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第一篇
57.翡翠の簪
しおりを挟む見世の直前に蒼玉宮へ様子を見に行くと、宵の書斎に天月も居た。天月が翠月との時間を早めに切り上げる日は、宵の仕事に余裕のある日で、ふたりで書斎で触れあっているらしい。
少しずつ明るさを取り戻した天月は、翠月と会うことも再開しているが、まだ揺れもある。宵と時間を共にすることで落ち着けるのであれば、それで構わない。事件の前まで、天月は「見世が好きすぎる」と評されていたほどだ。数週間休憩したところで、蒼玉宮の誰からも文句は言われないだろう。
(待っている御客の対応には、手を焼いているが…)
「天月、調子はどうだ」
「まだ少し…」
「無理はするな。宵に構ってもらえるうちに、しっかり休んでおけ」
「はい」
どうやら、今日の天月は機嫌が良い。照れ笑いを見せながら、緑翠がいるにも関わらず、背後から宵に抱きついている。宵と天月の正面に座る緑翠には、宵の気まずそうな笑みもしっかりと映った。
「それで、何か用が?」
「宵に、というよりは天月に。今話しても問題ないか?」
「はい」
宵が茶を淹れるために離れ、宵がいた場所に天月が座った。その目は高揚感を残しているが、正確に話が伝わるだろうか。緑翠が迷っている間に、天月が話しかけてきた。
「…翠月のことですか?」
「よく分かったな」
「療養中の僕への用件で考えられるのは、それくらいです、緑翠さま」
緑翠は、言葉を選びながら、天月に話す。翠玉宮に話に来る天月は、同じ寝間で生活している緑翠よりも、翠月のことを知っている。
「翠月との時間を、しっかり取ろうと思う」
「…それは、どういう意味で?」
「天月と宵の関係に、俺と翠月が近づくためだ。昼間、翠玉宮に来る日数を控えて欲しい」
「いい傾向じゃないですか」
戻ってきた宵が、横やりを入れる。翠月が来てから、天月がより活き活きとしているのを緑翠よりも間近で見ているのは、この宵だろう。天月が困惑した表情で、宵を見ている。同じニンゲンとして、こちらの世界のことを教えてやって欲しいと頼んだのは緑翠だ。それが、ほぼ完了したと捉えて欲しい。
「その分、俺と話せばいい。翠月には緑翠さまがついている。翠月自身もだいぶ慣れただろう」
「翠月と話せないわけではない。むしろ互いに良き理解者だろうしな」
宵の顔を見て、緑翠が何を伝えたいのか、読めたのだろう。天月が納得したように緑翠を振り返る。
「…ああ、そういうことですか。緑翠さま、『腹を括った』とおっしゃっていましたもんね」
「覚えていたか」
「ええ。あの時はあまり嬉しく思えなかったのですが、今は違います」
眩しい満面の笑みが緑翠に向く。ニンゲンは、妖から妖力の受け渡しを受けなければ、この世界で生きることはできない。妖力は強弱はあれど、妖であれば皆持っているものだ。ニンゲンが、妖から保護されずに生活することはあり得ない。その生活を体感している天月と宵から、改めて理解を得られたことは、緑翠にとって大きな自信になった。
*****
事件からはどれくらいの日数が経っただろう。明るさを取り戻した天月が、体調を見ながらで頻度は落ちたものの、また翠玉宮に来てくれるようになった。翠月が翠玉宮に引きこもっていること以外は、日常が戻って来つつあった。
枕元にあった簪を、忘れずに髪につける。外れなくなった新しい指輪と同じ緑色の装飾がついていて、身に着けていないと気付くと落ち着かない。本物ではないと思うが、翡翠に似ている気がした。
広間で天月と朝食を食べ、頃合いを見計らって春霖・秋霖が盆を下げてくれる。露台に出て太陽を浴びる気にはなれず、広間から外を見つつ、茶を啜りながら話す。
「その簪、緑翠さまにもらったの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「起きたら置いてあった」
「そうなんだ、よかったね。似合ってるよ」
「よかった?」
「この世界だと、男から女への簪の贈り物には、意味があるんだ。僕から教えるのは野暮かな。直接、聞いてみるといいかもね」
なぜか、天月が満面の笑みで嬉しそうに教えてくれた。その意味はまだ分からないが、緑翠が答えを持っていることは確実で、尋ねてみるしかないのだろう。
*
春霖・秋霖と緑翠の看病のおかげで、座って時間を過ごせるようになった翠月は、天月のいない時間には広間で組紐を組むことが多くなっていた。侍女たちがいつものように茶を持って来る。今日はそのタイミングで渡したいものがあった。
「春霖・秋霖、少し時間をもらっても?」
「はい、翠月さま」
足元に置いていた巾着から、小さな巾着を三つ取り出す。寝間の枕元に置いていた籠から、用意しておいたものだ。
「まずこれ。私の賃銭が入ってる。何かのついでに下町に出たときに、預けてきて欲しい」
「かしこまりました」
相変わらず、どっちがどっちか分からない侍女に、一番重い巾着を渡した。
「それから、このふたつ。春霖・秋霖への駄賃」
「そのようなものは受け取れません」
「誰も見ていないし、私は商屋が来ても使うことが少ないから。ほら、着物だって柘榴さまがくださるし」
「…緑翠さまには?」
「内緒。看病もずっとしてくれたし、組紐は前にあげたことがあるから」
双子は顔を見合わせて、お互いを確認し合ってから翠月に向き直った。その表情は明るかった。
「頂戴いたします、翠月さま」
「今回だけです。お気になさらないでください」
「うん、受け取ってくれてありがとう」
侍女たちは、これで好きな小物を買えるだろう。大した額が入っているわけではないが、商屋での物価を見ていれば装飾品には手が届くはずだ。
丸台に掛かる糸に再び手を伸ばす。今作っている組紐ができあがったら、緑翠に渡そうと、翠月は決めていた。
*****
「緑翠さま」
「うん?」
夜の見回りを終えても翠月が座っているのは、数週間ぶりのことだろうか。緑翠が戻ってくるのを待っていたかのように、日記を閉じた翠月が向き直る。
「この簪は、緑翠さまがくださった?」
「そうだ。嫌か?」
「いえ」
風呂上りでも緑翠の簪をつけている翠月の背後に回って、翠月からは見えないように簪に口をつける。他の芸者に見られれば妬みを生むのも分かるが、むしろ翠月に攻撃するなと、牽制の意味も含む。翠玉宮に居る限り、他の妖は入って来ない。朧や春霖・秋霖を除いて、翠玉宮の上階には、ふたりきりになれる空間が確保されている。
「前に、『御客から簪はもらうな』と。それから天月が、『簪をもらう意味を緑翠さまに聞くといい』って」
「ああ……」
(そうか、天月は話さなかったのか)
翠月の顎に触れ顔を上げさせる。以前は羞恥もあり自身で言う気にはなれなかったが、事が起きてしまいやっと決心もついた。ここ最近、急に物理的に距離を縮めるようになったこともあり、目をまん丸に開いた翠月の表情に、少し笑ってしまう。
「……『貴女を守りたい』」
「え…?」
「それが、簪の贈り物に込められる意味だ。翠月は、俺が守る。それだけだ」
「…ありがとうございます」
少し頬に赤みがさす翠月から手を引くと、翠月は何かを考えるように口に手を当て俯いてしまう。珍しく表情を変えた翠月に戸惑いつつ、緑翠も自らを棚にあげることはできない。翠月も緑翠も、自分の感情を機敏に現す方ではない。だから、黒曜宮を見ても、それぞれの上位の床に同席しても、翠月は平気に見えた。あの時も、心を視ておけばよかった。翠月は、緑翠の妖力に初めから耐性があったのだから。
腹に手を当て拍子を取ってやると、緑翠にもたれるように眠ってしまった。まだ、本調子ではないのだろう。
芸者として床を目指す、気に入った御客に床を誘ってもらう。それは確かに目標として間違っていないし、楼主としては、床見世への抵抗が減るのは嬉しいが、翠月に関しては不安が増す一方だ。
横抱きし、布団に寝かせてやる。横になるには邪魔な簪を外して、その額に口付けてから、はっとした。
今のは、妖力の受け渡しではない、肌への口付けだ。簪への口付けとも異なる。
(無意識だった……?)
握ったままの簪に、ぐっと力を込めてから枕元に置いた。心の揺れどころか、心臓がうるさい。緑翠自身も休む準備はできていたものの、一度寝間から出て書斎に入った。
(眠気が来るまで、組紐を組んでいよう……)
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