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第二篇
26.久方の人攫い 1
しおりを挟む緑翠は翠月と共に、主に楼主代理の朧と小望が使う書斎に降りていた。内儀である翠月には知られたくない記録も多い場だが、翠月が好奇心を隠せていないのも十二分に感じていた。黒系宮を見た折のように、連れて来てしまうのも手かと、緑翠は考えた。
「そういえば、最近降りていませんね」
「月が揺れないからな。翠が来た日も揺れていた」
「月なんて見慣れてたのに、あの日の月は綺麗だと思った」
「違いがあったのか」
「なんとなく、ね」
夜光は、神なら月が示す内容も分かると言っていた。深碧館の安定のためにも、神の気を落ち着けるためにも、《婚礼の儀》の準備を進めなければならない。
蒼玉宮での勉強会以来、紅玉宮からの嫌がらせは目に見えて減ったと、翠月は言った。翠月は何があったのか知らないままで、天月からは緑翠が紅玉宮に対して何かしら手を打ったと聞いたらしい。藍玉宮の宮番・暁や君影からも、紅玉宮の芸者が大人しくなったと聞いて、緑翠が安心したのも束の間、余計に頭を悩ませた。この機会に、進めたい事柄が多すぎる。
(《婚礼の儀》、紅玉宮の身請け、それに時雨のことも…)
「一度様子を見ては? 人攫いまがいが暴走しないように止めるのも、緑翠さまの役目では?」
「暴走?」
「ニンゲンは妖力に当たったら動けなくなるだろう? その間、何でもやり放題だと思う輩がいる。保護を求めずまともに生活しているニンゲンと、人攫いを会わせるわけにはいかない。翠も天月も向こうの世界で悩んでいて、自分でこちらの世界に興味を持った。そろそろ、俺から見回りに行かないと、間違って踏み込んでしまうニンゲンを守れない。箔のある人攫いは俺だけで、俺が他の人攫いまがいを摘発しないと倫理が保てない」
「なるほど…」
「こちらの世界でなら、生きていける場合もあるからな」
天月はあちらの世界が嫌で、それを視た緑翠が誘いこちらの世界を選ばせた。翠月も、先に声を掛けたのは緑翠である。緑翠の行う人攫いは保護であり、奴隷や服従関係は望まない。
書斎の棚に詰められた深碧館の記録は、翠月の興味を引いたようだ。ニンゲンがあちらの世界で使っていた表記とは異なっていて、天月を含め語見世を行っていないし、手紙もニンゲン同士でしかやり取りをしていない。読むことは難しいだろう。それでも、内儀としてこの棚を見回す翠月は、好奇心に満ちた目をしている。
「ついて来たいか? あちらの世界の近くには行ける」
「戻ってしまうことは?」
「聞いたことはない」
そもそも、ニンゲンがこうして保護されて生活している記録が少ない。緑翠にとって、生活させることに成功したのは天月が初めてで、それ以前にも何名か連れて来はしたが保護しきれず、ニンゲン自身の意志がこちらの世界に向いていなかったと割り切ってきた。先代以前の記録は真偽が怪しいものも多く、皇家の屋敷で奴隷として扱っていたと考えるのが妥当か。そして、その事実を天皇家も例外として黙認していたのだろう。
「行かない。ここの方が居心地がいいから、何かの拍子でこちらに戻れなくなるのは嫌」
「分かった、非番にする。翠玉宮から出るな」
「うん、いつも通りだね」
神社についてくることを断った翠月に、緑翠が安堵したなど、伝わっていない。朧や小望は見世の準備に出て行ったが、緑翠は時間の許す限り翠月の興味に付き合い、記録をいくつか広げた。
*****
黄玉宮での柘榴との予約見世が、楼主権限でなくなり非番になった。「月は揺れていない」と言いながらも、翠玉宮から出る緑翠を見送った。翠月はひとりだが、緑翠と揃いの指輪に擦り寄った狐がいる。緑翠が妖力で出した、いつもの狐だ。翠月は勝手にコンと名付け、可愛がっている。
コンを出してくれたということは、緑翠には帰るのが遅くなると分かっているのだろう。翠月が寂しくないように、コンを置いていってくれる。
春霖・秋霖が広間で話し相手をしてくれたが、小望が来たことで侍女としての仕事に戻っていった。腰を下ろす前に、小望が口を開く。
「少し、お時間をいただいても?」
「はい、今日は非番ですから」
翠月の対面に座った小望は、少し言葉を選んだようだった。
「翡翠さまについて、何か聞かれたことはありますか?」
急な問いに、戸惑いを隠せなかった。小望はそんな翠月を見ても表情を変えず、ただすっと見つめてくるだけだ。小望に対しては何をしても無礼には当たらないと分かっていても、構えてしまう。
「…緑翠さまの姉で、長い間会えなかった御方だと」
「そうですか。緑翠さま、ご自身のことはあまりお話にならなそうですものね」
小望に悪気はないだろうが、その口ぶりからは緑翠の姉について、小望がよく知っているのは伺えた。こうして話に来てくれるのも、緑翠が神社へ向かったからだ。ひとりで待つ翠月を気遣ってくれている。
「お綺麗な、翠月さまのものとよく似た瞳をお持ちでした」
「私と…」
「初めて、あのお屋敷でお会いした時、驚きました。墓参の折です。覚えていらっしゃいますか?」
小望は大抵の場合、積極的に話してくれる。翠月は頷いて、先を促した。
「緑翠さまが翠月さまを傍に置いたのは、きっと他にも要因はあるのでしょうが、その瞳に惹かれたのがきっかけではないかと思います。いわゆる一目惚れです」
(…………)
思わず目を見開いてしまった翠月と、小望の目線が合った。「ふっ…」と笑った小望が、さらに続ける。
「失礼しました。しかし、信じられないという顔をされていますね。記録もいろいろ読みましたが、深碧館に来たニンゲンは黒系宮の働き手となるのが通例で、天月さまが例外という状況でした。来られてすぐの頃、緑翠さまの結界に比較的強く当たってしまうことや天月さま自身のご希望もあって、蒼玉宮に預けて様子を見たところ、上手くいったということで」
「…そう、ですね」
天月から直接聞いたことのある話で、翠月は知っていた。夫である緑翠が翠月に一目惚れしたと聞かされた混乱は、すぐには落ち着かない。
「その後、翠月さまが渡られたと把握しております。こちらに来られた初日から、緑翠さまの妖力に当たらないニンゲンだったそうで」
「はい」
翠月は天月と仲良くなり話すうちに、元から緑翠の妖力には当たらなかったと自覚するようにはなっていた。おそらく、天月は宵の妖力には初めから当たらなかったのだろう。
「今ではもう、ニンゲンの保護を司る皇家として、緑翠さま、朧さま、私の中ではひとつの結論となりました。ニンゲンが特定の妖力に当たらない状況があれば、そのニンゲンと妖は惹かれ合います。そして、妖力の受け渡しを行うことになります。つまり、ニンゲンがこちらに渡ってきてしまった場合、ある程度妖との接点を設けて、受け渡しができる妖を探すのも手だということです」
戸惑い続ける翠月に、「『話しても構わない』と、お許しはいただいておりますので、ご安心ください」と、小望が付け加える。茶を勧められるまま、翠月は従って一口啜る。
「……それは、でも…」
「はい。もちろん、危険も伴います。ただ、渡ってきてしまったニンゲンは、妖力の受け渡しがなければ生きていくこともままなりません。現状、翠月さまも天月さまも、受け渡しがあるにも関わらず深碧館からは出られません。芸者としてもそれが当たり前になっているので、外に出たいとも思われていないのでしょうが、こちらの世界に妖として生を受ければ、もっと自由に外を知ることができるのです。緑翠さまも翡翠さまも、屋敷に幽閉され、外の世界をほぼ知ることがない方でした。緑翠さまは、その瞳も相まって、翠月さまと翡翠さまを重ねてしまう部分があるはずです」
緑翠が、姉である翡翠を看取ったとは聞いている。そこまで似ている、重なってしまうと言われると、考えがまとまってくる程に、緑翠の姉に対する興味は湧いてくる。
「…翡翠さまは、どうして亡くなられたのですか」
「詳細をお話するのは荷が重いです、翠月さま。元々は仲の良い姉弟でしたので、生き別れなど求めていなかったでしょうね…。久々再会できたのも束の間でした」
「ごめんなさい、小望。緑翠さまに直接聞きます」
鼻をすすり始めた小望に焦った翠月は、「仕事に戻っていい」と小望を広間から追い出した。外を見上げてみても、変化があるようには思えない。組紐を組んだり日記をつけたりすること以外、やれることが特にない。
露台の隅で丸まっていたコンを、膝の上に誘った。金色に近い色の綺麗な毛並みを持って実体もあるのに、この狐は妖力で作り出されている。もしかしたら、こうして抱き締めていることも、緑翠には分かっているのかもしれない。
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