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第一篇
60.緑翠の姉 1
しおりを挟む「緑翠さま、少しお時間を頂いても?」
「…ああ」
朧が、わざわざ緑翠の書斎に上がってきた。緑翠は、翠月がくれた組紐を巻き直しているところだった。普段、緑翠が装飾を気にすることは滅多になく、朧とはいえ見られたくない場面だ。
見世の準備にはまだ早い。何か急ぎの用件がある場合を除いて、緑翠から話しかけることばかりだ。朧が見世の時間以外で上階の書斎に来て話しかけてくることはほぼないため、油断していた。
「ご実家より、お便りが」
「……」
「そのような目をされても、読まないわけにはいきませんよ」
「…分かっている」
おそらく、翠月と天月が下町に降りてしまったあの騒ぎが、皇家の耳に入ったのだろう。何か連絡があるかもしれないとは思っていたが、音沙汰ないことを願っていた。
深碧館で守っているニンゲンが、ふたりもいる。それが、実家にも知られてしまった。天月はこちらの世界に来てからはそろそろ一年が経つだろうか。それだけの長期間、生活できているニンゲンが居ると分かれば、奴隷として屋敷に連れ帰って来いと言われても、あの一族なら不思議ではない。
皇家の現当主である緑翠の祖父は、黒系宮で生活できていたニンゲンを、父への代替わりの折に屋敷へ連れ帰ったらしい。皇家は最高位貴族で、度を越えても許されてしまうことも多い。
楼主が倫理を厳格に守れなくてどうするのかと思うが、翠月に関しては楼主以上の感情があることも認めざるを得ない。最近の緑翠の心は、小さな揺れを繰り返していた。
封を開け、手紙の内容を確認する。普段のように、ニンゲンについては触れず、実家に報告することはないと返すだけだと、この時は甘く見ていた。
「は……」
「いかがされましたか」
思わず出てしまった緑翠らしくない声に、朧が寄ってくる。
「姉さまの、先がもうないらしい。最後に俺に会うことを望んでいると」
「それは……」
普段なら間違いなく、実家の屋敷に緑翠が出向くことはないが、今回は事だ。文面が真実なら、姉に会える、最後の機会になるだろう。
「…日帰りは無理だろうな」
「いざ戻るとなると、他にも雑務を押し付けられるでしょうね」
その煩わしさを考慮しても、帰るべきだろう。姉とは、会う許可がずっと降りなかった。緑翠から歩み寄ることすら、諦めていた。内容を素直に受け取るなら、姉が緑翠に会おうとしている。それを無碍にはできない。
手紙を信じるかどうか、内容の真偽を考える意味はない。騙されていたとしても、皇家の中に緑翠の妖力に敵う者はいない。いざとなれば、どうとでも動かすことができる。
「…顔を見せると、返事を頼む。深碧館のことは、少し考える」
「承知いたしました」
朧が緑翠の書斎から出て、ひとりに戻った。無意識に伸びた手が取ったのは、姉の写真が挟んである日記だ。幼い頃の緑翠と共に、姉である翡翠が一緒に写っている。翠月がこちらの世界に来てから、見る回数の増えたこの一枚を何度見ても、改めて思う。当然だが、翠月と翡翠は名前こそ同じでも、全く異なる。似ているのは、その瞳の色だけだ。
実家に戻るとなると、何泊することになるのだろうか。朧を伴って、数日は深碧館を空ける必要がある。例祭以外で深碧館を閉めてしまうと、何か事があったと御客に公言するようなものだ。緑翠が深碧館にいないことを紅玉宮の芸者に知られても、騒ぎになるだろう。ニンゲンふたりは非番にして、それぞれの宮の芸者が顔を合わせないよう、宮番に任せるしかない。
*
翠月には翠玉宮から出ないように、天月にも宵の傍、蒼玉宮から離れないように伝えておく。緑翠がいない見世のある日には、宮を出ないことが一番無難で安心できることを、ふたりも分かっている。
今回は朧も外出するため、天月は宵と近い方が安全だ。翠月はひとりになってしまうが、おそらく春霖・秋霖ができるだけ時間を割いてくれるだろう。
早朝、まだ妖が誰も動いていない頃に、朧と共に馬車で翠玉宮から実家に向かって出発した。長期間帰っておらず、実家までの路を緑翠が覚えているわけもなく、馭者に任せた。声の漏れる籠の中では、朧と話すことも特にない。緑翠が小窓から外を見ながら考えていたことは、自らの立場と姉との関係だ。
緑翠が実家を嫌がるのは、緑翠自身が、幼い頃から虐げられてきたからだ。それに加えて、正妻の子で純血の姉、翡翠との一件で、余計に皇家の妖と顔を合わせなくなった。唯一自発的に関わり、仲が良かった姉とも引き離され、今回の訪問で本当に対面できるなら、幼少期以来の十八年振りになる。
望んでも、緑翠の出生では何もできない。失うくらいなら、元から遠ざければいい。そう考えるようになってどれくらいが経つだろうか。自らの感情には鈍い振りをしながら過ごしてきた。覆すように自発的に近づいたのは、例外対象のニンゲンだけだ。
皇家の後継となれるはずの純血の親族に、緑翠ほどの妖力を持つ者がいなかった。妾の子である事実を緑翠からは公言しないことを条件に、十年前に深碧館の楼主の座を継いだ。その出来事が、夜光や高位貴族たちが緑翠を皇家の後継とみなす根拠だ。
(皇としては、そうするしかなかったはずだが…)
ずっと隠されてきたにも関わらず、急に表に立たされた。反感を持つ者がいることも承知している。何か裏があることは平民にも勘づけただろうし、事実ではない噂が流れたのも知っている。あの代替わりがなければ、深碧館がここまで立ち直るきっかけもなかったかもしれない。
ここまで皇家との関係がこじれたのは、関わろうとして来なかった緑翠のせいでもあることは、自覚もあった。手紙での近況報告にはろくな内容を書かず、距離を取ろうとしてきた。「深碧館の運営に注力する」とは上辺の言い訳で、純血を第一に考える実家とは、どうやっても分かり合えないと、姉との一件があってからは増々強く思うようになっていた。
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