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第四章:ラビュートのラビ
序章1:アーサンカイル
しおりを挟む瞑想するように閉じていた単眼を開き、「はぁー」とアンが大きく息を吐く。
「いない……あの、化け猫め!」
リビングの天井に足を組んで座るアンの黒髪が長く床に滴るように下がる。胸の巨大な二つの果実が壁となって顔を隠している。
いつものことと見上げる執事のダークレイが声を掛けた。
「どうしました、御主人」
しかし、どうしてそんなところに?
さあ、私にも分からないよ。〝千里眼〟で探していたら、こうなっていたんだ。
「見つからないんだよ、あの化け猫が」
「化け猫、とは」
やめだ、と言い放って、落ちながら一回転し、鬱憤ばらしのようにどすんと身体を椅子に沈めた。
胸の双丘が服の中で暴れ、めくれ上がった端から溢れそうになる。身を預けた椅子が大きく跳ねて悲鳴を上げた。
「あーもう」と顔に掛かった髪を邪険に片手で払うと鼻腔を清楚な香りが抜けていった。
「どうぞ、御主人」
落ち着きますよと、ダークレイから差し出されたお茶を受け取りながら、それでも口を「へ」の字曲げ、大きな単眼が「むう」と横目で睨んだ。
何かに八つ当たりでもしたい気分だ。北の〝島竜〟でも潰してこようかな。
それは良い気晴らしになるかもしれませんが、その上には正体を知らずに築かれた国と町がございます。
またリタ様から苦言を呈されるかと。
義母さま、八つ当たりで星や大陸を消滅のはやめてください。
やれやれ。愛娘を私の抑止に利用するのは無しにしてくれないか。
御主人が傍若無人に走らなければ、お考えいたします。
むう……
「しょうがない、今回はこれで誤魔化されて上げるよ」と言って、香気の湯気が揺蕩うカップを口元に運んだ。
一気に飲み干したカップをテーブルに置くと、アンが重いものを吐き出すように呟いた。
「言わずと知れた、やつのことだよ」
「〝厄災〟ですか」のダークレイの言葉に、
「そうだ、〝厄災〟だ」
身体の向きを変え、腕を枕にしてさっきまでいた天井を仰ぎ、目を閉じた。
同時にこれまで探索してきた情報を一気に集約する。
人であれば瞬間廃人規模の情報量を瞬時に分析する。
結果はさっきも言った通りだよ。
「しかし、何故ですか? 御主人。今頃になって〝厄災〟など。いつもの気まぐれとも思えませんが」
ダークレイの問いに、すでに〈モルスラ〉に向かったリタと和穂の姿が浮かんだ。
「リタと和穂が聖女の依頼を受けてクーガンの『英霊祭』に行くことになっていただろう。なんとなく気になってね、探索してみたんだが……まあいい」
アンの表情が和らぐのを見て、やれやれといったようにダークレイがひとつ息をつき、テーブルのカップを片付ける。
片付けながら、
「『英霊祭』ですか。賑やかでしょうね。御主人も出掛けてみてはいかがですか」
しかしアンの声は素気無いものだった。
「冗談だろう。なにが悲しくてあんな辛気臭いものの観光に行かなきゃならないんだ。ラビュートの『英霊祭』ならいざ知らず」
「クーガン」と「ラビュート」はどちらも古くから続く獣人国家で、種族名の通称がそのまま国名となっている。
クーガンは西に広大な砂漠を有する古くから武勇に名高い王政国家であり、またラビュートは海を挟んだその対岸の貿易と農業を主とする魔法に特化した、規模としてはクーガンの三分の一ほどの小国だった。
今でこそ長く同盟を結ぶ友好国同士だが、かつてはラビュートの森の奥に広がる肥沃な耕地を狙われ、何度となく侵攻侵略を受けては押し返す、支配されては取り返すを繰り返した歴史がある。
本来であれば互いを怨讐と憎悪で、嫌悪、罵り合うような関係である両国だが、ここに一人の〝英雄〟そして〝厄災〟が現れる。
それが〝ラビュートのラビ〟ことラビ・イグレシック・クノー・翔と〝厄災〟ことアーサンカイルである。
ラビュートの『英霊祭』にカミューラが反応する。
「あら、ラビュートなら私、行ってみたいわ、アン」
この世界にすっかり順応したカミューラは、最近あちこちの国や地域、はたまた星間を訪ね歩く、いわゆる観光が趣味になっていた。
アンと同様にどこへでも一瞬で辿り着くことの出来る神祖には散歩程度のものだったが、それでも久しぶりに触れる下界の暮らしぶりには、昔とは違った物珍しさがあり、見ていて楽しく、体験してまた楽しい刺激的なものだった。
そして『祭り』は、そんな神祖を昂らせるもののひとつだった。
いつもは一人で、もしくはメリューサかダークレイを伴ってのもので、ここから世界の全てを体現の出来る出不精のアンとはまだ一度も一緒に出掛けたことがない。
焦らしてるのかしら?
テーブルを挟んで対面に置かれた長椅子に寝そべるカミューラが、ねだるように一掴みの赤い髪をアンに伸ばした。
「い・や・だ!」
行きたければいつものように出掛ければいいだろう。
伸びてきた髪が肩から背中を伝って反対側の胸元に到達する前に、アンの手が言葉と共に邪険に振り払う。
いつもなら「ほんと、出不精なんだから」「いいわよ、じゃあ、メリューサ(もしくはダークレイ)を借りるわよ」と引き下がっていたカミューラだったが、しかし今日の神祖はそうではなかった。
「えーどうして。どうせ、暇じゃない」
「暇じゃあーない」
「みんなダークレイとメリューサにやらせてるのに」
「それは誤解だ」
「どれがよ、どの件が」
「どれだっていいだろう。とにかくラビュートにも『英霊祭』にも行かないよ」
痛いところを突かれながら、それでも首を縦に振ろうとしないアンに、
「ダークレイ」と執事に助っ人を求めるも、
「御主人が『行かない』と言っている以上、私からは何とも」と取り付く島もない。
「しかしながらリタ様ならーー」
リタの名が出たところで、アンが狼狽し始めた。
「ちょ、ダークレイ! おわーーっぷ」
止めようとするアンを赤い髪が波のように押し寄せて覆い被さる。
「で、リタなら何?」
興味津々で訊いてくるカミューラに楽しそうに話した。
「リタ様なら二つ返事で行かれるかと。なにせーー」
「ダークレイ、余計なことを言うんじゃない」
赤い波から這い上がったアンが叫ぶ。
「リタ様は〝ラビュートのラビ〟ことラビ・イグレシック・クノー・翔の大ファンですから」
「は……ぁ」
何それ……
カミューラがアンを呆れた目で一瞥する。
「ふーーん」
「な、なんだ」
「いつもの、ただの嫉妬なのね」
だから行きたくないと。
ふん! 口を尖らせてそっぽを向くアン。
「ただの、とはなんだ。私のリタが、かわいい私のリタをあいつは誑かしたんだよ。そんな奴の国の、奴を讃える『英霊祭』なんかに誰が行くか」
「阿呆らしい。〝ラビ〟ってニ千年位前の人物でしょう。偉人に憧れるぐらい、あの年頃なら当たり前でしょう」
「だったら私だって偉人だもーん」
「死人と張り合ってどうするのよ。ほらほら、さっさと用意するわよ。メリューサ、手伝って」
「用意? 何の?」
その声に「はい、神祖様!」と嬉しそうな声が響き、メリューサがリビングを出ていく。
要領を得ないアンがカミューラに訊いた。
「出掛けるに決まってるじゃない。ラビュートの『英霊祭』によ」
「誰が行くか!」
アンが一蹴する。
アン、今日のあなたは駄々っ子ね。笑えないわよ。
ほっとけ!
「どうせ邸に居たって、ろくな事しか考えないし、ろくな事しかしないでしょう。だったら皆んなで行くわよ、『英霊祭』」
「皆んな?」
「メリューサ、ローザ、カレン、スゥーマ、それにあなたもよ、ダークレイ」
「なにを勝手に仕切って」
「私も、ですか」
意外そうにダークレイ。
普段なら皆んなを送り出し、邸の留守を守っている。
「皆んなでって言ったでしょう。拒否権はなし。今から出発するわよ」
「何を言ってーー『英霊祭』は一週間も先だぞ」
「アンこそ何言ってるのよ。『お祭り』っていうものは、その前後も楽しむものなのよ。それにーー」
「ん、なんだ」
「たまにはリタと和穂以外の家族も構ってあげなさいよ」
構ってるだろう?
それは嘘ね。
「はあ、お節介な伴侶だね」
「そうよ、気遣い出来ない伴侶を持つと大変なのよ」
「言ってくれるね」
「和穂とリタ、たまには『夫婦水いらず』で過ごさせてあげなさいよ。それに今回はリタの〝お友達〟も一緒なんでしょ。母親が居たって邪魔なだけよ。特にあなたはね、アン」
それと、カミューラがいつの間にか現れていたもう一人に目を移す。
あのリタ誘拐事件以来、ちょくちょく邸に姿を見せるようになった。
いまもダークレイが用意したスイーツとお茶を何食わぬ顔で楽しんでいる。
そういえばこいつも在たわね……
本当、頭痛い。
でも使えるものはなんでも使うのよ。
「なにかあったところで、刹那に対処出来るんでしょう。ヒュプノス」
「起こる前に潰してやるわ」
「だったらヒュプノス、あなたも一緒に行かない? 『英霊祭』」
「誰が人の祭りなどーー」
「はい、決まりー。メリューサ、もう一人追加、お願いねー」
はーい!
「神祖、貴様」
ヒュプノスの苛立った声をアンがその後ろから遮った。
「いいじゃないの姉さん、行こうよ。リタの実母でしょう」
「さっさと手のひらを返しおって」
自分というものがないのか、おのれは。
「そういう性分ですから」
へっへっへーと笑うアンにヒュプノスが「仕様のないやつだ」と返した。
「では世話になるか」
こうして何気に家族旅行が決まってしまったアン家であった。
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