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第二篇
31.紅玉宮の一番手・糸遊 1
しおりを挟む「はじめまして、柘榴さま。紅玉宮一番手、糸遊と申します」
「よろしく」
柘榴の返事を聞いて顔を上げた紅い瞳には、熱が籠っているのが伝わってくる。翠月や夕星、星羅とは違った、見世への意欲の高さがある。「お楽しみください」と、東雲が襖を閉め去っていった。
「早速、これで一曲頼めるかな」
「かしこまりました」
翠月に舞ってもらうつもりだったため、糸遊に合う扇を持ち合わせていない。黄と緑の入った扇を手渡し、世話係が待機している座へ腰を下ろした。すぐに酒が注がれ、杯に口をつける。黄玉宮で飲むものと味は異なるが、上等なのは間違いない。
柘榴が深碧館に来る周期は翠月が把握しているから、間違いなく緑翠にも伝わっている。翠月以外の座敷に入る想定はこれからもない。こういった、何か裏がある場合を除いて。
初めての紅玉宮・糸遊の舞見世は、柘榴に絡みついてくるものだった。目線だけでなく、肩や腕に触れてくる。翠月であれば、黄玉宮であれば、絶対にないと言い切れる。
緑翠が芸者に、積極的に身体を売れと言っている想像はしにくい。宮によって、方針を変えていると考えれば、納得もできる。
(全く…、夜会での騒動も落ち着いて、婚姻されたふたりの反物の相談に来たのに)
糸遊は、きっとこの舞で大勢の妖を堕としてきたのだろう。確かに扇情的で、気分を昂らせようとしてくるのも伝わってくる。残念ながら柘榴は、抑制剤の効き目が薄くなって苦しんで以降、発情期が来る度に翠月を指名していて、それ以外の期間に影響が出たことは今のところない。糸遊の舞を目の前にしても、何も感じない。今回、それが分かったのはひとつ、収穫と思ってもいい。
「……柘榴さま?」
「ん、ああ、すまない」
「お楽しみいただけていますか?」
「ええ、あまりに綺麗で、見惚れていたんですよ。きっと普段から嗜まれる御客も多いでしょうね」
肩に触れたままの糸遊を払うこともせず、世辞を返す。緑翠や翠月と話す時ほど、砕けることはしない。警戒していると、露骨に示しているつもりだが、糸遊にはどう捉えられるだろうか。
「羨ましくて?」
「君のような美しい方とこうして時を過ごせるのですし、狙う妖も多いのでは?」
「それなりには…、でも、買ってくれる殿方はいないのです」
(身請け交渉に、芸者自ら持ち込もうとして来る。紅玉の、一番手が)
柘榴が高位貴族であり、独身であることも分かった上での発言だ。緑翠の意志ではないことが伝わっているとは、思っていないのだろう。
深碧館は、こんな直接的な交渉はしない。芸者を立てて裏で進むのが通常の流れで、まず宮番と客で交渉が開始される。金と時期について具体案が出て、前金のやり取りが終わった頃に芸者に伝えられると、耳にしたことがある。最終的な日取りは客側に決定権があるとも聞くが、もし破談になったとしても、深碧館には前金が入っているし、芸者は落ち込まずに済む。
だから、芸者が初見の客に触れ、自ら身請けについて口に出すことは、おそらくない。少なくとも、柘榴が深碧館の常識として感じていたものとは、異なっている。
「僕にはまだ本妻もいないので、芸者を娶るのはできないのですよ」
「それは残念ですわ…、今回入ってくださったのは?」
「馴染みの芸者が休みでしたので。代わりで申し訳ない」
「いえ…、どちらか、聞いても?」
甘ったるい声が、耳元で響く。言わない方が、不自然だろうか。翠月や緑翠に、悪影響がないといいが。
この糸遊という芸者は、深碧館の一番手を名乗っている。客から見ても一番手は黄玉宮の星羅で、その対立を楽しむ者がいるほどの嫉妬っぷりは有名だった。星羅は緑翠のために稼ぐ芸者で、その分飲食代や心付けを要求されるが、糸遊は異なると、勘が訴えてくる。おそらく糸遊は緑翠にとって、多少安くとも早く身請けされてほしい芸者のひとりだろう。
翠月の名を言うのを躊躇っていることは、糸遊にも伝わっていると思いたい。教養があれば、直接問わずとも扇の色で分かるはずなのだ。紅く強い瞳は、柘榴の口を開かせようとしてくる。これが、深碧館の中でも紅玉宮という宮だ。
「…黄玉の三番手、翠月です」
「あまり言いたくはないのですが、しょっちゅう休んでいるようで…、ご迷惑でしょう?」
「それもひとつ、仕方のないことですし」
「あら、あの子の舞をお気に入りで?」
翠月との見世を、あまり深堀りされたくはない。翠月の非番が増えたのは、柘榴が黒曜宮で床見世を頼んでいるからで、翠月自身には何も問題はない。
「一番手が、異なる宮の様子を聞くのですか?」
「翠月の舞を見てみたいとおっしゃる御客が多いのです。私でも不安になりますわ」
糸遊が、柘榴に頬を寄せてくる。芸者に対して身を引くことも、当然客側である柘榴は取れる選択だが、緑翠が何かしら意図してこの芸者を宛がっているのである。あまり避けるような真似はしない方がいい。
(本当に、色仕掛けばかりだ…)
それで堕ちる男は確かに多いだろうが、相手が悪い。裏家業として隠密を取り仕切っている柘榴が、こんな直接的な誘いに乗るわけがない。
「…翠月はまだあどけないですが、必死に楽しませようとするのが伝わってくる、これからの成長が楽しみな芸者ですね」
「まあ、随分と買っていらっしゃいますのね」
「もちろん、君の舞も美しかった。とても洗練されていて、日々の稽古の成果が見えるようですよ」
(まあ、翠月にはこんな色を誘うような舞、緑翠さまがさせない気がするけど。触れずに舞っていてもあんなに魅力的だし)
この芸者はおそらく、翠月の床が制限されていることも不満に思っているのだろう。上位芸者であれば、柘榴が唯一、翠月と床に入っていると知っていても不思議ではない。
柘榴は、高位貴族である身分を忘れたことはないから、異性とは距離を置きがちになるが、廓では別だ。ただ、貴族の嗜み程度にずっと黄玉宮に通っていて、発情期の発散は最近まで薬剤で済んでいた。芸者でもここまで距離を詰めてくる者には、会ったことはなかった。
(ああ、そうか。あの見目だしね…)
近寄られて目が合って、気付いた。糸遊という芸者は、緑翠に好意を向けているのだろう。見世に必要なものではなく、完全な一方通行で、星羅や翠月が緑翠に向ける尊敬の眼差しとは異なる。きっと、紅玉宮はそういう者の集まりなのだ。だから、内儀に納まったニンゲンの翠月への嫉妬を隠さない。
「お褒めの言葉、ありがとうございます」
糸遊の目がぎらぎらと揺れ、柘榴の腕を撫でる。いくら誘惑の目を向けられても、柘榴は翠月以外との床は考えられなかった。
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