妖からの守り方

垣崎 奏

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第一篇

65.翠月の夢見 1

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 深碧館の楼主・緑翠が、こんなにも長い期間、翠玉宮を空けることはなかった。例祭の一日はまだ、朧がいたから落ち着いていられたが、今回はその朧もいない。翠玉宮には、春霖・秋霖の侍女たちしかいない。翠月は、寝間から出られなくなった。

 黄玉宮での見世に出ないのは緑翠と約束したことで、もちろん守っている。緑翠も朧もいない事実が、翠月の不安を煽っていた。春霖・秋霖が「帰ってこないことはあり得ません」と言うが、そういう問題ではない。帰ってくることは分かっている。今ここに、守ってくれる緑翠がいないから、どこに出るのも気が進まないのだ。襖向こうの広間ですら、出るのが億劫になった。

 緑翠が深碧館にいないこの期間、翠月は妖力に当たるわけにはいかない。同じ人間でも宵と時間を過ごせる天月とは違って、翠月を助けてくれる妖がいない。できる限り、どんな妖とも顔を合わせないのが絶対に良い。

 翠玉宮の寝間は、緑翠の結界が二重に張られていて、感じられないにしても翠月にとって一番安心できる場所だった。天月も蒼玉宮から出ないように言われているはずで、手紙を侍女たちが届けてくれたが、返事を書く気分にはなれなかった。寝間に持ち込んだ丸台で、布団に隠れるように組紐を組んで、緑翠のいない長い長い時間を過ごした。


 *


 ひとりで眠りにつくと、妖力に当てられた時に見ていた夢が蘇り、涙を流しながら目を覚ます。静かに起き上がり、大きく息を吸う。

(……あれは、一体誰の、何の記憶なの)

 楽しそうに笑いながら走って銀髪をなびかせる男の子と、一緒に楽しむ自分がいる。次の瞬間に状況は一転し、燃える建物の中で逃げられず苦しみ、藻掻きたくても身体が動かない。一瞬目が合った同じ男の子は、見た事のある緑色の瞳を持っていた。

 今は妖力に当てられていないのに、その鮮明な夢のせいで、まとまった睡眠を取るのが難しかった。昼間にも横になり、春霖・秋霖はかなり心配そうに盆を運んでくる。侍女たちは以前看病してくれた時のように、翠月が寝落ちるまで付き添おうとしてくれるが、「今回はそこまで指示されていないでしょ」と、断り続けた。

 夢で出てくる男の子に見覚えがある。話をするなら緑翠しかいない。翠月と毎日顔を合わせる春霖・秋霖には、夢のことを話せなかった。


 *****


 翠玉宮に戻ったのは夜で、見世と重なってしまい裏道を回った分、時間がかかった。翠玉宮と外を繋ぐ戸が開いたことに気付いた侍女たちが出迎えてくれるが、何やら様子がおかしい。焦っているふたりから話を聞くと、翠月が昼間でも寝間から出てこないという。確かに、「翠玉宮から出ないで欲しい」とは頼んで実家へ向かったが、広間や露台へ出ることまで禁じた覚えはない。

 翠月は、こちらの世界に渡って来た当初と比べ、それなりに侍女たちを頼るようになっていたはずだ。春霖・秋霖に話せないような、余程の事があったのだろう。結界に変化がないことを確かめつつ、そのまま妖力で翠月を探りながら梯子を上り、寝間の襖を開ける。

「ん…?」
「悪い、起こしたな…」

 心が、翠月にしては揺れている。それを感じ取ってしまった以上、一度しっかりと表情を見ておきたかった。侍女たちに伝えられなかったことでも、緑翠には話してくれるという自負がある。体を起こした翠月の涙の跡を触れて消し、引き寄せてやる。布団に入っていたはずだが、身体が冷たい。

「…戻られたのですね」
「ああ」

 行燈の淡い灯でも分かるほどに、顔色が悪い。布団で休んでいたとは思えない。緑翠がいない間、深く眠ることができていなかったのは、想像に難くない。翠玉宮の結界には変化がない。一体、何が翠月を惑わせたのか。

 抱き締めているのをいいことに、額に口を寄せた。あたたかい感覚が伝い広がるのを緑翠は感じるが、翠月はどうだろう。

 話させるよりも先に、休ませる方がいいと思った。穏やかに目を閉じた翠月に拍子を取ってやると、少し浅い気もするが整った呼吸が聞こえてくる。相当眠っていなかったのだろう、どこで何をしていたのか、聞かれもしなかった。しばらく寝息を聞いて翠月を布団に戻し、狐を出してからそっと離れた。


 楼主として見世終わりの廓を見回ったが、宮番には翠月の調子が悪いことは知られているようで、皆に早く戻るように促された。特に宵は、天月が手紙を書いても返事を受け取れず、翠月の様子を心配していた。深碧館を空けた分、報告も受けたかったが、宮番は誰も何も話そうとしない。今日中に一度、朧とは話すように伝え、翠玉宮に戻った。

 さっと風呂に入り、再び翠月に寄り添う。先程よりは息も深くなり、表情に苦しさもない。緑翠が知っている、翠月の寝顔に近づいた。

 翠月に対して決心のついた緑翠は、楼主としての仕事と翠月への感情を切り離すことが、思った以上に容易だと感じていることに驚いた。今までであれば、心ここに非ずといった様子で、宮番に促されずとも、軽く見回りを終えて翠月の元に戻っていただろう。

(翠月に何があったのかは気になる。だが、こうして何もせず眺めている時間が、こんなにも心地いいとは……)
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