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第二篇
13.翠月の異変 1-4(※)
しおりを挟む穏やかに眠る翠月をしばらく眺めた後、緑翠は一旦翠月の世話を春霖・秋霖に任せ、朧の書斎へと向かった。見世が終わると、楼主代理は帳簿や銭をまとめることで忙しくなる。緑翠が見回りに出るの前の方が、暇がある。
緑翠は、できる限り翠月の床見世を遅らせようとしていた。芸者を生業としていても、翠月の所属は見習いの時から黄玉宮で、床が無くても成立する。教養で常連を作る宮ゆえ、身体で御客を引き留める紅玉宮とは異なる。
朧に話すとしても、当然気分の良いものではない。状況を把握した朧が、時間をかけて息を吐いたことでも、その重さを思い知った。
「……お疲れ様でした。よく耐えましたね」
「今日の御客は高位の柘榴だった。それが、最善だと思った」
朧が注いだ茶を、一口すすった。黄玉宮での床の後、まだ何も口にしていなかったことに気付き、もう一口含んだ。
「…柘榴さまと、きっかけはさておき、私情でも繋がりができたのは良いことでは?」
「高位貴族としてか」
「ええ。むしろそう捉えるしか、ないでしょう」
「…そうだな」
緑翠は、ずっと皇家の屋敷に隠されて育ち、十五で廓を継いでからも運営に忙しく、貴族社会へ顔を出すことはなかった。朧は年も序列も近い柘榴と、懇意にすることを勧めている。言葉では理解できるが、すんなりと受け入れられるものでもない。
「…本日、瑠璃さまが蒼玉宮に」
「来ているのか」
さっと庭へ、そして空へと顔を向ける。月はそこまで降りてきていない。普段の瑠璃なら、まだ座敷にいるはずだ。
「顔を出してくる」
「緑翠さま、伺い方にはご注意を」
「ああ」
高位貴族同士、弱みは見せない方がいい。示し合わせのない状態で、御客の座敷に入ることは楼主として避けたいものではある。ただ、瑠璃は例外に近い。緑翠は瑠璃の性別を知った上で、女禁制の蒼玉宮に受け入れている楼主だ。瑠璃も、多少の無理は聞いてくれる。
***
「瑠璃さま、見世の最中に失礼いたします。緑翠でございます」
「珍しいですね、どうぞお入りください」
天月と君影が、互いを見、緑翠を見、焦っている。普段、瑠璃と話がある際は必ず事前に申し合わせた上で、都合の良い座敷の合間に瑠璃から呼んでもらっている。こうして、緑翠からいきなり来ることはなかった。
男色芸者ふたりが席を外し、瑠璃と対面する。翠月が何かしらの薬を飲まされたことを、直接相談する方がいいのだろうが、朧から、釘を刺されているのもあって、ここで話すのはあくまで別件だ。
「…翠月を床に出そうかと」
「あら、ついにですか。緑翠さまとの練習が終わったと見ても?」
「どうとでも。それで、薬について聞きたい。鎮痛剤は効くようだが、避妊薬に関しても妖同様の効果を得られるのか?」
「おそらくは。研究自体がありませんので、明確にお答えすることはできませんが、飲まれた方がいいかと」
緑翠は、一息吐き出した。そう言われると予想はしていたが、実際に耳にするとやはり、考えるものはある。
「徴が出てすぐであれば、堕胎することもできます。妖であれば、ですが」
「結局は、それも負担になるのだろう?」
「ええ、内儀さまはまだ身体が成長しきっておりませんので」
「身体の成長は、妖と同じなのだな」
「いえ、こちらも推論ではあります。ただ、出産となると成長した妖でも負荷はかかります」
「そうだな…」
ニンゲンについては、奴隷扱いを受けることしかなく、こちらの世界で長く生きた者が少ないこともあり、研究の手が伸びない。医学では瑠璃の楪家が権威だが、ニンゲンの世界や妖力への耐性などを経験として持っているのは皇家だ。どちらにせよ、妖と同じと考えておくのもひとつだが、そうではない部分も有り得る。
「何か、現れればすぐに私へ。徴ばかりは、出てみないと分かりませんので。それとも、すでに気になる症状が?」
翠月に徴があるわけではないが、息を止めてしまった。瑠璃とは、芸者に聞かれないようにするため、耳元で会話する。おそらく、気付かれただろう。
「…薬を、飲まされた。以前伝えてもらっていたものだと思う」
「発情を誘因する?」
「ああ」
「内儀さまは?」
「今は休んでいる」
「何もせず、ですか?」
「散らしはした」
瑠璃からの問いは、医者からの問いだ。ただ、柘榴とともに床に入ったとは、言い出せない。緑翠だけでなく、柘榴の尊厳も関わる。
「そうですか…、抑制剤の必要はなかったのですね」
(抑制剤……っ)
頭を殴られたような、衝撃を受けた。発情期を持たない緑翠の頭からは、すっかり抜け落ちていた。
深碧館には、発情期を薬で制御するほどの欲を持った妖がいない。芸者であれば発情期を床見世で発散している。宮番も、床を盗み見ることで対処している。それ以外の働き手はそもそも発情の薄い者が多い。抑制剤の流通そのものが、存在しない廓だ。
「そういえば、緑翠さまの薬はどちらから? 私どもとの取引ではありませんよね」
最高位貴族だと知られている緑翠は、当然妖力も発情期も強力だと思われている。抑制剤を必要としないことは、深碧館の中でも楼主代理と黒系宮の宮番しか知らない。瑠璃には、翠月のためにも明かす以外になかった。
「……翠月にしか、発情しないとでも言おうか。抑制剤を、飲んだことがない」
瑠璃から、声はすぐに返って来ず、緑翠の言葉が想定外だったことは伺い知れた。着物の擦れる音がして、そっと身体を退かすと、瑠璃が杯に口をつけていた。それほどまで、瑠璃を動揺させる事実だったのだろう。確かめるように杯を置いた瑠璃が、緑翠に耳を寄せるよう頼んだ。
「……私も、抑制剤を持ち歩いてはいないもので…」
「そうだろうな」
柘榴も、薬を持ち歩いていれば、飲ませることを提案してきただろうか。緑翠には分からないことで、結果的に翠月を守れなかったのは事実だ。
「眠れるのであれば、次第に落ち着くと思われます。酷くなるようなら、使いを」
「承知した。見世を止めてすまない」
「いえ、ご相談ありがとうございます」
天月と君影を呼び戻してから、緑翠は丁寧に礼をして、水縹の間を出た。襖を閉め、廊下を少し進んでから大きく溜息を吐く。深碧館は毎日同じように回るが、翠月への心配や不安は増すばかりだ。
(あれもこれも、俺の考えの至らなさが招いたものだがな…)
***
「ついに内儀さまが床に入られたそうだ」
「本当か? 一体誰に?」
「柘榴さまだ」
「高位か、俺には届かないな」
酒が入って酔った御客が、そう言い合って笑う。番台で飲食分の銭を払い、目の前を通り過ぎていく。楼主で夫の緑翠がいても気付かないほどに、見世を楽しんだのだろう。
「緑翠さま、よかったのですか」
「何がだ?」
「あの御客の出禁です。緑翠さまにとっては好ましく映らないでしょう?」
最近は番台で御客ともやり取りをしている小望が、隣に立つ緑翠に聞いてくる。
「俺にとってはな。直接何かを言われたわけではないし、楼主としてはそれだけ翠月の価値が上がればいい」
「床を、制限できるから」
「そうだ。柘榴さまにしか許可していないし、するつもりもないからな」
あの日の床は、翠月の床の解禁を待っていた柘榴にとっても不本意な床ではあっただろうし、緑翠が弱みを握られていることに変わりはない。何も取り交わしてはいないが、柘榴だけに翠月の床が解禁されたとなれば、扇家としても、深碧館や皇家に悪いようには動いてこないだろう。
見世の回数を減らしたい緑翠とは異なり、回復した翠月は見世に出たがった。ただ、柘榴だけに床を解禁したとしても、他の御客が翠月の見世に入れることに違いはなく、最終的には御客の倫理に委ねられる。座敷に入ってしまえば、御客と芸者、世話係の三名のみの空間だ。いくら緑翠が楼主であっても、事が起きなければその場に足を踏み入れることはできない。もどかしさだけが、募っていった。
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