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第一篇
76.先々代の来訪
しおりを挟むやたらと気が立っているのを自覚し、緑翠は自らと向き合った。今までにない、心のざわつき方だ。翠月に関わることではなく、より攻撃的な、緑翠にとって敵となる妖力だ。何をするためかは分からないが、何か行動してくるのは間違いない。もうじき見世が始まってしまう。準備のために番台にいた朧に声を掛ける。
「朧、先々代が来る」
「それは…!」
「間違いなく、牽制をかけることになる。翠月は大丈夫だろうが、天月を」
「宵に伝えて参ります」
「ああ」
段々と強まる先々代の妖力を感じられるのは、印を打った緑翠だけだ。その落ち着きの無さに、朧が目線で訴えてくるのも分かるが、深碧館に近づいて欲しくない。ここには、翠月と天月がいる。皇家の好む、こちらの世界で生活できるニンゲンがふたりもいるのだ。
*
「ほうほう、久しぶりだ、我が深碧館」
「ごきげんよう、当主さま」
「出迎え御苦労。だが御前に用はない。混血めが」
緑翠が妖力を放った一瞬で、全員が凍ったように動けなくなった。深碧館全体に、張り詰めた緑翠の妖力が伝わり、その強力さに誰も何も発せなかっただろう。大量に妖力を使ったわけではないが、働き手に平民が多い深碧館では、立っていられない者も出ているかもしれない。
緑翠が混血であることは瓦版にも載っていない。妾の子であるだけでも騒ぎになることは想像に難くない。今、この場さえ抑えれば、それ以上大きくなる事はないだろう。噂として口にするには、あまりに最高位貴族を侮辱している。
祖父の心臓に手を当てる。耳元で、感情を殺した普段通りの声を心がける。
「先日、僕がしたことをお忘れで?」
「うっ…」
印に掛ける妖力を強めると祖父が膝をつくが、従者は緑翠の妖力を前に動けない。祖父の心臓の動きが鈍っていく。
深碧館の番台は、目立つ場所だ。ここで事切れられると面倒になる。先々代の関係者を全員、妖力による拘束を行ったまま地下へと下ろした。
(……生きたまま、野焼きしてもいいだろうか)
あまりに残虐が過ぎる頭に、首を振りながら一息吐いた。
妖力に気付いて姿を見せた月白と烏夜に、一旦先々代とその部下を任せる。ふたりは戸惑っていたが、さすがは黒系宮の宮番、すぐに緑翠の意図に気付いて動いた。緑翠の妖力による拘束は解かれない。解こうとしても、上掛けできる緑翠よりも強い妖力は、夜光しか持ち得ない。
*
緑翠が上階へ戻ると、誰も動けておらず、固まったままだった。番台の先に踏み入れられず、何が起こっているのかと騒ぐ御客の中に、柘榴がいた。上手く、情報を流してもらおうと、目を故意に合わせた。
(商売相手で扇家。悪事を働くこともできるだろうが、柘榴にその意思があるとは思えない)
「皆、今の出来事は他言無用。僕の妖力を浴びているなら、その意味もお分かりになるでしょう」
皇家は、貴族最高位だ。その継承が、こんな形で進むなんて、本来あり得ない。その場に立ち会ってしまった者の処遇は、黒曜宮送りどころではなく、夜光の判断となる。つまり、口外すれば、夜光から処罰が下る。
皇としての判断は、緑翠が握っている。父である先代、祖父である先々代の深碧館は、緑翠が継いだ十年前に終わっている。番台を普段通りの朧に任せ、地下の様子を見に戻った。
*
「ああ、やっと戻って来られましたか」
「緑翠さまの妖力に、抵抗していますよ」
「そんなに死にたいか」
「っ……」
主に暴れていたのは側近だったが、先々代の印の妖力を強めた。もうそれ以上、血液を全身に届けることはできない。徐々に力が入らなくなり、完全に脱力する頃には息絶えている。次の指示を出すまでに、時間はかからなかった。
「月白、火葬を頼めるか」
「かしこまりました」
月白が樽の用意もせず、すぐに妖力で浮かせ運んで行った。これから緑翠が行う、残された部下への服従の印には、烏夜が立ち会う。
「お前たちには、今日のところは印を打つだけに留める。妙な真似はするなと言ったはずだ」
「……」
番台前や正面の橋には皇家の馭者が居るはずだ。連れ帰ってもらわなければ困るのは、緑翠の方だ。見世ももう始まる頃で、手早く片付ける必要がある。側近全員の心臓を一気に握った。
「いいか、こう公表しろ。『体調を崩した先々代は、最後に一目、深碧館を見て、そのまま亡くなった』と。誰にも真実を漏らすな。前も言ったが、正式に俺が皇家を動かす」
「…かしこまりました、当主さま」
「…緑翠さま」
「ああ、終わったか。ご苦労」
印を打つのに掛かった時間は長くない。それでも、月白が遺骨を壷に入れて戻ってきた。普段より妖力を使って迅速に火葬したのが、その髪の乱れ具合からも分かる。
「これを、皇家の社の最前に置いておけ」
「…かしこまりました」
当主であった者の壷を、墓の手前に置くなど、常識ではあり得ない。それは緑翠も知った上で、命じた。
*
番台から皇家の側近たちを見送る。表向き、御客などには事件を悟られないように、緑翠は側近たちに頭を下げたし、壷は前に抱えず横に吊らせた。先々代に仕えていた者には相当屈辱の仕打ちであることは確かだが、それも緑翠への当てつけが生んだものだ。緑翠が非情になるのは、皇家関連のみで、これも、翠月を守るために必要なことだと思えてしまう。
緑翠の妖力に影響を受けてしまった働き手は、それぞれの寝間で休んでいるらしい。朧や宮番が、上手く立ち回ってくれた。
「朧」
「はい、緑翠さま」
「あの近侍を、こちらへ連れて来れるだろうか」
「連絡を、試みましょう。私が直接便りを届けて来ます」
「頼んだ」
おそらく御客も含め、深碧館全体が動揺しているだろう。緑翠の心の揺れは収まったし、これ以上何も起こらないことを祈るばかりだ。
楼主代理の朧と宮番たちで回すには、少々深碧館が大きくなりすぎたようにも思う。これを機に、管理側の妖を増やすことも考えていかなければならない。分かりやすく適任なのは、やはりあの近侍だ。朧もまだ現役ではあるが、いつかは引退することを考慮しておく必要はある。
*
上階での番台で、楼主として数名の御客と顔を合わせた後、地下へ降りた。急に印の証となって立ち会うことになった烏夜よりも、火葬を行った月白の方が疲れているだろう。階段側にある月白の書斎に入ると、すでにふたりは茶を啜っていた。
「終わりましたか」
「ああ。驚かせてすまない」
「いえ、緑翠さまが妖力を使われて、何か事が起こったのは分かりましたから」
月白の乱れていた髪は整え直されているが、それでも顔は青白い。
「体調は?」
「久々大量に消費しましたが、問題ありません」
「そうか」
月白へ確認をして、茶を運んできた烏夜に礼を言う。おそらく、聞きたいことがあるのは烏夜の方だろう。
「あれが、噂に聞く先々代ですね?」
「そうだ。俺の祖父に当たる」
「緑翠さまの領域に、あんなに敬意なく踏み込む方を初めて見ました」
「だろうな。俺に対しては、皇家は分家も含め皆ああいう態度を取る。今日連れて来ていた従者には印を打ったし、もう俺の手中だがな」
「もう当主とお呼びしても?」
「あの側近たちが正しく公表した後からなら、そう呼んでも構わない。服従の印には誰も逆らえないし、喪が明ける頃に、全て明らかになるだろう」
「それであれば、安心です」
そう言った烏夜の目を、疲れた表情の月白が意味ありげに見ている。そう簡単に事が進むだろうかと、緑翠も思った。
*
見世前に、宮番を全員稽古場に集めた。昨夜の見回りの後、他の働き手や芸者たちには稽古場から離れておくよう伝えているはずで、念のために朧が襖の外に居る。今から宮番にする話の全てを、朧は既に知っている。
皇家の継承について、目の前にいる妖たちには話しておかなければならない。
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