妖からの守り方

垣崎 奏

文字の大きさ
上 下
117 / 120
第二篇

31.紅玉宮の一番手・糸遊 1

しおりを挟む

「はじめまして、柘榴さま。紅玉宮一番手、糸遊と申します」
「よろしく」

 柘榴の返事を聞いて顔を上げた紅い瞳には、熱が籠っているのが伝わってくる。翠月や夕星、星羅とは違った、見世への意欲の高さがある。「お楽しみください」と、東雲が襖を閉め去っていった。

「早速、これで一曲頼めるかな」
「かしこまりました」

 翠月に舞ってもらうつもりだったため、糸遊に合う扇を持ち合わせていない。黄と緑の入った扇を手渡し、世話係が待機している座へ腰を下ろした。すぐに酒が注がれ、杯に口をつける。黄玉宮で飲むものと味は異なるが、上等なのは間違いない。

 柘榴が深碧館に来る周期は翠月が把握しているから、間違いなく緑翠にも伝わっている。翠月以外の座敷に入る想定はこれからもない。こういった、何か裏がある場合を除いて。

 初めての紅玉宮・糸遊の舞見世は、柘榴に絡みついてくるものだった。目線だけでなく、肩や腕に触れてくる。翠月であれば、黄玉宮であれば、絶対にないと言い切れる。

 緑翠が芸者に、積極的に身体を売れと言っている想像はしにくい。宮によって、方針を変えていると考えれば、納得もできる。

(全く…、夜会での騒動も落ち着いて、婚姻されたふたりの反物の相談に来たのに)

 糸遊は、きっとこの舞で大勢の妖を堕としてきたのだろう。確かに扇情的で、気分を昂らせようとしてくるのも伝わってくる。残念ながら柘榴は、抑制剤の効き目が薄くなって苦しんで以降、発情期が来る度に翠月を指名していて、それ以外の期間に影響が出たことは今のところない。糸遊の舞を目の前にしても、何も感じない。今回、それが分かったのはひとつ、収穫と思ってもいい。

「……柘榴さま?」
「ん、ああ、すまない」
「お楽しみいただけていますか?」
「ええ、あまりに綺麗で、見惚れていたんですよ。きっと普段から嗜まれる御客も多いでしょうね」

 肩に触れたままの糸遊を払うこともせず、世辞を返す。緑翠や翠月と話す時ほど、砕けることはしない。警戒していると、露骨に示しているつもりだが、糸遊にはどう捉えられるだろうか。

「羨ましくて?」
「君のような美しい方とこうして時を過ごせるのですし、狙う妖も多いのでは?」
「それなりには…、でも、買ってくれる殿方はいないのです」

(身請け交渉に、芸者自ら持ち込もうとして来る。紅玉の、一番手が)

 柘榴が高位貴族であり、独身であることも分かった上での発言だ。緑翠の意志ではないことが伝わっているとは、思っていないのだろう。

 深碧館は、こんな直接的な交渉はしない。芸者を立てて裏で進むのが通常の流れで、まず宮番と客で交渉が開始される。金と時期について具体案が出て、前金のやり取りが終わった頃に芸者に伝えられると、耳にしたことがある。最終的な日取りは客側に決定権があるとも聞くが、もし破談になったとしても、深碧館には前金が入っているし、芸者は落ち込まずに済む。

 だから、芸者が初見の客に触れ、自ら身請けについて口に出すことは、おそらくない。少なくとも、柘榴が深碧館の常識として感じていたものとは、異なっている。

「僕にはまだ本妻もいないので、芸者を娶るのはできないのですよ」
「それは残念ですわ…、今回入ってくださったのは?」
「馴染みの芸者が休みでしたので。代わりで申し訳ない」
「いえ…、どちらか、聞いても?」

 甘ったるい声が、耳元で響く。言わない方が、不自然だろうか。翠月や緑翠に、悪影響がないといいが。

 この糸遊という芸者は、一番手を名乗っている。客から見ても一番手は黄玉宮の星羅で、その対立を楽しむ者がいるほどの嫉妬っぷりは有名だった。星羅は緑翠のために稼ぐ芸者で、その分飲食代や心付けを要求されるが、糸遊は異なると、勘が訴えてくる。おそらく糸遊は緑翠にとって、多少安くとも早く身請けされてほしい芸者のひとりだろう。

 翠月の名を言うのを躊躇っていることは、糸遊にも伝わっていると思いたい。教養があれば、直接問わずとも扇の色で分かるはずなのだ。紅く強い瞳は、柘榴の口を開かせようとしてくる。これが、深碧館の中でも紅玉宮という宮だ。

「…黄玉の三番手、翠月です」
「あまり言いたくはないのですが、しょっちゅう休んでいるようで…、ご迷惑でしょう?」
「それもひとつ、仕方のないことですし」
「あら、あの子の舞をお気に入りで?」

 翠月との見世を、あまり深堀りされたくはない。翠月の非番が増えたのは、柘榴が黒曜宮で床見世を頼んでいるからで、翠月自身には何も問題はない。

「一番手が、異なる宮の様子を聞くのですか?」
「翠月の舞を見てみたいとおっしゃる御客が多いのです。私でも不安になりますわ」

 糸遊が、柘榴に頬を寄せてくる。芸者に対して身を引くことも、当然客側である柘榴は取れる選択だが、緑翠が何かしら意図してこの芸者を宛がっているのである。あまり避けるような真似はしない方がいい。

(本当に、色仕掛けばかりだ…)

 それで堕ちる男は確かに多いだろうが、相手が悪い。裏家業として隠密を取り仕切っている柘榴が、こんな直接的な誘いに乗るわけがない。

「…翠月はまだあどけないですが、必死に楽しませようとするのが伝わってくる、これからの成長が楽しみな芸者ですね」
「まあ、随分と買っていらっしゃいますのね」
「もちろん、君の舞も美しかった。とても洗練されていて、日々の稽古の成果が見えるようですよ」

(まあ、翠月にはこんな色を誘うような舞、緑翠さまがさせない気がするけど。触れずに舞っていてもあんなに魅力的だし)

 この芸者はおそらく、翠月の床が制限されていることも不満に思っているのだろう。上位芸者であれば、柘榴が唯一、翠月と床に入っていると知っていても不思議ではない。

 柘榴は、高位貴族である身分を忘れたことはないから、異性とは距離を置きがちになるが、廓では別だ。ただ、貴族の嗜み程度にずっと黄玉宮に通っていて、発情期の発散は最近まで薬剤で済んでいた。芸者でもここまで距離を詰めてくる者には、会ったことはなかった。

(ああ、そうか。あの見目だしね…)

 近寄られて目が合って、気付いた。糸遊という芸者は、緑翠に好意を向けているのだろう。見世に必要なものではなく、完全な一方通行で、星羅や翠月が緑翠に向ける尊敬の眼差しとは異なる。きっと、紅玉宮はそういう者の集まりなのだ。だから、内儀に納まったニンゲンの翠月への嫉妬を隠さない。

「お褒めの言葉、ありがとうございます」

 糸遊の目がぎらぎらと揺れ、柘榴の腕を撫でる。いくら誘惑の目を向けられても、柘榴は翠月以外との床は考えられなかった。
しおりを挟む
お読みくださいましてありがとうございます
    ☆読了送信フォーム
選択式です!気軽な感想お待ちしております!

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

ハイスペック上司からのドSな溺愛

鳴宮鶉子
恋愛
ハイスペック上司からのドSな溺愛

今日の授業は保健体育

にのみや朱乃
恋愛
(性的描写あり) 僕は家庭教師として、高校三年生のユキの家に行った。 その日はちょうどユキ以外には誰もいなかった。 ユキは勉強したくない、科目を変えようと言う。ユキが提案した科目とは。

とある高校の淫らで背徳的な日常

神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。 クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。 後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。 ノクターンとかにもある お気に入りをしてくれると喜ぶ。 感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。 してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

自習室の机の下で。

カゲ
恋愛
とある自習室の机の下での話。

処理中です...