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第二篇
14.妖の発情期 1(※)
しおりを挟む「…翠月、ごめんね。今日、止まれそうにない」
一通り食事を楽しんだ柘榴に帳の奥へと導かれ、敷物の上に座ったところで、そう言われた。
「どういう意味ですか?」
「発情期、狂ってね…。僕は元々かなり欲が強いんだ。『身体に残ることはしない』と、言い切れない」
柘榴が、持っていた酒を瓶から煽り含んたまま、翠月の口に寄せる。追加の飲物を取りに行った梓がちょうど不在で、言伝を頼む間もなく、喉が焼けるのを感じた。
「んん、はっ…」
「翠月はいつも酒を避ける…。酔うのが早いのか?」
(ん、妖力…? 蛇に、巻かれてるみたい)
着物を脱ぐ度に目に入る柘榴の肩には、蛇の墨。緑翠のは狐の墨だ。高位貴族には、何か関連するものがあるのだろう。墨はその家系を示すと、緑翠には聞いたが、それ以上のことを翠月は知らなかった。
気を失うことはないものの、身体は重く抵抗できない。容赦なく身体を暴かれ、奥を突かれ始める。確かに、今日の柘榴はいつもより手が早く、少し雑にも感じられる。
「まっ、まっ…」
本気で止めて欲しいと伝えたくて目を開けると、頬を濡らす柘榴が見え、驚いてしまった。芸者としては、無礼に当たる。
「……閉じていて。お願い」
その苦しそうな声に、翠月は力を抜いて、言われた通りに目を瞑った。
*****
月が揺れて、神社まで見回って戻った緑翠は、嫌なざわつきを拭えず、面を袖に入れたまま黄玉宮に向かって階段を昇っていた。本来ならニンゲンを非番にするところだが、今回もまた、倫理を守る柘榴の予約があったために翠月のみ許可したのだ。
柘榴が、翠月の身体に他の男を教え込んでいくことに、当然良い気はしなかった。翠月の膜を破ったのは天月で、それも緑翠ではないが、緑翠自身も無理にされた身だ。ここが廓である以上、割り切りも必要である。
その割に、内儀を床に出したくない感情を止められず、おそらく翠月の前では顔に出ているが、翠月は仕事だと言ってきかない。らしいといえばらしいのだが、悩みの種でもある。今日の月の揺れも、ニンゲンが新たに来たことを示したものではなく、翠月についての警告だったと考えるのが妥当だろう。
廊下に出て、黄檗の間が近づくと、普段と空気が異なるのを感じた。予感が、当たってしまった。何か起きたのは間違いなく、後手に回る事しかできないのが嫌になる。
睨みつけながら近づいた目の前の襖が、勝手に開いた。
「ああ、やはりいらっしゃいましたか…」
「妖力が、漏れていたからな。多くはない。気付くのは俺くらいだろう」
疲弊した様子の柘榴が、座敷にいた。ここまで乱れた柘榴は初めて見る。何か、柘榴ですら対応できないような、大事だったようだ。
座敷に入った緑翠は、世話係がいないことを確認した。完全に事後で見世は終了しているが、柘榴が断ったのだろう。堕ちてしまった翠月は、おそらく柘榴によって拭かれたのだ。着物を着付けられてはおらず、布団のように掛けられているだけだった。
翠月の横に腰を下ろし、頬に触れた。眉間に皺を作ったままの翠月に口寄せすると、多少寝顔が穏やかになり、呼吸も深くなった。完全な敵でなくても、翠月が当たってしまう妖力だった証拠だ。今日の柘榴には、抵抗したのだろう。
「緑翠さま、申し訳ありません。避妊薬は飲ませております」
「当然だ。今から飲ませるのは鎮痛剤。妖の欲ほど周りが見えなくなるものはない」
翠月は、同じニンゲンの天月と比べて、異性であることを考慮しても背が低く、全体的に小さい。初めて診察させた折に瑠璃から言われたことが蘇り、柘榴に向けたその言葉は、自らにも言い聞かせるものだ。口移しで錠剤を飲み込ませた後、頭を垂れたままの柘榴に向き直った。
「発情期の暴走か?」
「あの後…、徐々に薬での制御が難しくなりました。お恥ずかしいことに」
思わず、目を見開いてしまった。柘榴は純潔の高位貴族、序列は皇とほぼ同列だ。緑翠には分かり得ないが、薬が効かない辛さは最も感じる身分だろう。
翠月が発情を誘因する薬を飲まされ、その対処のために緑翠も含め床に入った後、柘榴は深碧館に来る頻度を上げた。翠月との床見世の日と、それ以外の見世を楽しむ日を分けるためだが、ここ最近は毎度床に入っていると聞いていた。
緑翠が柘榴に対して、怒りを向けることはできない。声を荒げてしまえば、緑翠に発情期がないことを明かすのと同義だ。薬が効かない苦しみを、緑翠も知っていると思わせておく方がいい。内儀である翠月の、柘榴との床を許したのは緑翠で、その床で何が起きようとも、責められるべきはその判断をした楼主だ。
「…翠月に過度な負荷をかけないことが条件だったはずだが」
「おっしゃる通りです」
普段のような、揶揄う余裕を全く見せず、頭を下げ反省の色を浮かべる柘榴に、それ以上の追及をするのは野暮だ。最も序列の近い高位貴族である柘榴とは、ある程度の関係を保っておきたいところでもある。皇家当主として、扇家次期当主に対し優位に出られる好機だと捉えるべきか。
「…もし、深碧館に来れなくなれば、その発情はどう処理する?」
「緑翠さまも高位であれば、ご存知かと思いますが…、薬の調整には効果が出るまでに時間がかかります。その他の手段であれば、妖力による抑制が必要になります。ただ僕を超える強さが」
「結局、俺か」
「左様でございます」
柘榴に掛けるとなると、小望への上掛けの比ではない。いくら結界を張っていても、その外へ影響が出るほどの妖力を使わなくてはならないと、すぐに想像がついた。
「薬は、誰から?」
「楪さまから、いただいております」
「ならいい。俺も信頼を置く医者だ」
瑠璃から抑制剤の処方を受けていて、緑翠と翠月の関係もよく知る柘榴が、こんな姿を見せるとは、誰が予想しただろうか。緑翠が一息吐くと、懲戒を受け入れようとする柘榴がさらに畳へと額を近づけた。この床の真の責は緑翠にあるのだが、そこまで御客に明かす必要はない。
「…分かっているだろうが、俺は翠月にここまでさせたくない」
「承知しております」
「可能な限り穏便に、扇家の騒ぎとならないように片付けたいのも分かる。出禁にはしないが、地下の裏口から入れ」
今まで、扇家とは裏でのやりとりはなかった。隠密なら、この廓に別の入口があることを当然知っているだろう。
「…かしこまりました」
「地下なら、妖力が漂っても不審に思われない。上階での万一は避けたい」
「ご配慮に感謝いたします」
「難しいのは分かるが、できる限り、翠月を気遣ってやって欲しい」
「承知しております、緑翠さま。寛大な御心に、感謝しきれません」
宮番などから、たまに間違った対応をした折に謝られることはあるものの、貴族からの謝罪を受けたことはない。緑翠は、柘榴の変わりように、居心地の悪さを感じ始めていた。
「顔を上げろ。翠を預かっても?」
「ええ、もちろんです」
泊まり客から芸者を預かるなど、普段なら有り得ない。そんな状況を作った御客は確実に出禁になる。柘榴が高位貴族ゆえにできる、例外だ。
座敷を出る前に、世話係を呼んだ。柘榴の希望に沿うように伝えると、またしても柘榴が頭を下げる。
「緑翠さま」
世話係に呼び止められ、すでに黄檗の間を出ようとしていた緑翠は、翠月を抱えたまま振り返った。
「あの、…すみません。翠月さまなら、柘榴さまを悪く言うことはないと思います。希望をお伺いするのも、当然だとおっしゃるはずです。それだけ、お伝えしたくて」
「ああ、頼んだ」
(…あの世話係の名前は、覚えてもいいな)
おそらく、世話係に気を遣われるほど、緑翠が疲れているように見えたのだろう。
楼主の立場に振り回され、内儀ひとりすら満足に過ごしてもらうことができない。同じ高位貴族でも、別の仕事を持つ夫だったら、妻に不自由なく生活を送ってもらえたのかと、どうにもならないことを考えたくもなる。男として、女ひとりを守るのがここまで難しいとは、思ってもいなかった。
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