66 / 117
第一篇
65.翠月の夢見 1
しおりを挟む深碧館の楼主・緑翠が、こんなにも長い期間、翠玉宮を空けることはなかった。例祭の一日はまだ、朧がいたから落ち着いていられたが、今回はその朧もいない。翠玉宮には、春霖・秋霖の侍女たちしかいない。翠月は、寝間から出られなくなった。
黄玉宮での見世に出ないのは緑翠と約束したことで、もちろん守っている。緑翠も朧もいない事実が、翠月の不安を煽っていた。春霖・秋霖が「帰ってこないことはあり得ません」と言うが、そういう問題ではない。帰ってくることは分かっている。今ここに、守ってくれる緑翠がいないから、どこに出るのも気が進まないのだ。襖向こうの広間ですら、出るのが億劫になった。
緑翠が深碧館にいないこの期間、翠月は妖力に当たるわけにはいかない。同じ人間でも宵と時間を過ごせる天月とは違って、翠月を助けてくれる妖がいない。できる限り、どんな妖とも顔を合わせないのが絶対に良い。
翠玉宮の寝間は、緑翠の結界が二重に張られていて、感じられないにしても翠月にとって一番安心できる場所だった。天月も蒼玉宮から出ないように言われているはずで、手紙を侍女たちが届けてくれたが、返事を書く気分にはなれなかった。寝間に持ち込んだ丸台で、布団に隠れるように組紐を組んで、緑翠のいない長い長い時間を過ごした。
*
ひとりで眠りにつくと、妖力に当てられた時に見ていた夢が蘇り、涙を流しながら目を覚ます。静かに起き上がり、大きく息を吸う。
(……あれは、一体誰の、何の記憶なの)
楽しそうに笑いながら走って銀髪をなびかせる男の子と、一緒に楽しむ自分がいる。次の瞬間に状況は一転し、燃える建物の中で逃げられず苦しみ、藻掻きたくても身体が動かない。一瞬目が合った同じ男の子は、見た事のある緑色の瞳を持っていた。
今は妖力に当てられていないのに、その鮮明な夢のせいで、まとまった睡眠を取るのが難しかった。昼間にも横になり、春霖・秋霖はかなり心配そうに盆を運んでくる。侍女たちは以前看病してくれた時のように、翠月が寝落ちるまで付き添おうとしてくれるが、「今回はそこまで指示されていないでしょ」と、断り続けた。
夢で出てくる男の子に見覚えがある。話をするなら緑翠しかいない。翠月と毎日顔を合わせる春霖・秋霖には、夢のことを話せなかった。
*****
翠玉宮に戻ったのは夜で、見世と重なってしまい裏道を回った分、時間がかかった。翠玉宮と外を繋ぐ戸が開いたことに気付いた侍女たちが出迎えてくれるが、何やら様子がおかしい。焦っているふたりから話を聞くと、翠月が昼間でも寝間から出てこないという。確かに、「翠玉宮から出ないで欲しい」とは頼んで実家へ向かったが、広間や露台へ出ることまで禁じた覚えはない。
翠月は、こちらの世界に渡って来た当初と比べ、それなりに侍女たちを頼るようになっていたはずだ。春霖・秋霖に話せないような、余程の事があったのだろう。結界に変化がないことを確かめつつ、そのまま妖力で翠月を探りながら梯子を上り、寝間の襖を開ける。
「ん…?」
「悪い、起こしたな…」
心が、翠月にしては揺れている。それを感じ取ってしまった以上、一度しっかりと表情を見ておきたかった。侍女たちに伝えられなかったことでも、緑翠には話してくれるという自負がある。体を起こした翠月の涙の跡を触れて消し、引き寄せてやる。布団に入っていたはずだが、身体が冷たい。
「…戻られたのですね」
「ああ」
行燈の淡い灯でも分かるほどに、顔色が悪い。布団で休んでいたとは思えない。緑翠がいない間、深く眠ることができていなかったのは、想像に難くない。翠玉宮の結界には変化がない。一体、何が翠月を惑わせたのか。
抱き締めているのをいいことに、額に口を寄せた。あたたかい感覚が伝い広がるのを緑翠は感じるが、翠月はどうだろう。
話させるよりも先に、休ませる方がいいと思った。穏やかに目を閉じた翠月に拍子を取ってやると、少し浅い気もするが整った呼吸が聞こえてくる。相当眠っていなかったのだろう、どこで何をしていたのか、聞かれもしなかった。しばらく寝息を聞いて翠月を布団に戻し、狐を出してからそっと離れた。
楼主として見世終わりの廓を見回ったが、宮番には翠月の調子が悪いことは知られているようで、皆に早く戻るように促された。特に宵は、天月が手紙を書いても返事を受け取れず、翠月の様子を心配していた。深碧館を空けた分、報告も受けたかったが、宮番は誰も何も話そうとしない。今日中に一度、朧とは話すように伝え、翠玉宮に戻った。
さっと風呂に入り、再び翠月に寄り添う。先程よりは息も深くなり、表情に苦しさもない。緑翠が知っている、翠月の寝顔に近づいた。
翠月に対して決心のついた緑翠は、楼主としての仕事と翠月への感情を切り離すことが、思った以上に容易だと感じていることに驚いた。今までであれば、心ここに非ずといった様子で、宮番に促されずとも、軽く見回りを終えて翠月の元に戻っていただろう。
(翠月に何があったのかは気になる。だが、こうして何もせず眺めている時間が、こんなにも心地いいとは……)
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
とある高校の淫らで背徳的な日常
神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。
クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。
後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。
ノクターンとかにもある
お気に入りをしてくれると喜ぶ。
感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。
してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。
今日の授業は保健体育
にのみや朱乃
恋愛
(性的描写あり)
僕は家庭教師として、高校三年生のユキの家に行った。
その日はちょうどユキ以外には誰もいなかった。
ユキは勉強したくない、科目を変えようと言う。ユキが提案した科目とは。
〈社会人百合〉アキとハル
みなはらつかさ
恋愛
女の子拾いました――。
ある朝起きたら、隣にネイキッドな女の子が寝ていた!?
主人公・紅(くれない)アキは、どういったことかと問いただすと、酔っ払った勢いで、彼女・葵(あおい)ハルと一夜をともにしたらしい。
しかも、ハルは失踪中の大企業令嬢で……?
絵:Novel AI
ブラック企業を退職したら、極上マッサージに蕩ける日々が待ってました。
イセヤ レキ
恋愛
ブラック企業に勤める赤羽(あかばね)陽葵(ひまり)は、ある夜、退職を決意する。
きっかけは、雑居ビルのとあるマッサージ店。
そのマッサージ店の恰幅が良く朗らかな女性オーナーに新たな職場を紹介されるが、そこには無口で無表情な男の店長がいて……?
※ストーリー構成上、導入部だけシリアスです。
※他サイトにも掲載しています。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる