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第一篇
56.その身の仇 5
しおりを挟む翌朝、普段通り、隣で眠る翠月より早く目を覚ました緑翠は、真っ直ぐに蒼玉宮へ向かった。皇家との関係を考える前に、深碧館の動揺を取る方が先だ。楼主として全うに仕事をすれば、芸者も御客も離れないと、この十年の経験で知っている。ゆえに天月の様子を確認しに行ったのだが、結局後悔することになった。心を視なくても分かる程に、天月の揺れが大きかった。
「緑翠さま、ごめんなさい、僕のせいで…」
「天月、妖力のせいだっただろう?」
しがみついてくる天月を支えながら、話を聞き出す。視界に映る宵にも、どうにもできないやるせなさが滲んでいた。
「下町へ連れて行かれそうになった時点で、助けを呼べばよかったんです」
「結果的にはそうかもしれないが、画策した方が圧倒的に悪い。天月は被害者で、非を感じることはない」
乱れたままの天月は、何を言っても聞き入れない。おそらく、すでに宵も説得を試みてはいるだろう。意識のある時間に起き上がって話せるのであれば、夜は宵が妖力で眠らせているのかもしれない。この心の高ぶりを抱えたまま、自然に眠れているとは考えにくい。
「天月、どうしたら、落ち着けそうだ?」
「翠月に会いたいです」
「翠月に?」
「会って、謝りたい。翠月は、覚えていないのかもしれないけど」
「苦痛ではないのか?」
「ここに宵さんといても治らないなら、引っ掛かってるのは翠月のことだと思います」
「宵は、それで?」
「はい、天月がしたいように。やってみてからのことは、またその時に」
「ありがとう、宵さん」
「気の済むように、好きにするといい」
宵にも、天月を守れなかった後悔が浮かんでいた。天月と宵は、初めて共寝をしてからも長く、回数も重ねている。ゆえに、あれだけの妖力を浴びていても天月の回復が早いのだろう。
それでも、ここまでの揺れを感じてしまうのであれば、翠月のように気絶して何も覚えていないこともひとつ、守る手段として有効なのかもしれない。それが間違っていると分かっていてもそう考えてしまうほどに、天月は揺れていた。
*
その日の夜、翠月は布団に入っていたが、まだ起きていた。春霖・秋霖に眠るのを確認するよう伝えていたが、緑翠と一度話してからは、ひとりで眠るのを翠月自身が希望したこともあって、それを通していた。
「翠月、少し話しても?」
「はい」
「起き上がらなくていい、そのまま聞いてくれ」
緑翠も、横になる。腕で頭を支えて上半身だけ起こせば、翠月の首の角度に合わせて顔を見られる。腹の辺りに手を置いて、用件を口にした。
「もし翠月の体調が許すなら、天月が謝りたがっている」
「え、天月も当たったんでしょう?」
「それでも、だ。妖力で操られていたとはいえ、貫いてしまったことを相当に悔やんでいる」
翠月は、変わらず無表情に見える。多少、困惑はしているのだろうか。
どうにかあの後悔を受け取ってやって欲しいと、緑翠は思ってしまった。天月の心の揺れが、宵と一緒に居ても治っていない。宵に取れないのなら、緑翠にはどうすることもできない。宵も消耗しているし、翠月が許すなら、打開策として天月の希望を聞き入れる形を取って、試してみたい。蒼玉宮の一番手の療養があまりに長引くのも、楼主として避けたかった。
*
天月の意思を聞いてから二日ほど経って、翠月が身体を起こせる時間が伸びたのを春霖・秋霖から聞き、改めて翠月に確認を取った。翠月なりに天月を思いやっていて、「それで天月の辛さが紛れるなら」と了承した。
「翠月…、近づいても、大丈夫かな」
「うん」
翠玉宮の広間で、久々顔を合わせるニンゲンのふたりを、宵と同席し見守った。翠月は天月との行為を覚えていないし、目で見た記憶があるのは天月だけだ。今にも泣きだしそうな天月とは異なり、翠月は珍しく微笑んでいるように見える。
「…あの、覚えてないかもしれないけど」
「緑翠さまから聞いたよ、妖力だったんでしょ」
「それもあるけど、声を掛けられた時点で引き返せばよかったって」
「私もそれは思ったけど、もう起こったことだし」
「…ごめん」
「謝ることないよ、一緒に襲われたんだもん。それに、私は覚えてないし」
事件の前までのふたりの距離感なら、話しながらきっと手を取っていただろう。翠月が天月の動揺ぶりに驚いているように見える。書斎で事務作業をしながら聞いていた声色と明らかに異なっていることは、ここに連れてくる前から分かっていた。
「…天月、身体は?」
「…宵さんが」
「大丈夫なのね?」
「うん」
「それが聞けてよかった。だから、泣かないで」
「本当に、ごめん」
「いいの、全然知らない妖に無理にされるよりは」
「それでも…!」
「天月の方が辛いんじゃない、男色なんだから」
「翠月…っ」
「私は大丈夫、顔を上げて、天月」
*
結局、泣き崩れた天月は宵に抱えられて、翠玉宮から連れ出されることになった。そんなふたりを広間で見送った後、翠月を見ると、珍しく不安気な表情をしていた。
「何か、表現を、間違ったでしょうか。あそこまで動揺させるような…」
「いや、問題ない。ここから先は、天月が解決することだ」
「……」
考え込むような翠月を前に、緑翠は戸惑った。明らかに天月の方が揺れていたのだが、あの状態の天月を翠月に見せるべきではなかった。
「天月の希望を叶えてくれたこと、感謝する」
「いえ…。私にできることだったので」
「体調はどうだ? 横になるか?」
「このままで」
膝の上に揃えて置かれた白い手に、自身の手を重ね、久しぶりに心を視た。翠月は抵抗せず、されるがままだ。翠月は、緑翠の妖力を感じられるのだろうか。じっと目を見ていても、表情に変化はない。
翠月の心は、多少揺れているが天月に比べれば安定していて、見世にも問題ないように視えた。ただ、天月のあの様子を知ってしまった以上、もうしばらく休ませたいと、緑翠は思った。翠月は、天月よりも良い意味で鈍感で、油断しやすい。見世に復帰するとなると、妖からの策に溺れる可能性もある。
楼主としては可能な限り、ふたりの復帰は揃えたい。ニンゲンで例外だからと、弁解しやすくなる。
(あの時の頃も、あんな風に見えたんだろうか。表面上は、何もないように…)
緑翠は、出生時から歓迎されず、楼主となってからも、この地位を安定させるため、難題に耐え乗り越えてきた。翠月の無表情に、当時の自らを重ねた。翠玉宮から見回りへ出る折には、深碧館が揺れないよう、必死に表情を作った。その過去の全てを知るのは朧だけで、最近の揺れを感じ取っている月白には、また呼び出されるかもしれない。
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