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第三章: リタ、奪還

其の四十三話 〈黒の竜〉の死

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 その日、〈黒の竜〉が身を潜める谷に足を踏み入れるものがあった。
 底知れぬ大地の裂け目、暗く開かれた口腔は即死の猛毒の瘴気が黒い水のように深く濃く漂い、高所から見渡せば、夜が置き忘れた黒い闇があたかも漆黒の湖のように見えた。
 その周辺には動植物はおろか魔物の姿すらも見かけない。
 剥き出しの岩も土も、漂う大気に至る全てが毒に侵蝕され、何者の来訪も拒み続けるそこは『死の谷』だった。
 しかし、〝それ〟は何の恐れも抱かず躊躇すらなく入り込み、歩みを進めていた。
 〝それ〟の向かっている先は一点、〈黒の竜〉がその身を癒やしている場所に他ならない。
 かつて幾度となく〈黒の竜〉の討伐は試みられ、そして挫かれた。
 最初はじめは冒険者が。
 次には国家が、種族が。
 更にその垣根を越えた連合が、このたった一匹のために組織された。
 それだけこの竜は、同族以外の他種族にとって邪悪な存在だった。
 気紛れに破壊し命を奪う。
 国を種族を、街を村を、人を動物を魔物を。時に同族の竜さえ標的として。
 だが同族同じ竜は、アン・モルガン・ルフェは、魔法使いは魔道士共はこういうのだ。

 それこそが(我らの)(あいつらの)竜の本能なのだーーーーと

〝それ〟の歩みの様子はその一歩一歩が重く、言葉にならない怒りが感じられた。
 踏み出す度に谷全体が縦に横にと揺さぶられ、岩肌が声を上げ亀裂となって走り抜けていく。
 裂けた岩が断末魔の音を響かせ砕ける。
 何事だと首を伸ばし見上げたその頭上に、瘴気の闇を押し潰しながら、巨大な壁と化した土砂と岩が土煙を上げながら、沈めとばかりに谷の底で身体を癒やしていた〈黒の竜〉に雪崩れ落ちた。
 一瞬で谷は埋もれ、黒い毒の湖面が、それを形作っていた結界諸共消失する。
 漂う霧のような土煙の中、大量の土砂の下から、唸り声が湧き上がる。
 谷を埋めた土砂を貫いて、噴煙のように黒い闇の柱が現れ、一瞬のうちに吹き飛ばす。
「どこの何奴どいつだ。この俺にこんなふざけた真似をしやがってーーーー」
 両の翼を高々と大きく広げ、黒色の竜が激昂した。
 見上げた竜の目に空を埋め尽くす星の輝きが見えた。
 この谷で星を見上げるなど、何千年ぶりだろうか……
 思わず心を奪われた一瞬、その僅かな隙を竜は後悔した。 
 足音が聞こえたような気がした。
 なにか途方もないものが近付いてくる。
「なんだ?」と思う前に上から目を剥くような衝撃を受けた。
 いかなる魔法も伝説級、神話級と人族が呼ぶドワーフの鍛えた鋼の武器も跳ね退けた黒い鱗を抜け、激痛が全身を走った。
 黒い巨体が硬い剥き出しの岩にめり込み、咆哮とも悲鳴ともつかない獣の絶叫が、鋭い牙を血で赤く染めながら口から吐き出された。
 もしこの声を聞く者がいたならば思うだろう。
 このために、ただこの声を〈黒の竜〉に上げさせるために、どれだけの命が散っていったかと。
 数多あまたの刺客と討伐を跳ね除けてきた化け物が、いま自らが手も足も出ないに瀕死の状態へと追い込まれていた。
 再び崩れ始めた谷を揺する地鳴りが、無念と竜の嘲りの中で命を落としていった者達の歓喜の声に思えた。
〈黒の竜〉を襲った衝撃は、その一撃だけでは済まなかった。
 更に第二波第三波と連続的に襲い続ける。
 竜の身体が岩に埋もれ、その上に崩れた谷の土砂が堆積する。
 深かった谷は僅かな痕跡すら残さずに消され、それに伴ってようやく衝撃も止んだ。
「おめでたい甘ちゃんで助かったぜ。この程度で俺を殺せると思ったか」
 大地の形を変える魔法ぐらい人族やエルフの連中にだって出来る。
 押し潰しは巨人共の十八番おはこ、馬鹿のひとつ覚えの戦法だった。
 大容量の土砂の下で竜はじっと息を潜め、反撃の時を待っていた。
 潰れた身体の再生はすでに終えている。
 衝撃が止むと同時に竜は行動を起こした。
 自分を抑え込む土砂と巨岩を息吹ブレスで一気に吹き飛ばし地上に出た。
 消し去ったーーーー
 そう思った竜を打ち据えるように巨岩が落ちる。
 一体、どこから?
 考える暇は与えられない。
 更に、更に岩が落ちてくる。
 ブレスは連射できない。魔力のを必要とするからだ。
 練り込んだ膨大な魔力を一気に放出する『息吹ブレス』は、竜が発する一撃必殺の最大魔法で、その威力は街はおろか国すら殲滅する威力を持っている。
息吹ブレスが使えねぇからって、この程度の攻撃ぐらい俺にはなあ、通じねぇんだよ」
 尾が潰され、翼が潰される。
 手足の岩さえ引き裂く爪は、その場に深く突き刺さりとなっていた。
 首も頭も潰されていく。
 こうなりゃ止まるまで待つまでだ。
 これぐらい俺の回復魔法なら一瞬で元に戻る。
 どこのどいつかは知らねぇが、ここを襲ったことを後悔させてやる。
 しかし巨岩の落下は止まらず、それどころか逆に激しくなっている。
 そしてその質量おもさもだ。
 おかしい、こいつはまるで無限に落ちてきやがる。まさかこれはーー
 竜はようやくこれが自分を封じる結界であることに気付く。
 馬鹿にしやがって。
 この程度でこの俺を縛ったつもりか。
 この俺を、誰だと思ってやがる!
 俺は〈黒の竜〉だぞ、
 七色の一柱たる俺を閉じ込めるだと!

 ふざけるなぁああああ!

 圧砕されるがままになっていた竜の身体に再び魔力が満ち始め、黒い霧のような霊気オーラまとっていく。
 黒い霊気オーラはその周囲をも侵食し始め、押し潰す巨岩を、落ち続ける岩を黒色に変容させ冒し、砂へ塵芥ちりあくたとなって消えて行く。
 跡には荒涼とした〈黒の竜〉の〝死の息吹猛毒〟に侵された黒い平原が広がっていた。

 ここでせいあるものは、俺だけだ。
 へ、へへへ、はぁあっはーーーー

 あまりの呆気なさに可笑しさが込み上げ、思わず声を上げ、竜は笑い始めた。

 あ……

 その声が唐突に、止んだ。

 誰だーーーー!

 自分以外の存在に気付いた瞬間、

 首が落ちた。

 自らの息吹ブレスでドス黒く塗り変えた大地に岩が転がるような音が響く。
 首を失った巨体が座すように血だまりに崩れた。
 身体の倒れる震動と音を、首は潮騒のように聞いていた。
 竜の首の前に光の壁が見えていた。
 もし見上げることが出来たなら、それが巨大な光の人型の足だと気付いただろう。
 再生が出来ない。
 その気になれば残った部位から再構成し蘇生することが出来る身体が、まるで動かず再生する様子もない。
 
 なんだーーーー
 なにが起きているんだーーーー
 いつもなら、いつもならば
 どんなにやられても、
 どんな目に遭わされようが
 最後に笑っているのは
 俺のはずなんだ。
 なのに、
 なんだこいつは。
 今回はどうしたんだ。
 どこの誰だ、俺をこんな風にした奴は。

 目の前に気配を感じ、竜の視線が動いた。
 一死報いるつもりだった。
 魔力も残り少ない。
 だか〝即死の視線〟で相打ちにしてやる。
 さあ、俺の前に姿を晒せ!
「相変わらずのゲスだな、黒蜥蜴」
 竜の前に長い銀髪の姿が目に入った。
 長い耳のエルフの女だ。
 エルフは竜の〝即死の視線〟を正面から受けながら、それでもなお平気な顔で立っていた。
 眉間に寄った皺と吊り上がった目が、エルフの今の感情を代弁していた。
 竜はそのエルフを知っていた。
 その顔と匂い、心拍を打つ鼓動に、なにより自分を瀕死にまで追い詰めた魔力に覚えがあった。

 お前はーーーー

 黄金色の連れのーーーー!

毒蜥蜴どくとかげ風情が、我れの娘に手を出そうとしたそうだな。この愚か者が!」
 エルフが竜を一喝する。
 それだけで残り少ない竜の意識が吹っ飛びそうになった。
「お前、生きてーー」
 いや違う。似ているがこいつはあの〈黄金色〉の女房だったエルフの女じゃない。この霊気オーラはーーーー!
 ギリギリで保った意識がその正体に凍りついた。
「ヒュ、ヒュプ……ノス」
 死と眠りの神にして広大な〈黒の森〉の支配者、夜と影を牛耳る闇の神性……
 死を前にして、竜は更に絶望する。
 娘だと。あの赤児がか。エルフの赤児ではなく〝 神ヒュプノス〟の娘、だと。
 竜は今更ながら、自分がとんでもないものに手を出そうとしていたことを後悔していた。
『輪廻転生』『永劫回帰』リインカネーションなど出来ると思うな、毒蜥蜴。貴様はここで消滅するのだ、黒の一柱よ」
「ま、待ってくーー」
 死んでいこうとする〈黒の竜〉が命乞いを口にする。
 輪廻、回帰からも外される、それが意味することの恐ろしさに。
 その間にも骸となった黒い身体が削られるように消えていく。
 首だけになりながら、それでも意識だけは鮮明な竜を、ヒュプノスの視線が射る。
 その目は酷く気怠げで、すでに怒りすら消えていた。
 つまらんーーーーと、その目は言っていた。
 怒りをぶつけてみたものの、結局は長く生きただけの蜥蜴か、と。
 リリクスの姿をしたヒュプノスの後ろ、ヒュプノスの巨大な分体が竜の首を持ち上げた。
 身の程知らずが。
 無慈悲に握られた光の手の中で、〈黒の竜〉はその根源すら昇華され、消えていった。

 



 
 
 

 
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