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第二篇
10.翠月の異変 1-1(※)
しおりを挟むひとりで黄檗の間を使うようになって、どれくらいの月日が経っただろう。相変わらず、床には入らない見世を過ごしていたが、今日の座敷は何かがおかしい。御客にしつこく勧められた菓子を一口かじってから、身体が熱く、怠く重くなってくる。
世話係である梓に、宮番の黎明ではなく楼主の緑翠を呼ぶように目で訴えた。梓の姿が見えなくなって、好機とばかりに御客が迫り触れてくるが、抵抗したくても力が入らず避けられない。頭が回らなくなってきて、手を支えに身体を起こしておくのも辛かった。
座敷では有り得ない程に、勢いよく障子が開く。ぼんやりと目をやると、見慣れた立ち姿が見えた。
「…失礼。勝手なことをされるのは、止めていただきたい。芸者が丁重に断ったはずだ」
「これはこれは、申し訳ない、楼主さま」
「翠月は預かる。本日は引き取りを願おう」
御客が黎明に連れられ座敷を出るのを見送った後、緑翠が翠月を抱えた。翠玉宮の寝間まで運んでくれるのだろう。身を預けると眠ってしまいそうだが、まだ目を閉じるわけにはいかない。緑翠に、この見世で何があったのか、自分の口で話すまでは。
*****
当然、あの御客は出禁である。緑翠を名で呼べないほどの身分の者が、翠月の座敷を踏んでいた。伝手があったことには違いないが、朧と黎明のことだ、この御客が翠月の見世に入ったのは今回が初めてだろう。黄玉宮の下位芸者で遊んでいるうちに、上位芸者に興味を持った具合か。
(深碧館の運営として、間違ってはいないが…)
腕の中にいる翠月は異様に熱いが、妖力に当たった折のように、顔をしかめているわけでもない。緑翠には、思い当たる節があるが、考えうる中で最悪のものだ。
布団に下ろされたことに気付いた翠月が、口を開いた。横になったことで、多少楽になったのだろうか。
「…緑翠さま」
「話せそうか?」
「ごめんなさい。当てられたんじゃないの。たぶん、菓子に何か入ってた。ずっと勧めてくるから、一口だけもらったの。ちゃんと断ればよかった」
「いい。自らを責めるな。世話係から、翠が断っていたのは聞いた」
翠月は普段よりも早口に、一気に話した。緑翠に運ばれている間、どう伝えようか考えていたのだろう。
緑翠が後悔する間もなく、身体の落ち着かない翠月が、敷物の隣で胡坐をかく緑翠の着物を引いてくる。その力に従って近づけた緑翠の頬に、翠月が口を押しつける。耳元で「おねがい」と言われてしまえば、緑翠は煽られ、応える選択肢しか取り得ない。
「…とりあえず、散らす」
「うん」
帯に手を掛け、翠月の着物を剥いでしまう。治らなければ瑠璃を呼ぶことになるだろうが、あまりやりたくはない。忠告は受けていたのだ。守れなかったことを、外部に知られたくない。
おそらく、翠月も見世が終わっていないことは把握している。それでも、身体が刺激を求めて仕方ないのだろう。
緑翠の指だけでは足りない翠月の手が、着物の上から竿を擦ってくる。熱く欲情した翠月からの攻めに、勃たないわけがない。
「欲しい…」
「翠」
(薬とは、ここまで…)
今のところ、狙われたのは翠月だけだ。好まない御客から無理に迫られたとなれば、他の芸者についても緑翠の耳に入ることになる。見世が終わっていない今はまだ、翠月だけに構うことも難しいが、黎明が状況を見ていた。宮番は複数いて、楼主代理の朧や小望もいる。緑翠にとって、相手となる女は翠月しかいない。
緑翠は、滾って上を向いた自らの竿を取り出し、着物は肩に羽織ったまま、急いてくる翠月に突き刺した。
*
朝の仕事を行うために、着替えて書斎へ向かった。春霖・秋霖が運んだ食事を摂りながら、朧、あるいは小望が用意した帳簿で、今夜の予約客を確認する。
(柘榴が来るのか…)
予約見世を、深碧館都合で変更するのはできる限り避けたい。後々、どのような言いがかりをつけられるか分からないからだ。柘榴が何か嫌がらせをしてくるような妖ではないのも理解しているが、あまり借りを作りたい相手でもない。
(翠月なら、出ると言うだろうな)
一息吐きつつ帳簿を閉じ、寝間に戻ると、翠月が身体を起こすところだった。足に布団を掛けたままの翠月の隣に、普段と同じ近さで腰を下ろしながら声を掛ける。
「翠、気分はどうだ」
「ん…、まだちょっとふわふわする」
「ふわふわ?」
(っ……)
その表情を見なければよかったと、後悔しても遅い。翠月の言う《ふわふわ》とは、目の焦点が合わず呆けてしまうことなのだろう。昨夜よりは落ち着いて見えるものの、寝起きなのも相まって、緑翠が反応するには十分だった。
目を擦っている翠月を、腕の中に収めてしまう。昨日に比べれば身体の火照りはなく、夜までには普段に近い体調に戻るだろう。翠月の額に口寄せすると、緑翠の動悸が少し落ち着いた。
「身体は辛いよな? 痛いところは?」
「いつも通り」
「ここか」
「うん」
翠月の腹の下の方を、そっと撫でてやる。薬を勧めることもあるが、身体を起こせる程度の痛みなら翠月は断ってくる。
「何か、話があったんじゃないの?」
「…よく分かったな」
「朝からここにいることなんて…」
「昨日の今日だから、話すことがなくても様子を見には来た」
予約見世があるなど、今の翠月には言いたくない。分かっていても、辞められない。翠月に無理をさせるのは、いつも緑翠だ。
「今日、柘榴との見世がある」
「かしこまりました、楼主さま」
「翠月」
「分かってる、それに柘榴さまなら倫理を守られるし」
振り向いた翠月が、緑翠の頭を細い腕で包んだ。緑翠が、匂いを確かめるように大きく息を吸い込んだのも、翠月には感じ取れるだろう。力を緩められ顔を上げると、そこには見世に向けて、芸者の志を持った翠色の瞳があった。
「…何かあれば、すぐに」
「うん、いつも通りだね」
緑翠が翠月を、もう一度だけ抱き締める。身体が離れ、緑翠の目に映ったのは、にこやかに笑って寝間を出ていく内儀の姿だった。
*****
黄檗の間に入ると、すでに梓が準備を始めてくれていた。梓にはこの座敷は自分しか使わない場所だし、朝の掃除から手伝うと言ってある。黄玉宮の三番手がすることではないと分かってはいるものの、星羅も淡雪も黎明も、翠月らしいからと許してくれている。
「…翠月さま、今日は頬紅をつけていらっしゃいます?」
「ううん、何も。でもそう見える?」
「はい、昨日の…?」
翠月付きの世話係が、梓だ。当然、昨日の見世にも同席している。
「たぶんね。何かあったら、今日も緑翠さまを呼んでもらうことになる。柘榴さまだし、大丈夫だと思うけど」
「かしこまりました。見世の間も側にいますからね」
「ありがとう」
*
「柘榴さま、お待ちしておりました」
「うん、まずは一杯、付き合ってくれるかな」
「かしこまりました」
互いにすっかり慣れ、簡単になった挨拶の後、腰を下ろした柘榴に酒を注ぐ。柘榴は翠月の舞や楽も好んでいるが、食事をしつつ話すことも多くなった。その分、心付けの着物が増々翠月好みの物になる。梓が翠月の分の果実水を用意し、受け取った翠月は、柘榴に向けて杯を上げ、促されるままに一口啜った。
「今日は一段と色っぽく見えるね」
「ありがとうございます」
「この状態の貴女を、緑翠さまはお許しに?」
(もう、気付かれている…?)
まだ、座敷に入って数分である。柘榴はまだ、杯に口をつけてすらいない。
「柘榴さまには、前々からお引き立ていただいていますので。お心付けもたくさんくださいますし」
「つまり、断れない客だと」
柘榴は一度、ゆっくりと視線を下げた。頭の先からつま先まで、正座した翠月を見た後、柔らかい声が響く。
「世話係さん、緑翠さまを」
「かしこまりました」
梓が座敷を出て行った後、柘榴の笑顔が翠月に向けられたが、その目はいつもより、ほんの少し悲し気に見えた。
「翠月、楽に、姿勢を崩していいよ。座っているのは辛くないかい?」
この短時間で、一体何を感じ取ったのだろう。妖力を使われたわけでもなく、翠月はすぐに言葉を返せなかった。
「…はい、お心遣いをありがとうございます」
「それが言えるほど、頭ははっきりしてるんだね」
「柘榴さま…?」
「君はニンゲンでありながら、最高位貴族・皇家当主の奥方だ。最高級の廓・深碧館楼主の内儀。狙われるのも分かっていたんだけど、間に合わなくてごめんね」
「え?」
「…失礼いたします。お待たせしました、緑翠でございます」
「どうぞ、中へ」
翠月は混乱したまま、緑翠のために席を用意した。緑翠が、翠月の隣、柘榴の対面に座った。
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