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第三章: リタ、奪還
其の五十四話 エルフの里の囚われ人:その11(ヒュプノス)
しおりを挟む「ほお、良く飛んだものだ」
小さくなった和穂を見送るアンが満足そうに呟く。
「さて、我も行くか。あの力、まだ我が娘には早すぎる。
それにリタと婿殿の今後のためにも、あのアルベロンを教育しておく必要もあることだしな」
アンが肩に止まったカラーの頭を指先で撫でながら、意地の悪い笑顔を浮かべた。
そしてついでのように横たわる十数人のエルフたち、スサヤ、ララン等を一瞥するとカラーに言った。
「こやつらは、まぁ放っておいても死にはするまいが、とりあえず見張っておれ。魔物に喰われでもしたら後味が悪いのでな」
分かった、と言うようにカラーが〝クトー〟と鳴くと、アンの肩を離れ、スサヤの額に止まった。
「どれ婿殿はどうなったか」
カラーに頼んだぞと念を押し、アンの姿が消えた。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
わーーーーー
和穂が飛ぶ。いや、飛ばされていく。
パラシュート、ショックアブソーバーといった自分の身を守るものも、この制御不能のスピードを抑えられるものもない。
〝思念武装〟で創るにも、精神集中すらままならない今の和穂には無理な話だった。
風圧に皮膚が波打つ顔は歯茎が剥き出しになっておもしろ顔を通り越して、アンデットのようになっている。
こんな姿でリタと再会したくないよー
白馬の王子とまではいかないが、せめてもう少しマシな顔で会わせてよー
そう思っているうちにもどんどんと、アンがリタだといった光の元に近付いている。
リタ……
たった数日、姿が見えないだけだったのに、もう何年も別々だったような気がした。
リタ……僕のかわいいお嫁さん。
訳がわからないうやむやな状態で『夫婦』になんてなっちゃったけど、出会ってまだ間もない僕と君だけど、やっぱり僕には君が必要なんだって、君のとなりが僕の居場所なんだって改めて思う。
こんな格好悪い男でごめん。でも……
近付くにつれ、光が大きくなってくる。
わかる、わかるよ。
そこにいるんだね、
大丈夫、すぐに行くから。
だから、待ってて。
さっきまであれだけ早いと思っていたスピードが今はすごく遅く感じた。
早く! もっと早くだ!
疾風になれ、僕!
その中心の小さなものが人の形をとっていく。
それが今の和穂が一番に会いたい『妻』の形になった時、その名前を呼ばずにはいられなかった。
和穂の心が叫んだ。
リターーーーーーーー!
そしてそれはリタにも通じた。
「和穂?」
アルベロンと対峙していたリタがハッとした表情で辺りを見まわした。
何処? 何処なの!
その機を逃すアルベロンではなかった。一気にリタを拘束にかかった。
「余裕だな、リリクスの娘よ。だが、まだまだよ。その大きな力、付け焼き刃で使える代物ではないわ。今ならまだやりようはある」
気が付いたリタが四方から自分を囲おうとする拘束魔法の魔法陣を光の翼で薙ぎ、破壊する。
「抵抗するか、しかし無駄だ」
更に拘束にかかるアルベロンをリタの翼が後方に大きく吹き飛ばした。
そのアルベロンを四人の護衛が身を挺して受け止めた。
「大丈夫ですか、里長様」
「お前たち」
「時間を、稼ぎます。その隙に、里長様が拘束を」
「頼む」
途切れ途切れの言葉にアルベロンが頷き、いつでも魔法を発動できるように魔力を集中させる。
一人が「いくよ」とアイコンタクトを送ると、三人が頷いた。
体力も魔力も尽きかけている身体に鞭を打ち、四人の魔力がリタの周囲に魔法陣を展開する。
しかしリタの翼が魔法発動前に破壊していく。
その中でリタが気付く。
魔力が拡散しない。
「これはーー」
破壊された魔法陣の魔力を力場でもって拡散を防ぐ。力場には予め意味を付与しそのものを魔法陣の代用とする。
アンからレクチャーされたそれをリタは思い出す。
「気付かれたか……でも、遅いわ」
さすがはリリクスの娘、知っていたか。
リタに感嘆しながら、彼女はそれを発動した。
〝重力結界〟
リタを包み込むように展開された力場の結界が、見えない縛めとなって押さえこんでいく。
「なに……身体が……重い……」
リタの身体から光が徐々に奪われて、落下するように高度を落としていく。
ついには完全に光を失い、地面に倒れた。
「今、です」
同時に護衛が魔力枯渇から次々に倒れていく。
「すまぬ。だがこれでーー」
アルベロンがリタを拘束にかかる。伸びる魔法陣を黒い爪が切り裂いた。
「僕のリタに触れるな!」
鞭のように伸ばした〝黒曜〟を手元に戻し形態変化させる。
「貴様、よくも。何者だ」
アルベロンの誰何を和穂が怒りの表情で返した。
「僕の妻を傷つけようとする奴に名乗る名前なんか無いよ」
お前は絶対に許さない!
貫け、〝黒曜〟!
振りかぶった和穂の手から槍状になった〝黒曜〟が疾風迅雷の如くアルベロンを撃った。
「人族の魔法など通じると思うか」
刹那に張った三重の防御魔法、加護の成せる固有結界の全てを粉砕して迫る〝黒曜〟にアルベロンが驚愕する。
それを放った和穂が倒れたリタを抱き上げ、離れる一連の様子がスローモーションでも見るようにゆったりとアルベロンの前で行われていく。
「リタは返してもらうよ」
その声だけがはっきりとアルベロンの耳に届いた。
同時に漆黒の闇を思わせる槍が、その心臓と命を喰らいつくそうと迫る。
瞬間移動も間に合わず、アルベロンは自らの胸に刺さろうとする〝黒曜〟を諦めの目で見つめた。
風よ、
その姿を刃に変え彼の者を守れ
〝風刃一閃〟
時が目覚めるように一気に動き出した。
胸を貫こうとしていた〝黒曜〟が、横から滑り込むように撃たれた風刃に弾かれ、軌道が逸れる。それでも相殺することは出来ず、アルベロンの肩を抉り、後方に抜けて行く。
腕を失うことは免れたものの、そのまま森の中へ飛ばされ、背中から木に衝突し地面に崩れ落ちる。そのアルベロンに走り寄る人影があった。
「アルベロン!」
腕が千切れかけた瀕死のアルベロンを抱き上げ、回復魔法を施す。
その声に瀕死のアルベロンの表情が安堵するように和らいだ。傷口にかざされた癒しの手に自らの手を伸ばし握った。
「ティタニア……助かった」
「アルベロン……もう、やめて」
懇願する妻の言葉にアルベロンが反発する。
「そうはいかん。もう少し、あと少しなのだ、ティタニアよ」
霞んだ目にリタを抱えた和穂の後ろ姿が小さくなっていく。それに向かって、アルベロンが〈妖精郷〉の森に命じた。
「追え、精霊たちよ。逃すな!」
「アルベロン!」
ティタニアの悲痛な声がアルベロンを非難する。
その声にもう一つの蔑むような声が重なった。
「だから言っただろう、ティタニアよ。此奴の頭の固さと愚かさは絶望的だと」
エルフの間では不吉とされる黒髪がアルベロンを見下ろす顔を流れ落ちる。合間から、怒りに歪んだ単眼が、その視線で射殺さんばかり睨みつけた。
その視線を正面から受け止め、気丈な声でアルベロンが牽制する。
「アン・モルガン・ルフェ……口の聞き方に気をつけよ。貴様にそのような物言いをされる謂れはない」
「口の聞き方だと? はっ、小僧が一端の口を聞きよるわ。里長になって慢心したか、アルベロン」
アンが横たわるアルベロンの胸の上に足を叩きつける。
重い一撃が鈍いなにかが潰れるような音と共にアルベロンの身体にめり込んだ。
「ガハッ」
肺の全ての空気が血液と共に一気に口腔、鼻腔を逆流して吐き出された。
それだけでアルベロンの身体が土中に深く減り込んだ。
夫の様子を直視できずティタニアが目を伏せた。
「このままタルタロスの深淵まで沈めてもいいのだぞ、小僧」
「小僧小僧と、下等な一つ目風情が、いい気になるな」
〈妖精郷〉の里長としてのプライドが今のアルベロンを支えていた。
しかし何故だ。目の前で自分の夫が痛めつけられているのに、何故、ティタニアは助けてくれないのか。
ティタニア、お前も私を嗤うのか?
その手が魔法陣を展開しようとする。
煽るようにアンが嘲笑した。
「ほう、魔法で我を吹き飛ばすか。小賢しい。やってみるがいい」
しかし、その手の魔法陣は展開するたびに潰れ、霧散する。
その様子にアルベロンが酷く動揺する。
「愚者め、その程度も退けられないとは」
アンの失望の声がアルベロンの怒りを更に燃え上がらせる。
「貴様など、貴様など……な、何故だ。何故、魔力が魔法陣が紡がれないのだ。貴様、アン・モルガン・ルフェ! 一体、私に何をした。くそ、ティタニア、手を貸せ。この成り上がり者に目にものみせてくれるわ」
「何をした、か。いい加減その声、聞き飽きたわ!」
言って、アンが胸を踏みつけていた足を上げ、再び振り下ろす。その足にティタニアが縋りついた。
「もうお許しください、ヒュプノス様! これ以上は後生でごさいます」
「ヒュプノス……だと」
「いい加減、この姿も飽きてきたわ。実の娘も近くに在ることだし、こちらに変わるか。小僧、これならばお前も親近感が沸くだろう」
言って、アンが入れ替わるように姿を変えた。その面影にアルベロンが絶句した。
「リ、リリクス」
現れた実妹の容姿に、かろうじてその名前だけが呟かれた。
「どうだ、久しぶりに見る実妹の姿は。懐かしいか」
「貴様、私だけでは飽き足らず、我が妹をも蔑むか」
「蔑む? 蔑んだのはお前の方だろうが、アルベロン」
「貴様に兄と呼ばれる筋合いはない」
「自らの保身のために我を捨てた者が、言うではないか」
「私はリリクスを捨ててなどいない」
「笑わせるな、小僧。我の夫、〈黄金色〉が〈黒の竜〉との戦いで倒れたあと、リタと共にここを頼った我をお前はどう扱った、忘れたとは言わさぬぞ」
「違う、違うのだリリクス。聞いてくれ。私は、お前を捨ててなど……いや、言い訳はするまい。確かに私はお前たち親子を〈妖精郷〉から追い払った。今更、許してもらおうとは思わない。だが、これだけは信じてほしい。私は今でもお前を愛してーー」
「捨てたのだよ、お前は」
「違う、リリクス。私は」
「捨てたのだ、アルベロン。理由はどうあれ、お前は実妹とその娘リタをここから追放した。それが事実だ。
その結果、リリクスはリタを魔物から守って死んだ。そしてリタを我に託したのだ、小僧」
リリクスが三度、その姿を変えた。
その姿にアルベロンが息を呑む。
「ヒュプノス……様」
「我れの中にリリクスの記憶がある。その走馬灯を追体験している。我れもリタを産んだのだよ。あの愛しい我が子を。
いいか、小僧。今回のことはリタと婿の経験のためと大目にみてやる。だが次は無いと肝に銘じておけ。
お前の欲しがっていた〝沙羅双樹〟のオリジナルは駄賃代わりにくれてやる。後日、あの単眼から受け取るがいい。
そして心して聞け!
今後一切、あの二人には二度と関わるな。どんな理由があろうとも、リタと婿に近付くことは許さん」
ヒュプノスの言葉が終わると同時にアルベロンは、自分の手の甲が灼かれるような激痛に、その顎が外れんばかりに開かれた口で絶叫した。
「ふん、里長が随分情けない声で啼くではないか。だからいつまで経っても小僧なのだよ」
「わ、私に何を、ヒュプノス様」
手の甲に付けられた赤く焼け爛れたような刻印に、アルベロンが怯えた声でヒュプノスを見上げた。
「これだけのことを我れのリタにしておいて、ただで済むと思ったか。
その手の印は我との約束を反故にする度に貴様を灼きながら成長する。わずかづつにな。
そして、その先がここにーー」
ヒュプノスの指先が手の甲を撫でると刻印が上腕を螺旋を描きながら這うように動き出した。
僅かづつ焼け爛れた傷痕を押し広げるよう進む。
その痛みにアルベロンは既に声も無い。痙攣のような震えに裂けるほどに開かれた口から紫色に膨れた舌がのぞいている。
その指が上腕部から肩へ、エルフの象徴たる耳を横切り額を経由して胸元の心臓の位置へ線を引くように移動した。
「ーー突き刺さり焼き焦がす。精々よく考えて行動することだ、小僧。それとティタニア」
呼ばれたティタニアが身体を震わせ、しわがれた声で返事をした。その顔はアルベロンに対する仕打ちに青ざめている。
その声の方を見ることもなくヒュプノスが続けた。
「無理に解除しようなどとは思わないことだ。その刹那、刻んだ印が燃え出し此奴は蜜蝋のごとく溶けるぞ。
そしてその炎は消えず消せず〈妖精郷〉も焼き尽くす」
「ヒュプノス様!」
ヒュプノスの非情な警告にティタニアが異議を露わにする。
自分の夫のしたことは許されないだろう。しかしその命と〈妖精郷〉を天秤に掛けたにしては余りにも軽い物言いに怒りを沸き上がった。
「黙れ!」
ヒュプノスの斬り捨てるような一喝にティタニアの雪肌が病いを患ったように青白に染まる。ただの威圧に身体が硬直し、手に持った杖をすがるように握りしめ、自らの浅はかさを後悔した。
「我の娘が貴様らに何かしたのか。仕掛けたか。この愚か者は全てわかっているうえで愛娘に手を出した。自分の欲望のためだけにな。
〝沙羅双樹〟など無くても此奴は里長としてここまでやってきたのだろう。何故それを誇ろうしない。だから愚かだと言うのだ。わかるか、ティタニア。その結果がこれなのだ。
罰を受けて当然だろう。本当なら〈妖精郷〉ごと消してもよかったのだぞ。有り難く思うのだな」
叩きつける罵りのような言葉にこめられたヒュプノスの戒めの重さをアルベロンは呆然と聞いていた。
「リリクス……わ、私は、私は……」
腕の痛みより遥かに抉る心の傷にアルベロンが頭を抱え、赤子のような声で泣きながら身を縮める。
「愚か者が」
最後にその一言を放ち、ヒュプノスの姿が消えた。
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