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第二篇
2.楼主と内儀の仕事 2
しおりを挟む「公にしてからずっと言っているが…、翠は内儀だ。見世の頻度も内容も、もっと制限したっていい。何かあったら、すぐ俺を呼べ」
「うん」
寝間でふたりきり、緑翠が見回りを早々に終わらせて戻って来る日には、翠月は構えるようになっていた。話し終えると緑翠が口を寄せ、身体を暴いてくるから。
今日の見世は、酒を煽った御客が翠月に触れてしまい、黄玉宮から早々に引き上げることになった。翠月は、御客が青ざめていくのを見て、体調不良で中座することになったと治めようとしたが、そうはいかなかった。
床以外で芸者に触れることが倫理に反するのは、何度も深碧館に来ていた今日の御客ももちろん分かっているから、みるみる顔が青くなった。故意ではないし、御客の手が当たったのは腕だった。押し倒されたわけでもない。翠月から直接、黎明に伝えはしなかったが、世話係の梓にとっては違った。御客の無礼として、黎明に報告した。それを聞いた緑翠が、こうして叱ってくれる。
今日の御客に、見世をすることはもうない。緑翠の耳に入ってしまえば、出禁になる。伝手でしか入れない深碧館の売上が、常連が、減る。翠月は、自分だけが我慢すればいいと思ってしまいがちだが、それでは他の芸者にも許されると思い込んだ御客が増えて倫理が崩壊すると、天月や星羅にも教えられた。咄嗟の行動に、まだまだ考えの至らなさが出てしまう。
翠月が床見世に出たいと思うようになってから、数ヶ月しか経っていないが、それより前からずっと緑翠に守られていた。それは、緑翠が翠月を内儀にしたかったからだと分かったし、緑翠に守られているのは心地よかった。
翠月が呑気で幼くて、危機感を持たないせいで緑翠が安心できないのも、頭では理解しているが、黄玉宮の三番手に見合う行動はまだできていない。妖力に当たって、辛い思いもしたのに、だ。
身体の小さい翠月にとって、御客との距離は近くなりがちで、他の芸者よりも寄らなければ酒を注ぐことすらできない。床見世には応じない。でも、それ以外は断れない。芸者として、黄玉宮の三番手の座を、誰にも渡したくない。いくら、緑翠が内儀の見世を減らそうとしても、翠月は芸者でいることが楽しかった。
緑翠が着物を脱げば絶対に目に入るのが、首から下がる緑翠石だ。紐に留められた石は、普段は着物の中に隠されている。内儀だから、共寝をするから、翠月は見られる物で、他の妖が見ることは滅多にない。最高位貴族であるこの妖がいれば、ニンゲンの翠月もこの世界でも生きていける。
(向こうの世界で、私に近づいてくれる人はいなかった。何があっても、この妖は傍に居てくれる)
「…緑翠さま」
「ん」
すでに露わになった翠月の上半身に口を寄せ、曰く赤い花を咲かせている緑翠に、尋ねた。
「今まで、こういう関係になった方は?」
「いない。翠が初めてだ」
即答された。緑翠に、翠月の意図が分からないわけではないと思う。廓の楼主として毎晩見回りもしているし、女の身体を見ることに慣れているのは間違いない。内儀になったとは言え、翠月はこちらの世界に来て一年も経っていない。十も年齢の離れた緑翠について、まだまだ知らないこともたくさんあるはず。
「……ここを継いですぐの頃は、芸者が何人も言い寄ってきて、俺も強く言い返せなかった。流された時期があったのは認める。だが、その芸者たちは地下にいて、もうこの世にいない者も多い。上階に出てくることはない。心まで絆されたのは翠だけだ」
緑翠が、じっと翠月の目を見て応えてくれた。何かをしっかりと受け取らないといけない時の合図だ。嘘を言っていないと、伝えたいのだろう。
頬に触れて口を寄せてもらうと、そのまま息も吸えないほど口内を攻められた。
*****
(例外は、姉さまだな…)
おそらく、血縁は翠月のいう女の数には入らないだろう。姉とは、関係性が特殊だったのもあって、血縁だったが血縁ではないような感覚もある。親や兄弟との口寄せには、嫌悪感が生まれて当然なはずだが、姉とはむしろあたたかかった。
乱れていない布団に身を寄せ合い、腹の上で拍子を取ってやりながら、翠月が眠りに落ちるのを待つ。緑翠はこの穏やかな時を気に入ってはいるのだが、共寝の最中に欲の折り合いがつかず、この瞬間にありつけることは少ない。十も下の翠月に煽られ、気を失うまで突いてしまうことが大半だった。
今日の翠月には少々苛立っていたこともあって、緑翠自身にあまり元気がなかった。腹が立つのに任せて乱暴に抱くような真似はしない。そもそも、できなかった。見世が早く終わって、翠月に体力が残っていたのもあるだろうか。達しはしたが、普段の比ではない。
あれほど「妖には気をつけろ」と伝えているのに、触れられてしまうなど、楼主としても見逃せない。だが、このしっかりしているように見えて抜けたところも愛おしいと思えてしまうほど、緑翠は翠月に堕ちている。妖力の受け渡しができることに、あたたかさを感じている。自覚すればするほど、そんな翠月を丸ごと守ってやりたい。
初めに一目見た折から、そう思っていたのかもしれない。翠月が他の宮で暮らす選択は、その頃からなかったに近い。
やはり、そこまで疲れていないのだろう。翠月が目を瞑る様子がないから、話しかけた。
「……初めて翠月を視た時、何か悩んでいるようだった」
「向こうで?」
「そうだ、御神木に寄りかかっていた。心を視たことに、気付いていたのか」
「気付いてはなかったかな。なんとなくそう思っただけ。辛かったのは覚えてる」
「何が辛かった?」
翠月は、緑翠の妖力には当たらない。妖力以外で、あの時に辛かったことがあったのは明らかだった。心の揺れを感じても、何に対して揺れているのかまでは、話してもらわないと分からない。
すぐに、答えを聞くことはできなかった。出会った頃から変わらず、自らの考えを言葉にするのが苦手なのだ。緑翠はそれに関して、何か物を言える立場にない。緑翠とて、同じである。
「……ひとりで、どう生きていくか」
「その歳で?」
「大きな節目だったから。緑翠さまも、考えたことあるでしょ」
「まあ……」
緑翠がそれを考えたのは、今の翠月と同じくらいの年の頃か。深碧館を継ぐことになり、周囲が急に騒がしくなって、緑翠が屋敷の外へ興味を向けることを許された時期だ。
「今も、考えるか?」
「ううん。今はもう、自分がどう生きたいか、はっきりしてる」
「そうか」
それを聞いた緑翠は、引き続き拍子を取りながら目を閉じた。明確に言葉に出されたわけではないが、自らの傍に居ることを翠月が選んだのだと、安堵した。はっと目覚めた時、外は既に明るくなり始めており、昨晩は翠月の寝顔を見ていないことに気が付いた。
(……気の緩みは深碧館の揺れに繋がる。月白に、また文句を言われる)
翠月が見世で御客に触れられてしまった後の寝間にしては、緑翠も緊張が解けていた。
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