

 

 懐かしい景色の中、狭く整っていない道をバスが切り進めていく。

「よし、着いた」

「おぉ、なんか久々のメンバーだな」

「計7人。いいねぇ久しぶりだなみんな!」

 

 男7人が居酒屋の一区画を占領し、安酒の飲み放題でみるみる酔っていく。

7人全員の呂律が回らなくなり、2人の脱落者が出た後、5人で2次会。

その後、彰吾と2人で3次会となった。

 

 3次会は公園のベンチで缶チューハイで乾杯。

2人とももうベロベロで、水で大丈夫だったのに、何のプライドかは知らないが、缶チューハイを購入した。

「明日は仕事じゃないのか?」

「明日仕事のメンバーはしっかりセーブしてたよ。おれは休みだ。お前は大学じゃないのか?」

「今まで毎週行きたくもない月曜日に早起きして、休みなく出席してるんだ。1回くらい休んだって何も問題ないわけ」

 

 彰吾は笑いながら、さっきコンビニで買ったナタデココチューハイを傾けた。

「それうまいのか?」

「はは、味なんかもう分からん。なんかゴロゴロしてるのが入ってきたからこれがナタデココなんだろ」

「あ、そ。それで何笑ってんだ?」

「おれはさ、何もしないで生きてきたけどさ。いい彼女を持って同棲して、結婚することになったんだよな」

「は?結婚?なんでさっきみんなでいるときに言わないんだよ」

「言い出しづらかったんだよ。昔の空気のままがよかったし」

 

 おれがキョトンとした目で彰吾の次の言葉を持っていると、ナタデココを噴き出しながら笑った。

「化け物見る目でおれを見るな。いいか、おれはな、正直怖いんだ」

「怖い?」

「今まで何かやりたいことがあればやってきたし、やりたくないことはやらないを貫いてきた。そうしたら見事に自分の中で自分の世界が広がってしまってよ。

それ以外のものが怖くなった。だからそこからおれと言う人間は成長を止めたのかもな?

だけどそんなとき、彼女に出会って結婚することになって、おれが誰かを守って、支えあって生きていかなきゃいけないことに気づいた。

おれのこの貧弱な武器で、これから子供を産むとなれば、子供の分までこの社会で戦わなきゃいけない。おれに出来るのか?」

 

 彰吾は少し言葉に詰まり、ナタデココチューハイを追加で口に放り込みごまかした。

おれは少し安心した。

「そうか。みんな怖いよな。なんか少し安心した」

「安心した?」

「全員が何かに向かって生きていて、何もやりたいことがない、目標がないおれはどうしたらいいかと思ってた。だけど同じように彰吾が悩んでたなんてな。少し嬉しいよ」

「嬉しいか?」

「だけどこの時点ですでに彰吾の中では、妻と未来の生まれるかもしれない子供を守る。それが芯として出来たわけだ。おれとは違う場所にいるわけだな」

「ただ、酒飲んで昔の友達と会えばあの頃のままだろ?」

 

 終電はとっくに過ぎていたので、頭が痛いのを我慢しながら実家に帰った。

彰吾の最後の言葉、昔に戻るという言葉に若干違和感、引っかかりを覚えながら、実家の玄関を開けた。

「何!?びっくりした!酒クサ!!」

 

 父親は寝ているようで、母親が大きな声でおれを迎え入れた。

「ごはん食べる?」

「いや、風呂入って寝る」

「風呂は明日にしなさい。そんなフラフラで風呂入って転ばれたら困る!」

 

 母親は押し入れから布団を引っ張り出して、床に引いた。

「あんたの部屋だったところは片付けたから何もないの。ここで寝なさい。明日は何時に起きるの?」

「ちょ、声でか…」

「何!?」

「いや、明日は大学行かない。こんな状態で行けるかい」

「そうかい。勝手にしたらいいけど。明日は私たち普通に仕事だからね。7時には誰もこの家からいなくなります」

「はーい」

 

 ベットに飛び込んだと同時に目が閉じ、脳が睡眠を始めた。

その夜、何度も夢で言葉が聞こえてくる。

 

『昔の友達に会えば昔のまま』

 

『みんな怖いよな、安心した』

 

『あなたは正しい』

 

 

 「うわぁ!!」

うなされるように起きると、まだ朝日がこの町を照らす直前だった。

「はぁ…はぁ…」

 

 布団を畳み、誰も起きてこない朝6時、おれは横浜に帰ることにした。

「ここで、今やらなきゃいけないことすら何もしないのはダメだ。とにかく動き続けるしかない…。そして探さないと…」

 

 2日酔いで体がぼーっとするが、奇跡的に授業は眠ることなく凌ぎきった。

夜には体からお酒が抜け、通常状態の体がこれほど軽いのかと感動するほどだった。

 

 いつも通り、まるで2日酔いなどなかったかのように出勤して、ピークを凌いでいると、目の前に颯爽と志保さんが現れた。

「あ…」

 

 昨日のお酒がようやく抜け、さらに最近焦りが最高潮になっていることから、今日が月曜日で志保さんが店に訪れるということが頭から抜け落ちていた。

「いらっしゃいませ」

「一番お気に入りの席ってあります?」

 

 他の人に聞こえないように、少し小声で身を寄せる。

綺麗でサバサバした喋り方のくせに、こういう仕草などでギャップを作ってくる。

わざとやっているなら 世が世なら逮捕されるべきだと思った。

 

「一押しの席があります」

「ではそこでお願いします」

 

 案内した先は、ガラス窓の前の端の席から、1つ隣の席。

紗都さんが毎回座っている場所の隣だ。

「いい場所ですね。外も見られて」

「そうなんです。ご注文どうしますか?」

「今日はコーヒーだけで」

「かしこまりました」

 

 コーヒーを置いたとき、紗都さんは不思議そうな顔でこちらを伺った。

「なんでこの席は1つ空けてるんですか?」

「ここは、土曜日のよるに必ず来る紗都というおばあちゃんが座るんです。その人の雰囲気がすごく好きで、いろいろお話したいなぁと思ってるんです。その時と…いえ、その時ばかりは素になれるというか。ホッとするんですよね」

「いいですね。ぜひ私も会ってみたい」

 

 もちろん志保さんとも話したいが、ピークがまだ収まっていない。

すぐに店内の平穏を取り戻すために動き回る。

 

 志保さんは途中から本を読み始めていた。

何についている本なのかも気になったが、それ以上に聞きたいことがあった。

「志保さん、何か目標とか、将来の夢ってありますか?」

「え?」

 

 これまでの会話数や、関係性を踏まえた時、趣味や好きな食べ物などから聞くべきである。

そのマニュアルのダウンロードに時間がかかり、今一番聞きたい質問が飛び出してきたのだ。

「将来の夢ですか。今それを作っている最中です」

「どう、どういう意味ですか?」

「何か目標とか、将来の夢あります?」

「いえ、ないです」

「じゃあ私と一緒だ」

「一緒?おれは今作っている最中ってことですか?」

「そ。コーヒー美味しかったです。今週の日曜日もカフェ来てくれます?」

「あ、まぁはい…」

 

 航平がレジをしながら、志保さんのコーヒーカップを片付けているおれにニヤニヤを飛ばしてくる。

それ以上におれは、志保さんの言葉に混乱していた。

 

 

 次の土曜日の夜、ホールの人数がいつもより1人多いため、少し仕事に余裕が出来ていた。

「あら、悩める若者さん。どうも」

「紗都さん。こちらの席どうぞ」

「はい、どうも」

 

紗都さんにコーヒーとチーズケーキを提供すると、息を整えた。

「どうしました?」

「同年代の女性に、将来の夢や目標について聞きました。そしたら今作っていると言いました」

「あら、積極的な若者男子。いいじゃないですか」

「いやそうじゃなくて。それで逆にこっちにも質問されて…」

「将来の夢?」

「そう、だから無いって答えたんです。そしたら私と一緒だねって」

「あら」

「おかしくないですか?」

「彼女のほうがだいぶ広く見ていますね」

「え?将来の夢を作っているって、それって追っているって意味ですよね?」

「彼女さんに質問してみました?」

「いえ、聞けていません。次に会ったときに聞いてみようかと…」

「聞いてみてもいいですけど、自分で気づいた方がいいですね。その方が成長できますし」

「おれの分からないところで、志保さんと紗都さんが通じ合っている…」

「お名前は志保さんって言うの。私も会ってみたいわ。彼女とは毎週会っているの?」

「彼女って女性って意味で言ってますよね?おれ付き合ってませんし。彼女はお互いのカフェで、店員と客という形で毎週」

「そうですか。それは続けるべきですね。彼女さんとたくさん話してみてください。あなたの悩みは、彼女の先にあります」

「あの…何を言っているのか…」

 

 しかしこのタイミングで航平からお叱りの声が入る。

「はい、すぐに行きます」

 

 慌ただしい店内に戻され、レジに入り、隙を見て紗都さんのほうをチラリと見ると、微笑みかけていた。

「今のままで正しい…。彼女の先に答えがある…。自分で聞く必要はない。それほど焦らなくていいってことなのか…?」

 

「…さーん。。店員さーん。店員さーん?」

「あ、申し訳ありません」

「支払いカードで」

「はい、かしこまりました」

 

 頭の中で、今までの言葉のピースが散らばって置かれている。油断すると、頭が勝手にそのパズルを組み立てようとする。

 一度深呼吸をして、前を見るとレジに紗都さんが来たところだった。

 

「この世界に全知全能の神様がいるのであれば、それはそれはつまらない人生だと思いませんか?」

 

 その一言を残して、会計を終えて、いつも通りエレベーターの前で待つ紗都さん。

それをぼーっと見ながら、今までの紗都さんの言葉全てを並べていた。

そして全ての点が線になった感覚があった。

 

「紗都さん!」

「あら、また怒られますよ?」

「この世界の先なんて誰にも分からないから迷っていて当然。分からなくて当然。

その過程を志保さんは楽しんでいるから、彼女は「将来を今作っている」と言ったんですね?
これから先のどうなるか分からない世界に自分が自分として立つために、今を生きているという意味で」

 

 紗都さんは何も言わずにニコリと微笑み、エレベーターに乗っていった。

「はぁ…」

 

 大きな…大きな胸のつっかえが抜けた気がした。

「おいこら」

 

 現実に一気に引き戻す声と、頭に響く鈍痛。

振り返ると航平がいた。

「戻れ。ピークじゃって言ってんだろ」

「あの、本当に申し訳ないことこの上なし」

 

 日曜日も相変わらず朝9時過ぎには起きた。

今まで頭パンパンにして考えていた、漠然とした将来の不安は、少し和らいでいた。

「将来のことの不安が消えたわけでもない。興味のあることが出来たわけでもない。
でも今、正しく苦しんで、もがくことが将来の何かに繋がっているんだ」

 

 興味があるかないかではなく、やってみるかどうかで考えてみようと思った。

 

 昼ご飯にいつもは食べない中華屋さんに入り、それほど響く料理ではなかった。

しかしそれでよかった。むしろ嬉しかった。

「今まで知らなかった店に入り、その店の味を知った。知る前のおれと知った後のおれでは経験値に差が出来てる…」

 

 周りから見たら宗教にハマッた、かなりやばい生き物だと思われるだろう。

しかしそんなこと関係ないくらい、いろんなことがしたかった。
ここで分かったことがあるが、将来の夢に繋がるようなことをしたいと考えていたから、
何も始められていなかったが、冷静に見直せばいろいろやりたいことがあった。

そして思った以上に人間は自由だと思った。
 

 安い雑貨屋に入り、調理用具をいろいろ揃えてみた。

「おれの今の好きは、コーヒーに向いている。まずはその存在から近い甘いもの。そういうのを自分で作ってみたい!」

 

 何がいるかは分からないが、適当に検索したケーキに必要になると記載されている調理器具の全てを購入した。

 

 大きなビニール袋を指先に引っかけて、Kokageカフェの前に来た。

「やっば…。あまりに夢中で、ここに来ること考えられてなかった」

 

 すると店の扉が空き、志保さんが現れた。

「何してるんですか?誰かと待ち合わせ?」

「いや、入ろうと思ったときに、この袋を持っているのに気づいて…。おしゃれなカフェに無造作なビニール袋を持ってきてしまったどうしようかなぁと」

「そういう方もいるかと思って…」

 

 志保さんは少し店内に引っ込むと、すぐに外に出てきた。

「見てくださいこれ。このカゴの中に荷物を入れてくれれば、床に直接置く必要もないし、バラバラしてるものも入れられるし、ビニール袋だって気にならない。どうです?」

「じゃあ入ります」

 

 志保さんは慣れた様子でピッチャーとショットグラスを置いた。

ショットグラスのサイズをアップしてくれれば、ピッチャーの存在はなくなっても構わないのにと思ったが、何かこだわりがあるのだろうと口には出さなかった。

「何にします?」

「Kokageコーヒーと、チーズケーキで」

「チーズケーキ好きですね?」

 

 今までと違うことをしたいと思っていたのに、いつもと同じものを注文しようとしている自分に気づいた。

「あ、ごめんなさい。チーズケーキじゃなくてこれで」

 

 指さしたメニューの写真に写されているのは、クッキーでクリームを挟んだもの。

「何かありました?」

「あぁ、実は、この前話した紗都さんに、ある程度今の悩みを乗り越えるヒント的なのを教えてもらって…。それでどうにかその点を線にしてみたんですよね。それで今をとにかく楽しもう。新しいこと、面白そうだと思えるなら、関係なくやってみようという期間に突入したわけです」

「なるほど…」

 

 志保さんは何かを言おうか迷った様子だったが、後ろに引っ込んでいった。

いつもはカフェに来るとほとんど携帯を触らないが、今回ばかりはお菓子作り用のグッズを買ってしまったため、いろいろレシピを調べていた。

 

 こうやってみて気づくが、コーヒーだけではなく、人よりも甘いものが好きなのかもしれないと思う。

「こういう発見もあるのねぇ…」

 

「お待たせいたしました」

「あ、ありがとうございます」

 

 今日のKokageコーヒーも最高に自分好みの味だった。



「なーるほど…。なーんか市販のもの買った方が安く済みそうだな…」

 

 お菓子作りにおいて、元も子もないような答えに行き着きそうになったとき、志保さんが小さく折りたたんだ紙を渡してきた。

「恥ずかしいんで家帰ってから見てくれます?」

「え、はい…」

 

 家に帰ってから、その紙を開くと、紙の一番上の行にRecipeと書いてあるのを確認した。

「別に期待してないし~…」

 

 家に帰ってきて荷物も置かずに、紙を開いた時点で何かを期待していることが確定しているのに、口には出さなかった。

 

 とりあえずその紙をテーブルの上に置き、風呂や晩御飯を済ませた。

「さて…」

 

『何かスイーツ系を作りたいということなら、私がまずおすすめするのはパウンドケーキ。スイーツづくりの基本とされているものです。私のおすすめレシピを書きますね』

 

 工程を丁寧に1番から記載してくれているうえに、ところどころ大雑把な数値が出てきたり、挿絵が入っていたり、レシピなはずなのにすごくおもしろかった。

「『ドバッと』ってどんな単位だよ…。経験者じゃなきゃ伝わらないよこれ…」

 

 でも自分のためにレシピを書いてくれたのが嬉しかった。

「食材を買いに行かなきゃいけないから、スーパーに行かなきゃだ…」

 

 レシピとは別に必要な食材と分量まで綺麗に書かれている。

「よし、それじゃ明日買いに行くか…」

 

 ここからスーパーまでは徒歩で15分。

自転車の購入も考えていたが、置く場所がないなどいろいろな問題があり、結局買えていない。

 都会の人間は、車も自転車も逆に不便になってしまう場所が多いことと、公共機関が充実しまくっていることから、歩きを選択することが多い。

 「車がいい…」

 

 漠然とだが、将来都会で歩き続けるのは無理だという感覚だけがあった。

 

 

 月曜日、もうすぐテストがあるということで、少し勉強をする必要がある。

予定していた講義の全てが終わり、バイトまでの時間で、テスト勉強のためにノートを開く。

 

「よし、この1ページは、講義中寝なかったことを称えよう。書かれている文字はおそらく象形文字に分類される…。参った…。まぁここの範囲がテストに出たら捨てだな…」

 

 いくつになってもテスト勉強は憂鬱だ。

いつの間にか意味もないのに携帯を開いたり、冷蔵庫に冷やしてあったいつ買ったか分からないジュースを飲んだりした。

「さて、バイトの時間だ」

 

 しかしこの日、毎週来ていた志保さんが姿を現さなかった。
現れるはずだと心の中で、思い続けていたが、その期待が叶わなかった。
自分の想像よりも遥かに深く、この現実を受け入れた。


しかし周囲に気づかれないために、そのことを気にしていない自分を装って、航平の締め作業を待っていると、余ったコーヒーをおれの目の前に置かれた。

「これはお前が締め作業後に飲めよ」

「じゃあおれからのおすそ分けだ」

「なんのだよ」

「意中の女性が来なかったことで傷心している友達へ向けた、精いっぱいの労いの1杯のコーヒー」

「早口だしうるさいし」

 

 周りに気づかれるほど落ち込んでいる自分が恥ずかしくなり、顔を隠すように慌ててコーヒーを飲んだ。

「航平はいい関係の人とかいないのかよ」

「おれはサークルでいい感じの人がいるさ。まぁ彼女には相手がいるのでねぇ。何もできないけど」

「へぇ」

「興味ないなら聞くな」

 

 興味がないわけではない。彼氏がいる女性を好きになったことがないから、どういう感覚なのか不思議に思った。

巷ではそういうとき、いろんな表現をされる。

「ゴールキーパーがいるならシュートを打たないのか」

「人のポケモンにモンスターボールを投げるのは禁止」

 

 興味がないわけではないが、これ以上踏み込んで聞くことではないと判断した。

「彼女の連絡先知らないのかよ?」

 

 航平は締め作業の手を止めず、食器を洗いながら大声で叫びながら聞いてくる。

「あ?聞こえてるか?」

 

 聞こえているけど聞こえていないふりをして返事をしない。

なぜ大声でこんな話をしなければいけないのか。そもそも航平に特に話したい話は今のところない。

「おい、聞こえてるのか?」

 

 洗い物を終えて、水の付いた手から水滴を飛ばしながら、至近距離で聞いてくる。

「連絡先は知らねぇよ」

「なんだよ聞こえてたのかよ」

「連絡先も知らないし、あの人が何歳で何してる人なのかも知らない」

「なんだそれ。さっさとアタックしろよ」

「お前には関係ないだろ」

 

 今の関係が悪くなかった。居心地がよかった。

ここからもう1歩踏み込めば、この2人の関係に何かしらの名前がついてしまいそうだった。

 何にも分類されない程度のこの距離感が心地よかった。

 

「心地いいは、時には逃げだよな…。ここも変えなきゃいけないのか…」

 

 なんとなくこのことを紗都さんに相談するべきだと思った。

「よし、次の土曜日まで考えることをやめる。まずはパウンドケーキ!」

 

 急に出てきたワード、パウンドケーキに、航平は処理出来ていない様子でキョトンとしていた。

「何してる。航平、帰るぞ」

「あぁ」

 

パウンドケーキはどうやら型がいるようだ。

細長い形をした型。それを100均で物色する。

「あら、こんなのまで…」

 

 まるで息子、娘を育てる母親のような言葉が自分から無意識に出ていた。

「はーん、志保さんのレシピにはドライフルーツって書いてあったけど、何にしようかな…。まずは無難なのからやりたいよな…。そうなるとレーズンか?」

 

 100均からスーパーに場所を移し、レーズンの棚を探す。

いつも自炊をするときは、野菜コーナーと肉コーナーと総菜コーナーを回るだけで、その他の棚は見たことがない。

 そのためレーズンのような突拍子のないものがどこに陳列されているのか検討もつかなかった。

 さすがに恥ずかしいため店員に場所を聞くこともできず、人の3倍くらいの時間をかけて、レーズンの棚を見つけ出した。

「はぁ、テスト勉強しなきゃいけないのにこんなことしてるのは正解か否か…」

 

 答えは確実に否ではあるが、どうしても早く作りたかった。

「さて、これでとりあえず材料は揃ったか…」

 

テストは今週の金曜日。

最悪2科目くらいは単位落としてもどうにかなるか程度にも考えていた。

 

 高校生の頃のおれが調べた大学生という生物は、時間があるがお金がなく、

逆に社会人になる道を選べば、金はあるが時間がない。

 

 しかし今になって思う。

大学生は時間があるから、いくらでも詰め込めてしまう。

時間が有り余る人と、むしろ時間の使い方に制限がなさすぎるがためにとことん突き詰められるからこそ時間がない人がいるのだと分かった。

 

 テストを前にして、テストではなく日常の自分の暮らしについて考え直すことにした。

A3の紙を狭いテーブルからはみ出させながら広げる。

「まずは月曜日と土曜日。これは確実にバイトを入れたい…。まぁそれに水曜日も今はバイトの予定だ」

 

 今のおれに新しい風を送り込み、何かを見つけられるかもしれない人との関わりを削る選択肢などない。

 

 火曜日と木曜日はテニスサークルに行っている。

一応中高と続けてきているため人並みには出来た。

さらに就職するときに、サークルで〇〇してました!なんて言えると便利だと、地元の先輩が言っていたのを思い出し、このサークルの活動を続けている。

 

 

 

金曜日だけは今のところ予定はない。

「ここか…」

 

 金曜日は「1週間お疲れ様ということで体を労わる日としましょう」として、バイトも何も入れていない。

「今週金曜日はテスト。だけどそれが終わればいつも通りの夕方を迎える。

今週はパウンドケーキを作ろう」

 

 金曜日までの数日、さすがにテスト勉強が不足していると感じ、なんとか単位を落とさない程度の完成度まで持っていくことが出来た。

 

 

「さて、作るか」

 

 使う材料を、狭いキッチンにギチギチに詰めて並べた時に、第一のミスを知る。

「あーりゃ、卵とバターを常温に戻して置かなきゃいけないのに…。注意事項で星マーク書いてくれてんのに…。すっかり忘れた…」

 

 ネットで調べると、バターは電子レンジでチンするといいと知り、軽く温める。

「卵はよしとしよう…」

 

 謎理論で、卵だけは冷えた状態で使われることとなった

 

 この間購入した大き目のボールにバターを入れる。

「ちょうどいい具合に柔らかくチンできた…。ふぅ…」

 

 それを泡だて器で人力で混ぜる。

「なるほど。もう少しふわっとするくらい混ぜるのか…」

 

 おれは志保さんのレシピを予め確認して知っている。

この後、砂糖や卵を何回かに分けて入れるたびに、混ぜなければいけないことを。


 混ぜ始めたらすぐに生地に馴染む。
しかしそんなにすぐに混ぜ終わるはずがないと思い、気づけば15分以上混ぜていた。
いつまで混ぜればわからないため、再度いろいろなレシピを見直すと、分離せずに混ざれば問題ないようだ。
腱鞘炎になりかけた腕を見ながら、謝らずにはいられなかった。


「無駄な労力をかけてしまった…。よし、とにかくこれで生地はできた。これをこの型の中に流すのね…」

 

 力を使い切った腕でなんとか生地を長細い四角い型に入れていく。

「震えるなバカ!」

 

 多少、生地をキッチンが食ったが、それは見て見なかったことにして、指で拾い上げて四角い型の中に放り込んだ。

 

 ここで2つ目のミスを犯す。

「なーるほど。星印に書いてありましたね。余熱が必要と…」

 

 すでに生地が出来て、あとは焼くだけの状態であるため、余熱しているオーブンレンジをただただ凝視するだけの時間が過ぎた。

 

 頭の中は入居当時のことを思い出していた。

実家から「必要ない」と散々言っておいた大きなオーブンレンジが届いたときのことだ。

 

『だからおれいらんって言ったでしょうが』

『いいから!黙ってもらっときなさい!』

 

 あの時の母親の思惑としては、「このオーブンレンジを息子に渡すことで、最新のもっといいやつを買う口実が出来る」

そんなところだろう。

 

 その考えが透けて見えすぎていて、当時は腹が立ったが、今となっては感謝だ。

大学生の1人暮らしが、このサイズのオーブンレンジを購入するには、相当な勇気が必要になる。

 

 そんな時、余熱の終了を告げるアラームが鳴った。

「さて、これで焼けるのか」

 

 10分ほど焼いた後、包丁で中央に線を入れる。

これを入れることでいい具合に焼けるようだ。

「おーう、すでにいい匂い…。食べれそうだ!」

 

 確実に生焼けの状態のパウンドケーキですら美味しく思えるほど、スイーツを作る過程を知らない。

 

 それから約40分後、完成した。

「おー!少し焦げたけどいいんじゃない?すごい美味しそう!」

 

 初めて自分で作ったスイーツ…。思わず写真を撮った。

「さて、コーヒーも入れましたし…。いただきます!」

 

 初めて自分で作ったものとは思えないほどおいしかった。

「これは…ハマるな…」

 

 最高の気分だった。レシピ通りに作るだけで、出来て当然と思われるかもしれないが、ケーキ作りをしなかった人間が、する人間の領域に踏み込んだ瞬間のこの感覚は、一生忘れられないと思うほどの興奮がある。

 

 

 「あ…」

 

 気づけばコーヒー2杯とともに、パウンドケーキを全て食べきっていた。

 

「次回は何やるか…」

 

 さっそく携帯を開いて調べ始める。

しかし新しいことをするということは、通常の脳の働きでは成し遂げられない。

いつのまにか座椅子に座ったまま、テーブルに頭を置いて眠っていた。

 

 

 その代償は大きく、次の日の土曜の夜のバイトは、寝違えた首という大きすぎるハンデを背負って業務に当たるしかなかった。

 

「おい大我!」

 

 航平から名前を呼ばれても、体全体で顔を向けるか、声だけ出して体は仕事を続けるかの二択だった。

 

 途中からそれに気づいた航平が、呼ぶ必要がないのに呼んでくるため、結果すべて無視することになった。

「あぁ、まじで首やば…」

 

「あら、大我さん。どうしたのそんな顔して」

「紗都さん!いえ、昨日座椅子で寝たら首寝違えちゃって」

「あら若いわね。私が座椅子でうたたねしても、すぐに体が悲鳴を上げてベットに連れていかれるわ」

 

 紗都さんはいつもと同じ場所に座り、コーヒーとクッキーのセットを注文した。

「紗都さん、お話が」

「はい、なんでしょう」

 

 クッキーを一口かじりながら、こちらを向く。

「昨日、パウンドケーキなるものを作ってみました!志保さんがレシピをくれたのでそれ通りに」

「あら、どうだった?」

「すごく美味しかった!自分で作ると独特な感動がありました」

「そうでしょう。次の段階はきっと志保さんが見せてくれるんじゃないかな?と思うんですけど…。どうでしょうね。そううまくいくか」

「次の段階?あ、そういえば今週の月曜日、初めて彼女来なかったんですよ。いや別に気にしてるとかではなくてですね?いつも来てくれてたから何かあったのかなぁと思ったりして…。

まぁだから、こちらも1度、明日はカフェに行かない日にしようかなとか考えたりしてて」

「どうしたいんですか?」

「どうしたい?まぁあそこのカフェ美味しいんでね。いいですよね…」

「面白い人ですね大我さんも、その志保さんという方も」

 

 全てを見透かすかのように事態を把握している紗都さんが、これまで以上に大きな存在に感じた

「好きにしたらいいと思いますよ。いいですか。これだけは覚えておいてください。自分が納得した決断をして、何か思いもよらないことが待っていた時、決断そのものを間違えたと思わないこと。あくまでその道は正解で、その間違ったと思わせてくるものすら大切なエッセンスです」

「…はい」

 

 ほとんど理解出来ていない。だけど、これ以上紗都さんに聞くのは違う気がした。

 

「ごちそうさまでした。大我さん、毎週ありがとね」

「え?何がですか?」

「あなたのおかげですごく楽しい土曜日になる」

「それってバカにしてます?」

「そんなことないわよ。こう…なんて言い表せばいいか難しい感情なんだけどね…。胸の内側がじんわりと暖かかくなるのよ」

「はぁ…」

「また来週来ますね。またお話聞かせて」

「はい、ありがとうございました。またお待ちしております」

 

 おれのバイトは終わり、航平は相変わらず締め作業。

おれは先に帰るかどうか迷ったが、先に帰ることより、この場所で歩く人々を見ながら考えていたかった。

 

「さーて困った…どうするかなぁ…」

 

 今日はたまたまチーズケーキが廃棄として出ていた。

冷蔵庫から取り出すときに、テーブルに落としてしまったようだ。

清潔にしているテーブルに少し触れたことくらいなんてことはない。

むしろそれを食べれるのはありがたい。

「うま…」

 

チーズケーキはしっとりずっしりしていればしているだけうまい。

紅茶ともコーヒーとも合わせられるチーズケーキ。

「重めのチーズケーキ&ブラックコーヒー」と同じ土俵に上がれる「紅茶&〇〇」があるだろうか。

いーやないね

 

 そんなことを考えながら、外を眺めていると、いつのまにか航平が締め作業を全て終わらせていた。

「何をニヤついてんだ変態。帰るぞ」

「あ、おぉ」

 

 結局、明日Kokageに行くかどうかの作戦会議は、チーズケーキという大勢力に飲まれて消えた。

 

 

 結局、次の日の朝起きたときにもまだ、行くのか行かないのか決め切ることが出来ていなかった。

「でもとりあえず服買わなきゃいけない…」

 

 少しずつ肌寒さを感じる時期。

上から羽織うカーディガンやジャケットが1枚欲しかった。

服屋を何店舗か周り、3枚ほど気に入った服があったが、値札を見て購入を決意できなかった。

 

「布だぜ…。こいつら…布なんだぜ…」

 

買い物中おれの頭の中を回り続けた言葉である。

 

結局、迷ってるくらいなら行くべきだということで、Kokageカフェを訪れた。

その日はいつもとは違う店員さん。志保さんの姿はなかった。

 

 コーヒーだけを頼み、来週の金曜日の予定を考える。

「チーズケーキねぇ…」

 

 いつもの半分程度の滞在時間でカフェを出た。

「ん?」

 

 着信を告げる振動をポケットから感じ、画面を見ると航平からだった。

「なんだ、電話か珍しいな」

「あー、そうでっすねん。電話なんだよねー」

「おっけ、酔ってんな。それは分かった。それで?」

「これから飲みに来ない~?」

「先週飲み会やって金なくなったって言ったろ?」

「それじゃ奢るからさ」

「居酒屋代いくらだと思ってんだよ」

「今おれがいるとこの住所送っときましたんで」

 

 それだけ言って切られた。

「だから…なんて身勝手な…」

 

 送られてきた住所は歩いて15分ほどの場所。

しぶしぶだが、顔を少し出すだけと思い、行くことにした。

 

「お!来た!こっち!」

 

 航平は、チェーン居酒屋のカウンターに座っていた。

「お連れ様ですか?」

「あ、そうです」

「かしこまりました」

 

 航平の横に座ると、こっちが酔いそうなくらいの酒の匂いがした。

「それで、どうした?てっきり何人もいるのかと思ったら1人でこんなに酔ってんのか?」

「やけ酒っていうものを体験してやろうかと思ったんさ」

「んさって…。おぉ、じゃあ聞くか…」

「すっごくシンプルに言うと、いい感じに思っていた人にアタックしたら断られ、精いっぱいの満面の笑みという苦笑いを返し、涙ながらにこの居酒屋に辿り着いたかわいそうな男」

「すべてが分かる明確な説明どうも」

 

「お飲み物なににしますか?」

「じゃあビールで」

 

 おれがお酒を頼んだことで、航平は目を光らせてこちらを見た。

「一緒に飲むのか?」

「明日大学行かなきゃだから、そんなになるまでは飲めないからな?」

 

 すでに泥酔している航平に、これ以上飲むなという釘を刺すための言葉だったのに、その言葉を受け流し、ビールのお代わりをもらっている。

「恋愛っていうのは難しいな。今となってはさっさと気持ち伝えて爆散してたほうがよかったとも思うし。だけどあの時は最善だと思うし。いやーミスったか…。でもどうせ未来は変わらなかったよなぁ…」

「おれがよく話しているおばあ様いるじゃん?」

「カフェに必ず土曜日に来るあの?」

「うん。その人が言ってたんだけどさ。自分が選んだ道が間違っていたかと思うようなことが起きても、決してそんなことはない。

今できる最善だったはずだから、あくまで選んだ道は正解で、間違ったと思わせてくる出来事すら大切なエッセンスだって」

「へぇ、さすがって感じだな…」

 

 航平もいまいちピンと来ていないようだった。

おれもまだ実感がわかないこの感覚。その状況に置かれた航平であれば刺さるのか気になって聞いてみただけだ。

「何か頼むか?」

「たこわさと、ハツ」

「はいよ」

 

 飲む気もないが、航平の酒が止まらないため、こちらも引っ張られて、結局泥酔一歩手前くらいまで到達した。

「航平…。帰ろ」

「あぁ」

「明日も大学だ…。2週連続で飲み会って…」

 

 居酒屋でバカ騒ぎして散財するために、大学の貴重な自由時間を全てバイトに捧げているような人間にはなりたくなかった。

その領域の暖簾から頭を出し。中の様子を確認したところまで来てしまった気がする。

 

 月曜日のバイト。いつものような心の踊りはない。

志保さんが来るということで、毎週月曜日のバイトは浮かれていたのだと気づく。

 

「あれ、今日は元気ないか?」

 

 店長にも気づかれてしまう始末。

「いえ?ぜーんぜんそんなことないですよ?」

 

 ぜーんぜんうまくごまかせていないですよそれじゃ

と、頭の中の大我さんに注意される。

 

 しかしそこに、いつもと変わらない志保さんが現れた。


今後会うことはないのかもしれない。だけど関係ない。名前の付かないおれたちの関係は、いつでもなくなる儚さがある。


そうやって自分に言い聞かせていた。

 

「あ…い、いらっしゃいませ!」

「久しぶりになっちゃってすみません」

「いえ…。こちらの席へ」

 

 この前通した紗都さんの隣の席。

今日も空いていたためそちらに案内する。

「今日は少し空いてます?」

「そうですね。ピークが少し早かったので」

「そうですか。コーヒーとチョコケーキのセットをお願いします」

「かしこまりました」

 

 ホールに体を向けると、航平が親指をこれでもかと立てていた。

よかったなと言いたいのだろうが、それほどまでにはっきりグットサインをしていると、おれ自身が何かを成し遂げていないと成り立たなくなってしまう。

「航平がそんなに喜ぶことか?」

「お前、自分が気づいてないだけで、しっかり凹んでたからな」

「そんなことねぇだろ」

 

 志保さんは外の景色をキョロキョロと首を振りながら見ていた。

「おまたせしました」

「ありがとうございます。やっぱり人通りがすごいですねぇ」

 

 そんな今頃になってそんなことが気になります?と思ってキョトンとしていると、志保さんがそれに気づいて笑った。

「あはは、すみません。行ってませんでしたね。実はここ数日実家に帰省していまして。祖父が亡くなってしまって…。そのついでに久しぶりの実家を満喫してきたりして…」

「あ、そうだったんですね…。ご実家はどこなんですか?」

「山梨です。あ、何もないなって思いました?」

「いやそんなことありませんよ。行ったことないから想像がつかなかっただけです」

「これ、お土産です」

「これは…」

「山梨名物ほうとうの素です。お菓子作り始めたということで、こういう料理を作るきっかけになればと。日本の土地ごとの食べ物を作るのも楽しいですよ」

「ありがとうございます。お土産わざわざ買ってきてくれたんですか?」

「自炊のレベルに関係なく、大きく具材を切って、適当に煮込めばある程度、いい味になりますからね。これはさすがにレシピ書いてませんけど、大丈夫そうですか?」

「料理に関しての信頼が一切ないようですが、大丈夫だと思います。

あ、パウンドケーキのレシピありがとうございました。おかげで上手に作れました」

「あ、そうだったんですね!よかったです。普段の自炊は計測スプーンなんかは使わないですけど、どうしてもスイーツづくりは必須になりますのでね…。それでもあんまり覚えてなくて大雑把な擬音で表現したりもしましたけど」

「今度、これ使ってほうとう作ってみます」

「えぇぜひ」

 

 周囲の音が全て排除され、志保さんと自分の空間しか存在しないような一瞬。

しかし世界は普段通りに回っている。

「はい、お話は終わりかい?もう限界だ。さっさとホール回せ!」

 

 店長と航平が気を聞かせて、ホールの仕事をやっていてくれたようだ。

「サンキュ。おかげで大事な話が出来た」

「そういうのは告白とか付き合いましたとかの時に言うんだよバカ。お前がやってるのはただの会話だ」

「うるせぇ」




 

 火曜日のテニスサークル。いつもは少人数で集まって気軽にボールを打ち合っている。

しかし今回は近くのコートを借りられたということで、サークル内でダブルスのトーナメントが行われることとなった。

 

 男女がバランスよくいるサークルであるため、ダブルスは男女ペアで行われることとなった。

おれの相方は華さん。自分より1年後輩だ。

テニスをするときには邪魔になるだけ長い髪の毛を、後ろで1つに束ねていてクールなイメージ。

あまり1対1で話したことはないが、サバサバしている印象だ。

「どうも。お願いします」

「あ、お願いします」

 

 なぜかよくわからないが、上手に事が運んで1回戦を余裕で勝利に収めた。

「うまいですね華さん」

「どうも。でも私は大我さんに合わせてただけです」

 

 得点シーンは明らかに華さんの仕掛けから生まれた部分が大きかった。

見た目によらず、プレーはアグレッシブで、人の嫌な部分へ的確に打ち込んでいく。

少し怖く感じた。

 

「あの」

「え?」

 

いきなり大き目の声で話されて思わず少しのけぞる。

「えっと…どうしました?」

「バイトって何してるんですか?」

「バイト?バイトはカフェだね」

「あの…。こんな感じの人間なんで、バイトの面接落ちてて…次に行く気力も湧かなくて…。だけどたままた大我さんがカフェで働いてて、人手が足りないって言ってるのをこの前のサークルで聞いて…。だけど、求人は出てなくて…」

 

 話しながら要点をまとめようとすると、次に話したいことが生まれて、さらに要点がまとまらなくなっていくようだ。ただ、言いたいことは分かった。

「そうなんだ。コーヒー好き?」

「コーヒーというより、カフェのスイーツが好きで…。コーヒーはミルク入れないと飲めなくて…」

「そうなんだ。いきなりだけど明日って空いてる?」

「講義終わりなら…」

「17時30分とかに、Hafa Adai Caféのあるデパートの前に来れる?」

「はい」

「それまでに店長に話し通しておくから」

「ありがとうございます!」

 

 華さんが嬉しそうに少し大きめの声で感謝を伝えてきた。

「いえ、大丈夫ですよ」とかっこつけて流しているが、心の中では「ほーう、これがギャップというやつかいな?」という変態おじいさんが一瞬顔を出してきたのを、心の奥底に押し込み返していた。

 

「じ、じゃあ今ここで店長に連絡しとくから」

「お願いします。もし分かったらテニスサークルのグループの中の私のことを登録してから、送ってもらってもいいですか、すみません…」

「分かったよ。あ、そろそろ次のおれたちの試合だ」

 

久しぶりにやる全力のテニスは、腕も足もパンパンになる。

接戦になったが、最後の最期で華さんのスマッシュが完璧に決まり、2回戦も突破となった。

「なんだかんだ勝ってるね…」

「えぇ、私も意味が分からないのですがなんとか…」

 

3回戦も無事に勝利したことで、ついに決勝戦に駒を進めた。

「あのぉ…わたしたちって強いんですか?」

「いや、そんなつもりはなかったんですけど、なんか勝ててるね…。本気で戦うことなんてなかったから、周囲の実力なんて分かってなかったよ…」

 

 だからこそ、決勝で戦った相手は圧倒的だった。

いつも軽くテニスをやっているときは、力の2割も出していなかったんだと言うほど、コテンパンにやられた。

 

 連戦によって華さんは木陰で木を背もたれにして座り、肩で息をしていた。

「いや、あれは化け物でしたね…。これどうぞ」

 

 近くの自販機で買ったスポーツドリンクを渡す

「ありがとうございます」

「あぁ、それと。店長からオッケイ出たんで、明日面接です。なぜかおれの同席も求められたので、店長の隣に座ると思います」

「ほんとですか!ありがとうございます!」

 

 水曜日の講義終わり、17時半に余裕を持っていこうと思うと、学校帰りにそのままバイトとなる。

17時20分にデパートで華さんと会い、そのままカフェに向かう。

 

 当たり前だけど、テニスをやるときとは雰囲気が違う。

面接ということもあるため、普段通りかは分からないが、シックな服装に髪はポニーテール。


「ここです。それじゃここに座って」
「はい、緊張しますね…」
「そうだよね…。おれもここにいるから大丈夫だよ。ちょっと待ってね、店長!」

「はいはい。あー、あなたが華さん。よろしくお願いしますね。ここで店長やってます。おいおい大我くん、こんな綺麗な人を連れてくるなんて!」

「…てんちょう?」

 

 ゆっくりした口調でしっかり店長を睨む。

『綺麗とか清潔感があるとかは、心の中で思っても口には出さないんだよ。面接に来てんだから早く面接に関すること、仕事に関すること話して、店長らしく振る舞ってくれ。世が世なんだからセクハラで訴えられるぞ』

 

 このメッセージの大半が伝わったようで、店長は笑顔のまま彼女が提出してきた履歴書に目を通した。

 

 ここで起こる数秒の無言の時間。

 

『さっきは睨んだけど、それは関係ないことを話すなと言っただけで、ある程度人間性を知るために会話は続けるべきだろ。なんでこの無言の時間の居心地の悪さは気にならないんだよ…』

 

 店長という人種に振り回されているのを感じる。

「て、店長…。なんでおれはここに同席してるんですか?」

「そりゃだって、その方が華さんリラックスできるかなとか思ったり…。あのー…」

「本当は?」

「面接という空気感が緊張しちゃうので、隣に座っていてほしかったです」

「…」

 

 これからこの人の下で働くかもしれないのに、こんな店長なら不安になりそうだなと、心配して華さんを見ると、華さんは笑っていた。

 

 その後、形式的な面接が終わり、本採用となった。

「それじゃこのままある程度働いてもらいますんで」

「はい。よろしくお願いします」

「あぁ。私は店長でキッチンに行ってるんで。ホールのことはこの大我くんが全て教えますんで」

「よろしくお願いします」

 

 体の角度をおれに向けて、深くお辞儀をする華さん。それに合わせるようにこちらも同じだけ深くお辞儀をする。

 

 華さんは月水土と来るということで、ちょうどおれの出勤日と重なっていた。

しかし店長は特に気に留めることはない。もう1人この曜日に重ならないようなシフト希望者のバイトを採用間近だということだった。

 

「それじゃ華さん。まずは…」

 

 コーヒーの補充の仕方や、提供の仕方。注文の取り方やレジのやり方。

基本的なところをサラっと教えたところで、来店客のスピードが上がった。

 

 早々のピーク対応。

ホール内を回すために、華さんに後ろについてきてもらうようにしながら、全力で店内を回す。

 ふいに振り返ると、華さんがいなかった。

「あれ、やべ…。気づかなかった…」

 

 あたりを見渡すと、レジから華さんの声だ聞こえてきた。

「ありがとうございましたー」

 

 華さんは何かをメモすると、ホールに戻ってきた。

「すみません。レジに人が来ていたのに気づいて行ってしまいました」

「いや、助かったよ。ありがとう。慣れてるね?」

「高校生の頃飲食店でバイトしたことあって」

「そうだったんだ…」

 

 結局、途中からある程度1人でも接客が出来ていて、単純に1人ヘルプが入ったくらい楽に仕事を終えることが出来た。

「大我さんは帰らないんですか?」

「あぁ、まぁいつも気分次第なんだけどね。航平が締め作業終わるまで待つかどうかで…。今日は待ってようかなと」

「そうなんですか。じゃあ私も待ちます」

「え、いや、夜遅いし…」

「大丈夫ですよ。気にしないでください」

「はぁ…」

 

 残念ながら、さすがの日本といってもここは都会。気にしなければならないのである。

「これ、コーヒー。どうぞ」

「え、ありがとうございます。間違って提供しちゃったものですか?」

「いや、おれからのおごりで航平に入れてもらったもの。今日は面接初日にいきなり1人でいろいろ動かしちゃって。指導とか出来なかったからね…」

「そんなことないですよ。でもありがとうございます。いただきます」

 

 華はミルクを入れてコーヒーを飲む。

「砂糖は入れないんだ」

「気分次第ですね…。こんな夜に糖分は取りたくないなぁと」

「そうなんだ…」

 

 おれの頭の中には一切ない、時間による食べていいものと悪いものの選別。

新鮮だった。

 

 

 普段からいろいろ考えている子のようで、2人で話しているといろいろ相談事が出てきた。

こちらもまだ華さんと同じ森の中を手さぐりで進んでいるだけだから、大したアドバイスは出来なかった。

「おふたりさん」

「お、航平。終わったか」

「終わり。帰るぞ」

「おぉ」

 

 テニスのときとイメージが違うのは見た目だけではなく、思ったよりも人と話すのがうまい。あっという間に航平とも仲良くなった。

「明日は何かあるのかね?」

「何もないです。学校とサークルがあるくらいです」

「そうか。それなら飲みに行くか?」

 
 今日会ったばかりの華さんに対して、いきなり航平が飲みの誘いをかましていた。


 華さんも華さんで、明日は学校とサークルがあるにも関わらず、予定は何もないと言うことに、しっかり大学生なんだと実感した。

「大我は?」

「おれはパス。帰りまーす」

 

 あの後2人が本当に飲みに行ったかは知らない。知りたくもない。

 

 

 そして金曜日の夜、ついにほうとうを作る。

あの時カフェで見せられた写真と、ネットで調べた情報を頼りにスーパーで具材を揃える。

「カボチャ…。煮物になったものを見るけど、こんなものをいったいどうやって捌くって言うんだい…」

 

 結局カボチャは半分にカットされたものを購入した。

「志保さんからは、具材をとにかく大きすぎるくらいに切れって言われてるからなぁ…」

 

  家にあった鍋にこれでもかと具材を敷き詰めて煮込む。

「なるほど…」

 

 ネットの一文に、このようなものを見つけた。

『大きなサイズの野菜を煮込むのには時間がかかり、その分ガス代が跳ね上がります。
大きな具材は電子レンジでチンすると火が通りやすいです。』


その文言を見て、おれはすぐに火を止め、大きな具材を大きなボールに移し、チンする。

 

 そして最後鍋に戻し火をかける。

「…なるほど…。。」

 
 そのレシピには続きがあったことに気づく。

『具材に先に火を入れすぎると、煮込みの際に汁の旨味が入り込みません』


「完全にやりすぎたか…」

 

 しかし美味しい匂いがしてきた。

「日本人はこの味噌の匂いは体に染み込んでるからなぁ…」

 

 完成したものは、料理初心者がカレーの具材を大きいままに作り上げたかのような見た目だった。

しかしその見た目に反して、味は非常に美味しくて幸せな気分になる。

「うまいなぁ…」

 

 明日は残った汁に麺を入れることを決めた。

 

 

 土曜日のバイト。

ピークが来る前までに、華さんに1人で動いてもらえる程度の知識を授けることが出来た。

「いらっしゃいませ」

「どうも。いつもと同じ席でいいかな?」

「もちろんです。こちらへ」

 

 相変わらずの雰囲気の紗都さん。

「今週はどうでした?」

「いろいろありましたよ。テニスの大会で2位になるし、そのときペアを組んでたあそこで仕事している華さんが、急にバイトしたいと言ってきて結局雇っちゃうし…。久々に月曜日志保さんが来店したし…」

「あら、それはよかった」

「帰省していただけのようです。そのお土産でもらったほうとうを金曜日に作って食べました」

「あら!じゃあ彼女の実家は山梨なのね?」

「はい。山梨行ったことあります?」

「えぇ、何回か主人と行きましたから」

 

 ふと思った。そういえばこちらの相談ばかりで、紗都さんについて何も聞いていない。

すごく興味があった。しかし主人という言葉とともに外を見つめる悲しげな紗都さんを見て、何も言えなくなってしまった。

 

 

「それじゃ明日は元気よくカフェに行ってくるのね」

「まぁそうなりますかね…」

「それと、山梨は果物狩りが美味しいからぜひ行ってみて」

「ありがとうございます」

「じゃあ新人さんの教育頑張ってね」

「はい!」

 

 仕事に戻ると、皿拭きをしていた華さんが恐る恐る近づいてきた。

「おばあちゃんですか?」

「え?誰の?おれの?嫌、違う」

「あ、そうなんですね。親しげに見えたので」

「あの人は、土曜日の夜、必ずここらへんの時間でここに来るんだよね。雰囲気もすごくいいし、相談も聞いてくれたりして仲良くなったんだよね」

「そうだったんですね。悲しそうな顔してますね」

「ご主人の話が出たら、少し悲しい表情をしてて…」

「亡くなってしまったんですかね…」

「さぁね。分からない…。あの顔されてるところに聞きに行くことは出来ないよ…」

「そうですよね…」

 

 自分がやるべき方向性をある程度導いてくれて、今も尚先導してもらっている紗都さんに恩返しできるなら何かしてあげたい。

そう焦る気持ちにブレーキをかけ、深呼吸を1つ。

「焦ることはない。今日は聞くタイミングじゃない…」

 

 バイト終了の時間を迎えた時に気づいたが、華さんは今日締め作業まで行うようだ。

航平が楽しそうに教えている。

おそらく新人教育係の適性を調べたら、あいつがこのカフェの中ではダントツで一番だろう。人の懐への入り方がうまい。

「それじゃお先!」

 

 明日はいつものようにカフェに行く。それ以外の予定は持っていなかった。

「来週はチーズケーキ作りたいし、調べてみるか」

 

 必要なものを調べると、今までよりもお金がかかりそうだ。

「外で買ってきた方が安いやんは禁止。とにかく何事も経験…」

 

 バターやクリームチーズなど、いつもは気にも留めないものたちの値段に驚愕する。

「お菓子作りの先陣者たちよ。おれもようやくあなたと同じ感情になりましたよ…」

 

 バターやクリームチーズなど冷蔵保存するべきものを買ってから、カフェの前に来て気づく。

「おやおや…こいつらカフェの後に買うべきもの…。家に帰る手前で買って帰ればいいのに…。何をしてんだろ…」

 

 立ち尽くしていると、志保さんが出てきた。

「どうぞ?」

「あ、あのー…。誠に申し上げにくいんだけど…。冷蔵物買っちゃって…」

「そしたら冷蔵庫に入れるから貸して?」

「え?」

「うちの冷蔵庫結構スペースあるんだ。どうぞどうぞ」

 

流されるままに入店し、ショットグラスの水をもらう。

「聞きましたよ。私がいないときにも来てくれたんですって?」

「えぇ、まぁ」

「今日は、スイーツ側はパウンドケーキでいいですか?メニューにはないんですけど…。一応私ここで商品開発もしてて。試作で作ったパウンドケーキ…」

「ぜひそれで!」

「かしこまりました」

 

 出てきたパウンドケーキは、自分が作ったなんちゃってとはまるで違う見た目をしていた。

「すっごく美味しそうです!いただきます!」

 

 紅茶の風味が口いっぱいに広がるおいしいパウンドケーキだ。

「すごい!紅茶の味がする」

「美味しいですか?」

「えぇ、すっごく!」

「よかったです!」

 

 志保さんは仕事に戻ると、キッチンからこそこそと別の女性が近づいてきた。

「すみません…。初めましてでこんなこと聞くのも変なんですけど、付き合ってないんですか?」

「え?あぁ、志保さんと?えぇ、付き合ってません…」

 

 おれがまるで謎の生物かのように全身を眺めた後、一息ついた女性は少し笑って言った。

「彼女からパウンドケーキのレシピをもらったんですよね?あの後急にパウンドケーキの試作を始めて…。

彼女は、大我さんに対して基本的なレシピしか書いてなかったから、こんなことも出来るんだよって見せたくて…って言ってました。

それは間違いなくあなたを想って、あなたのために作られた志保さんのパウンドケーキです」

 

 その瞬間、外のカフェで食べるものとは違う感動があった。

自分で作った自分の食べ物とは違う。誰かに自分を想って作ってもらった食べ物。

味覚以外の何かが反応して、感動に何かプラスされた感情がこみ上げてきた。

「すごい…美味しいです」

「それは良かったです」

 

 キッチンの彼女がキッチンに戻るとき、志保さんから軽く視線をもらっていた。

それに対してキッチンの彼女は、胸の前で両手を合わせて軽く謝罪していた。

 

 1口1口ゆっくり噛みしめてパウンドケーキを完食した。

「おいしかった…」

 

 コーヒーカップを傾け、液面に波を起こしながら、思わず口から出ていた。

「ありがとうございます」

 

 近くを通っていた志保さんにも聞こえていたようで、突然の返答があった。

それにびっくりして、コーヒーを噴き出しかけてむせているおれを、彼女は声を出しながら笑った。

 

「ありがとうございました。」

 

 毎回、このカフェから外に出るときに思う。

まるで別世界にいて、何もかも忘れてカフェという空間に身をゆだねていられたんだと。

これがカフェの理想の形だとも思った。

「さて、帰るか…」

 

 家に帰り、誰もいない部屋に荷物を置く。

自分からだけ発せられる音が、誰もいない空間に響くのが少し寂しく思えた。

 

 月曜日の朝、大学の講義に間に合うギリギリにセットしたアラームで飛び起きた。

「やべやべ…」

 

 歯磨きをしながら、焦って準備を整える。

5分早く起きるだけでも、この慌ただしさが収まるのに、それが出来ない。

 

『ブーブー』

 

 ベットの淵の木目に沿って置かれた携帯が鳴った。

店長からであることは分かったが、その文面を確認している暇はない。

ポケットに滑り込ませて、ダッシュで部屋を出た。

 

 講義の最中、教授からは見えないように、前の席に座る人の背後に隠しながら、携帯をテーブルに置く。

「店長からメールは珍しいな…」

 

『今日は珍しく出勤する方がいるので、その人に譲ってあげたいんだけど、シフトお休みでもいい?』

 

 幽霊部員とまではいかないが、1か月に1~2回程度しかバイトに来ない人がいる。

その人のことは基本的に考えないようにシフトを組んでいるが、今回その幽霊バイトからシフトに入りたいという連絡があったのだろう。

『大丈夫です。休みますよ』

 

 月曜日…。バイト休むとすれば何もない水曜日がよかったと思いながら大学から帰る。

「志保さんに相談したいことがあるんだよな…」

 

 Hafa Adai Caféに行き、航平に1枚の紙を渡す。

「この中身を見た場合、お前との関係は終了するからな。いいか。それを条件にこれを持っててくれ。それでこれを志保さんに渡してくれ」

「あぁ、お前の彼女の」

「彼女の場合こんな連絡方法があると思うかバカ」

「まぁ分かったよ」

 

 Hafa Adai Caféのあるデパートの中には、もう1店舗カフェがある。

おれはそこに入店し、「あとで1人来るかもしれません」という言葉を使い、2人席に座った。

 それから1時間後、志保さんが入店した。

「お手紙見ました。びっくりしましたよ」

「あぁ、今日バイト休みになっちゃって…。でもどうしても相談したいこと思い出して…」

「でも嬉しいです。私もそろそろゆっくり話したかったんで」

 

 お互いの近況などを話した。

そこで初めて知ったのだが、彼女は高校卒業後、料理学校に行き、そこで学んだうえであのカフェに正社員として働いているようだ。年は2つ上だった。

「まったく知らなかったです…」

「あはは、面白い関係ですよね」

「それで相談なんですけどいいですか」

「はい、待ってました」

 

 話し始めてから少し経ってから気づいたが、こうやって向かい合って会話を話すの初めてだった。

せっかく緊張感なく話し始めたのに、急に少し緊張してしまい、それを抑えるようにホットコーヒーを飲む。

「あのですね。毎週土曜日にカフェに来てくれるおばあ様がいるんですよ。紗都さんって言うんですけど。その人にいろいろ話を聞いてもらったりして、悩みとか解消してもらったりしてるんですけど…。あの人がいたから、ようやくおれの人生が少し前に踏み出し始めたところでして」

 

 まっすぐおれの目を見て話を聞いてくれる志保さん。

吸い込まれそうなほど真っ黒の目に、釘付けになっていると話が疎かになっているのに気づく。

「あ、それで…、ご主人の話をしたときに、すごく悲しそうな顔をしたんですよ。亡くなっているのか、ご病気でどこかに入院しているのか、今は離れ離れなのか…。いろいろ可能性があるし、悲しい出来事に対することだしと思うと、どうやって聞くのが正解か迷ってて…。そもそも話を聞くことが正解かも分からないですし…。なので志保さんに何かアドバイスもらえればと…。そしておれにいろいろアドバイスしてくれているので、紗都さんに何か恩返しが出来たらなと…」

「なるほど。さっき紗都さんにに『話していて楽しい』って言われたって」

「えぇ」

「それなら『ご主人のことについて聞いてもいいですか?』って許可を取って、取れたら聞いたらいいですよ。今までの紗都さんのの話を聞くと、私なんかが想像も出来ないくらい色んなことを経験されてきた人だと感じるので…。私たちくらい経験の浅い人達が、うまく回り道してさりげなく聞こうとしてもうまくいかないです。むしろ不快感を与える可能性があります。ここははっきり正面から当たるべきです」

 

 はっきりとした口調で、はっきりとした主張。それなのに話し方にトゲがなく、やわらかい雰囲気は保っている。

「そうですよね。分かりました。直接真正面から聞いてみます」

「その方には私の話はしてるんですか?」

 

 してるに決まってる。自分の人生相談の後は、ほとんど志保さんについての話だった気がする。しかしそれを今言ったら気持ち悪がられるだろう。このときの返答の模範解答が分からなかった。

「えぇ、まぁしてますね。それで紗都さんも会いたいって言ってましたよ」

「私に?今度ぜひお会いしたいです」

「分かりました…。伝えておきます」

 

 2人ともいつの間にか話に熱中していたようで、40分ほどコーヒーも飲まずに話し続けていた。

そのことに驚きながら、2人で冷めたコーヒーを飲んだ。

「おれが誘ったんでここはおれに払わせてください」

「いえいえ、そんな、悪いですよ」

「大丈夫ですから」

「じゃあ今度Kokageに来た時にサービスします。ここでごちそうになる代わりに」

「え、えぇありがとうございます」

 

 呼び出したのだから払わせるわけにはいかないと思っただけ。払った上でトントンの関係だと思ったのに、Kokageで何かサービスしてくれるとなると、何か釣り合っていない気がした。

「それじゃ今日は楽しかったです。また!」

「はい!また!」

 

 結局、どちらからも連絡先を聞く話にもならなかった。

名前のない関係の継続が決定した。

 

 

 

 その日の夜、店長に連絡を送る。

『すみません、土曜日の夜のシフト休んでいいです?』

『構わぬ。なんとかしましょう。こちらのわがまま聞いてもらったんでね。対応しますよ。いや別にこの連絡をわがままという意図では言っていないですからね?』

 

 変な返事だが、これで土曜日のシフトが無くなった。

紗都さんはいつも20時過ぎくらいに来店する。

それを知っていたため、エレベータの前で19時半過ぎから待った。

「あら、今日は私服なのね」

 

 エレベータが開いて、突然おれの姿を見ても、驚いた様子は少なく、にこやかに笑った。

「今日は一緒に客としてHafa Adai Caféに入ってもいいですか?」

「あら…嬉しいわ」

 

 華さんが手慣れた作業で、我々をいつもの場所に案内し、注文を取っていく。

「すっかり成長したわね」

「えぇ、あんなにすぐに1人前になるとは思ってなかったですよ」

 

 注文が揃うまで、近況について話した。

「この前、Kokageに行ったとき、彼女がおれのために作ったという試作のパウンドケーキを食べました」

「あら、どうだった?」

「なんか…言葉でどう表せばいいか分からないんですけど、すごく暖かかったです」

「第2段階クリアね」

「え?」

「いえいえ、こちらの話ですよ」

 

このタイミングで注文したコーヒーとスイーツが揃った。

「それで今週の月曜日、志保さんにあっちのカフェに来てもらって話をしたんですよ」

「あら、」

「でも、まだ連絡先は知らないです。年齢とか、これまでのこととかは知りましたけど」

「あら、一気に進んだわね。だけどまだ連絡先は知らない…。うーん。。何段階にいるのか分からなくなっちゃったじゃない」

「あはは、そうなんですよね。それでここからが本題なんですけど…」

 

 少し息を吐いて、呼吸を整えてから話す。

「ご主人のことについて聞いてもいいですか?」

「…」

 

 少し考えた様子があったが、すぐに返答があった。

「いいですよ。何からお話しましょう」

「ご主人は今…」

「1年前に亡くなりました」

「そうでしたか…。すみません」

「いえ、謝ることはないわ」

「紗都さんがこの店に毎週土曜日の20時過ぎに来ている理由は何かあるんですか?」

「私と私の主人は少し前までコーヒーショップを経営しててね、亡くなる2年前くらいに閉めたんだけどね。すごく気に入っていて、私の生きるうえでの重要なものだったんだけど、主人が動けなくてそちらのお世話もしなければいけないのに、カフェは続けられなくね…。

あのお店売っちゃったら、大きな企業さんがチェーン店仕様に作り替えてしまって。

だからもうあのカフェは無くなっちゃったと思ってた。

だけど、ここのカフェの壁際の雰囲気は、あの頃のカフェにすごく似ている。

こんな景色は見られなかったけどね。


私たちは将来の夢として、いつか大きな窓のあるカフェ…そこから素晴らしい景色が見えるカフェを作ることだった。

叶えられなかったですけどね。

20時過ぎにここに来ているのは、私たちのカフェが閉まる時間だったから。その時間を引き延ばしている感覚があったから、20時くらいに来ていたの」

土曜日って言うのはね。長く付き合えば記念日増えていくでしょ?付き合い始めの頃そういうことで何回か喧嘩しちゃってね。嫌に思ったから、お互いの結婚記念日だけを祝うことにしたの。」

「ちなみに何日なんですか?」

「12月1日。その日が土曜日だったの」

「だから…」

「毎週来るのはすごいなって思ったでしょ?だけどね、私は主人が亡くなってから響いた言葉があるの」

 

『人は2度死ぬ。1度目は身体的に亡くなること。2度目に亡くなるのは、大切な人の記憶から消えた時』

 

「それを聞いたときにね、私は…」

 

 紗都さんは泣いていた。主人が亡くなってから何度も泣いただろうが、それでもまだ枯れることなくぼろぼろと涙を零した。

「私は毎週土曜日に主人を思い出しながら、主人の大好きだったコーヒーを飲みながら、2人の憧れだったカフェからの景色を見るって決めたのよね…」

 

 なんて言うのが正解か分からなかった。

もう亡くなってしまっているご主人と、それを忘れないために毎週土曜日にカフェに通い続けるご婦人。

 これ以上ないほど美しい光景を、ずっと見ていたのだと認識した。

 

「ご主人のことを思い出して、今もそれほどまで涙を流せるなら、きっとまだご主人は2度目の死期は来ていないし。多分この先もなかなか来ないでしょうね…」

「なんで泣いてくれてるの…?」

 

 紗都さんに言われて、初めて自分が泣いていることに気づいた。

「あれ…なんでだろ…」

 

 悲しいからとかじゃない。ただただ2人の関係が羨ましくも美しく、夫婦の形として最高のものであると感じたからだと思う。

 

「写真、これ、毎度持って歩いているのよ」

「これって…」

「これが私たちのカフェ。素敵でしょ?これは常連さんと撮った写真」

 

 常連さんと言われた場所には10人ほど並んでいた。

「すごい常連さんの数ですね…。大人気店だ。これがご主人ですか?」

「そう。いいコーヒー作りそうでしょ?」

 

 エプロン姿で優しく笑うご主人は、その中に熱い信念を感じる表情をしていた。

「おれまで泣いちゃってすみません」

「いいのよ。それより、今度は志保さんとの話を聞かせて」

 

 気持ちを切り替えるために、2人は少しの間、コーヒーとケーキを楽しんだ。

「志保さんと話したって言ったじゃないですか?あの時に、志保さんも紗都さんに会いたいって話してましたよ」

「あら、そうなの?それはぜひ!明日、カフェに会いに行くのよね?私も行っていいかしら?」

「え!いいんですか?」

「もちろん。志保さんとはまだ連絡先交換していないんでしょ?それじゃ私も交換しないわ。何時に行くの?」

「じゃあ13時にしますか!」

「えぇ分かったわ」

 

 すごく濃厚な話を聞くことが出来た 

おれが志保さんに言ったように、紗都さんに支払いすることを押し切られた。

「あなたは若いんだから。自分のためにお金を使いなさい。私くらいの年齢になったら、若い人に還元していきたいのよ」

 

 デパートの前で紗都さんを見送った。

元気な足取りで歩く紗都さんの背中は力強かった。

 

 

 次の日。12時51分。約10分前行動でKokageカフェに行くと、そこにはすでに紗都さんがいた。

「ごめんなさい。遅くなりました」

「10分前に来て謝ることはありませんよ。それでは入りましょうか」

 

 紗都さんが入った時、志保さんの明るい声での「いらっしゃいませ」が最高の笑顔で繰り出される。

しかしその後に付いて入ってきたおれの姿を見て驚く。

「え!」

「あ、志保さん」

 

 本当は席についた後に紹介しようとしたが、そんな顔をされては入店直後に紹介せざるを得ない。

「えーっと。紗都さんです。この前話した」

 

 紗都さんはニコリと笑い、深めにお辞儀をした。

それに呼応するように、志保さんも同じくらい頭を下げた。

 

「志保さんです。この前話した」

「この前というか何回もね?」

 

 いじわるそうに笑う紗都さん。

「いいから!座りましょ」

 

 軽くごまかして、案内された席についた。

「何にします?」

「この前話していたパウンドケーキはありますか?」

「あります!」

「私それで」

「あ、じゃあおれもそれでお願いします」

 

 2人ともすぐに注文をし、ショットグラスに入った水を飲みほした。

「あら、もうない」

「そうでしょ?だからここにピッチャーを置いてもらってるんです」

「あら」

「初めて来たとき、水分不足なのにこれしか水がないもんだから6~7回おかわりしましたよ」

「あはは、大我さんのおかげで変化したのね」

「コップそのものを変えてくれてもいいのにと思いますけどね」

 

 その後、コーヒーとパウンドケーキをそれぞれ提供された。

「あの、紗都さんとお話したいんで、退勤してここに座ってもいいですか?」

「え、えぇ。私は構わないですよ」

 

紗都さんは気を使うようにおれの方をチラっと見る。

「おれももちろん大丈夫ですよ」

 

 紗都さんはどうしても話がしたくて、「今度焼肉奢ります」という条件付きで、他の人にシフトを変わってもらったようだった。

志保さんにも、軽く紗都さんのご主人のことを話し、あの写真も一緒に見た。

「すごい…。ご主人本当に素晴らしい人だったんですね」

「あら、あなたも泣いてくれるの?昨日も大我さんに泣かされてて涙が枯れちゃったわ」

 

そう言う紗都さんの目はキラキラ光っていた。

 

3人というのはすごい。

1vs1の会話ラインが2本と、1vs1vs1の会話ラインが1本と、2vs1のラインが3種類。

会話が途切れることなく織りなされていく。

 

 そして気づけば16時だった。

「すんごいしゃべりましたね」

「えぇ、すごく面白かったわ」

 

 「1人で帰れるから、このまま2人は晩御飯でもどうぞ」

そう言って足早にその場を離れていった。

 

「そう言ってもらいましたがどうします?」

 

 選択肢をおれに委ねてきたということは、晩御飯行くのもいいと思ってもらえるのかと思い、思い切って誘ってみた。

「居酒屋とかどうです?」

 

 半個室のような場所のある居酒屋の予約が取れたため、そこに行くことにした。

「お酒飲むんですか?」

「まぁ少し。家ではワインですかね」

「へぇ!かっこいいですね。美味しいワイン飲んだことないなぁ」
「地元が山梨なんで、いいワインあるんですよね」

 

 お互い何杯飲んだか分からなくなった程度のところで、飲みながら考えをまとめたことを話すことにした。

「あの、おれ、紗都さんへの恩返し思いついたんですけど協力してもらえますか?」

「えぇ。ぜひ」

 

 

 ―――冬の冷たさが雪となり、空が表現する。

「今年は、大我さん、志保さん、Hafa Adai Caféなど、いろいろな大切な思い出が出来た。

まだまだそちらに行くのに時間がかかりそうです。

だけど、毎週土曜日の20時くらいに、欠かさずカフェに通い、あなたを想い続けました。

2度目の死期は私が死ぬまで来ないと思ってください」

 

 合わせた手を降ろすと、携帯を開き、今日の日付を確認する。

「12月1日土曜日。記念日だし曜日まで一緒。素敵な日ね」

 

 いつも通り、変わらず1つ1つの作業を大切に行い、変わらない日常に感謝を示す。

「さて、行きますか」

 

 いつもと同じ道。

この段差を登るのが苦しくなったら、Hafa Adai Caféに行くのは終了かもしれないなどと考えながら歩く。

 

 『チーン』

 

 エレベーターが3階に着く音。

扉が開くと、大我さんが立っていた。

「あらあら、また志保さんとの間に何かありました?」

「あはは、おれの相談がそればっかりだと思います?」

「あら」

 

 ここで気づく。Hafa Adai Caféに電気が灯っていないことに。

「今日はおやすみかしら?」

 

 今日は1年で最も大切な日。さらに記念日の曜日まで重なった日。

どうしてもあそこからの景色を見たかった。

「そんなことないですよ。一緒に店内に入りましょう」

 

 真っ暗の店内に一歩踏み入れると、世界が真っ白になったのかと思うほどの閃光を浴びた。

「なんですかこれは!?」

 

 驚いて大きな声が出てしまった。

光に慣れてくると、自然と涙が溢れて止まらなくなった。

「これは…これは…」

 

 あの頃、主人と2人でカフェを営んでいたときの見た目そっくりにされた店内。

さらには置いてあるものまでほとんど一緒になっていた。

ここにはあの頃の世界が広がっていた。

「どうして…?なんであるの?」

「あはは、ほら、涙拭いてよく見て?」

 

 大我さんの横には志保さんもいて、さらにその横には従業員の人達が並んでいた。

これは全て私のためだけに作られた空間なんだと悟る。

「すごい…」

 

 長年生きてきていても、これほど素晴らしいものに対して正確に言葉で表現できる力は持っていない。
その何倍も感情が噴き出してくる。

 

「さて、次はこちらです」

 

 志保さんが私の視線を誘導する。

その先には、あの時の常連の方々がいた。

「え…なんで…?」

「私たち、必死に探しました。そして7人見つけることが出来ました。常連さんですよね?」

 

 涙腺というのは1度緩めたら締めることが出来ない。

さらには嬉しいサプライズの連続で、緩めるどころか涙は勢いを増していく。

「久しぶりだね紗都さん」

「いやー。本当にあの頃そっくりのカフェになっててびっくりだよね」

 

 あの時の常連さんの声そのまま。

その声の奥に主人を感じた。

 

 主人にもう一度会いたいと願わない日はなかった。

一番近くで感じていたい。忘れたくないと思い、カフェの窓際に座り続けた。

だけど今が一番近くに感じている。

あの場所にそっくりな場所で、あの店の常連さんたちと一緒にいることが。

 

「それではみなさん座っていただいて」

 

 大我さんの指示で、みんなが窓際に座った。

「えー、少しだけぼくの話をさせてください。

20歳少し過ぎて、何したらいいか分からなくて、ある種いろいろ諦めて生きていたんですよね。このカフェでのバイトもお金のためだけで続けていました。

そんなときに紗都さんに出会いました。紗都さんはおれの人生の道しるべになってくれて、おれの目の前の曇りを晴らしてくれました。

もちろん将来の不安は以前と変わらないくらい感じてるんですけど、向き合い方を教えてもらいました。

それに今もいろいろ相談も乗ってもらっています」

 

 チラっと志保さんの方を見たときの反応で分かる。

彼らの関係はまだ「名前のない関係だ」ということに。

 

「だから恩返しがしたかったんです。ある日志保さんに相談して、いろいろ案を出し合って、どうにかあの場所を再現したいと思いまして。今年の12月1日が土曜日であることも分かってましたし。ここに間に合うように全ての準備をしました。

この話に理解していただき、場所を提供してくれた店長さんにも感謝です」

 

 店長のほうを向くと、この中の誰よりも泣いていた。

 

「それではあの頃の常連さんがよく頼んでいたというメニュー、チーズケーキです!」

「え?」

 

 目の前に置かれたチーズケーキはあの頃の、昔ながらのチーズケーキの形をしていた。

一口食べると、あの頃のチーズケーキの味そのままだった。

「なんで作れたの…?」

「常連さんから特徴を聞いて、おれと志保さんで試作を重ねました。チーズの量とかいろいろ難しいところがあったんですが、常連さんが納得できるレベルの味には仕上がりました。紗都さんはどうですかね?」

「あの頃のまんま…」

 

 あの頃の常連さんたちが、今年の私を形成してくれた大我さんや志保さんと話している。

不思議な感覚になるけど、心のそこから満たされて、嬉しかった。

 

「それじゃそろそろ終わりとさせていただきたいのですが、最後はやはり紗都さんの言葉で締めくくりたいと思います。お願いします」

 

 みんなの前に立ち、1人1人の表情を見る。

その流れで背景のあの頃のカフェを思い浮かべる。

 

「人生にとって、親よりも長くいることになる夫婦という存在。

私は素敵な主人とともに、いい人生を送らせてもらったと思っていました。

その主人を忘れないように、毎週のようにこのカフェに通いました。

あの人を想いながら、このカフェにいることで、あの時に戻れてる気がして。

だけど、ある日、大我さんに出会った。

大我さんは私に感謝ばかり伝えてくれますが、それは私こそです。

あなたのおかげで、主人が亡くなった後、前に進めていなかった私の歩が動き始めたんです」

 

 大我さんは目頭を押さえて、鼻を鳴らした。

 

「あなたは迷っていたというけれど、20歳になったばかりの人間は、あのくらいが普通ですよ。

昔から学校とかで将来の夢はって聞かれるでしょ?私あれ苦手でした。ずっと将来の夢がなかったの。

だけどある日、主人と出会い、一緒にカフェをやることが生きがいであり、その延長線上に夢を見た。

運命には必ず『巡り合わせ』があります。何かが噛み合うその瞬間が必ずあります。

その時に将来の夢、今後のなりたい自分が見えるんです。

皆さんの中で将来の夢を持てない方は、その瞬間に立ち会っていないだけ。

大丈夫です。誰しも必ずその瞬間は来ます。

あなたの未来に必ずその瞬間が来ることを、私は保証しますよ。

だから何よりも大事な今を犠牲にしないこと。これだけ約束してください」

 

 大きな拍手だった。

私はきっと、この瞬間を、この1日のことを、

亡くなるその瞬間まで忘れないだろう。

 

 そしてきっと、私の2回目の死期は、大我さん、志保さんが亡くなるまでは来ないと信じています。





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