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第一篇
48.転ばぬ先の杖
しおりを挟む初めて妖力に当たった後、天月が翠玉宮に来なくなったと聞いて、春霖・秋霖に朝食を運ぶように頼んだ。翠月からふたりを頼ることは少ないが、言うとふたりは嬉しそうにするため、やはり頼むことも翠月の仕事だと割り切らなくてはならない。
露台で風に当たりながら待っていると、たまたま天月と居合わせたらしく、盆を持った天月もやってきた。久々会う華奢な男色芸者は、声も明るくいつも通りで、翠月を安心させた。
「翠月! もう大丈夫?」
「とりあえずは。また何かあれば言えって」
「うん」
春霖・秋霖が翠月の前に盆を置いて、場を離れた。天月が対面に座って、手を合わせて箸を取る。天月が翠玉宮に来たということは、おそらく見世は夕方からだ。ゆっくり話す時間を取ってくれるだろう。
「ちょうどよかった、聞きたかったの」
「なにを?」
「天月が妖力に当てられた時のこと」
「ああ…。食べてから、話そう」
*
「僕が当てられたのは、ここに来てすぐの頃に何回か。ひとりで廓の外に出るなと言われてるのはそのせい。倫理を守らない御客に使われて、当たったこともあるよ」
「だから、私の床見世はまだ先なのね」
「希望しても許可されないのなら、その可能性が一番高いかも」
広間でふたり、天月が気を利かせて盆に載せてきてくれた茶を啜りながら、妖力とその影響について教えてもらう。深碧館に居る妖は皆、人間にも慣れているし妖力を使わない者がほとんどが、外に出ると状況は変わる。だから、御客とは一線を引いておかなければいけない。見世の間、油断はできないのだ。
考えるように天月は腕を組みつつ、翠月を見てくる。首を傾げると、ふっと笑って口を開いた。
「……僕のことは、当てられる度に宵さんが助けてくれる。粘膜から親しい妖力に触れると、症状が落ち着きやすいんだって」
天月が意味ありげに、自分の唇に人差し指を当てる。その動作が、妖からキスを受ければ落ち着くことを意味するのは、その嬉しそうな表情からも分かった。天月は、宵にしてもらっているのだろう。
(私にとって、それをしてくれる妖とは……?)
ひとりしかいないと思い当たるが、本当にその妖がしてくれたのだろうか。あの妖は、深碧館の楼主だ。黙っていると、天月が声を掛けてくれる。
「覚えてない?」
「うん、悪夢にうなされてたことだけ…」
「翠月には、緑翠さまがしてくれてたんだと思うよ」
「…ほんとに?」
「うん。だって、緑翠さましかいないでしょ?」
それは、そう。ただ、すぐに信じられるほどの現実味はない。考え込んでいると、天月が聞いてくる。
「…翠月は、緑翠さまが好き?」
「……?」
天月の意図が見えなくて、顔をしかめる。好きかどうかなんて、考えたこともなかった。あの妖の側が、ここに来てからの日常で当たり前だから。
「僕は、宵さんが好き。でもこうして働くのも好きだから、ちょっと複雑だよね。だって、僕が床に入った稼ぎで宵さんが喜んでくれるんだもん」
(……星羅さんの言ってた、『明らかな肩入れをしている宮番』って、宵さんのことか!)
天月とは仲良くしていて、宵と顔を合わせる機会も多いが、そんな関係には感じたことがなかった。確かに、翠月がよく知る星羅と黎明に比べると、楽し気に崩して話していた。それでも黄玉宮より若いことや、宮番と同性だからと流していた。
「…両想い?」
「ふふ、片想い。口に出したことはないよ」
「……」
言ってしまえば、今の関係が変わってしまうから。天月は直接言葉にしなかったけど、寂しそうな顔がそう言っている。
星羅から聞いた、夕星と黎明の話を思い出す。夕星は芸者として、黎明との関係は望まなかった。今の天月は、夕星と同じだ。翠月は、両想いかどうかなんて聞いたことを悔やんだ。
「…きっと、翠月と緑翠さまも、そうなんじゃないかな」
「そう?」
「うん、恋愛感情があってもなくても、人間の僕たちがここで生きるために必要な妖だよ。そうやって守ってくれるんだから」
「そうだね……」
そう言った天月の顔は、いつもより大人びて見えた。恋愛感情があるかなんて分からないからこそ、天月は宵に自分の気持ちを伝えない選択をしていると、翠月にも理解できた。
宮番の宵にとっては、蒼玉宮所属の人間を守るためにしているのがキスなだけで、単にそれだけかもしれない。芸者を守る仕事としてするのか、好意的な感情が伴うのか、翠月に判断はつかない。きっと、天月にも自信はないから、この表情を見せる。
これが、人間である翠月と天月にしか訪れない、廓での心の揺れだ。夕星も、自分なりの選択をして送り出しを受けた。緑翠から、「人間だからあまり感じることはないかもしれない」と言われたことも過ぎる。翠月は、目の前の天月の表情を、しばらく振り払うことができなかった。
*****
「宵は、強いな」
「何がでしょう、緑翠さま」
見世の終わりが近づいた見回りの折に、宵の書斎で少し時間をもらった。蒼玉宮はいつ来ても、基本的に落ち着いていて、問題の起こらない宮だ。紅玉宮や黄玉宮と比べると身請け話も少なく、宮番と話し込む機会も減る。天月が翠月と関わるようになってからは、宵が番台まで迎えに来ることも増えているようだが、緑翠と話すことは稀なままだった。
「天月と君影の関係を許せるのだろう?」
「それが深碧館のためになるんで」
「天月が、御客と床を共にするのも」
「もちろん、それが深碧館の商売でしょう?」
そう言い切る宵を、緑翠は直視できなかった。自らが割り切れていないことが分かっているからこそ、とっくに見透かされているだろう。
「…俺には、できそうにない」
「と言いますと?」
「翠月が御客と床に入るのを、俺は許せそうにない」
「それは、妖力を危惧してのことですか?」
「宵は、どう取る?」
疑うように目を向けると、宵は笑い返してきた。やはり、この男は、天月を好いているし、緑翠のことも見抜いている。
「お好きになさってください、楼主さま。我々は緑翠さまについていきますよ」
「…ああ」
*****
今までは夜の見世が終わった頃に、寝間で話す程度だったのに、珍しく昼の広間に誘われた。見世の準備に入る前に、対面で座るよう手で示され、従った。なんとなく、緑翠の顔が硬い気がした。
「…今日から、黄檗の間をひとりで使え」
「ひとりで、ですか」
その意味を、翠月が知らないわけがない。むしろ、嫌というほど体感してきた。緑翠や星羅から直接言われたわけではないが、黄檗の間を使う意味は、見習いとしてそれなりに座敷に立ってきた翠月にも分かった。三階の下位芸者を差し置いて、いきなり二階の三番手の座敷を使うのである。
「芸者と名乗って構わない。ただ、床には入るな」
「…分かりました」
「朧と宮番には伝えてある。他の宮の芸者から何か言われれば、遠慮なく頼れ」
「はい、ありがとうございます」
ひとりで座敷に立つ許可を得た翠月は、緑翠に頭を下げた後、その足で黄玉宮に向かった。黄檗の間を使うということは、黄玉宮の三番手を名乗ることと同じだ。黄檗の間の中へ入りゆっくりと見回して、手入れの行き届いた欄間や襖を眺める。夕星が深碧館での最後の日に、焼き付けるように見ていたのを思い出す。
黄玉宮の三階の座敷に、翠月は入ったことがない。黄玉宮の下位芸者から何か直接言われることはないはずだが、良くは思われないだろう。稽古から半年も経たずにひとつの座敷を任せられることは異例でしかないし、そもそも翠月は人間で、例外だらけなのだ。
「緊張、されていますか」
「…梓」
「すみません、覗いているみたいになってしまいましたね」と、軽く会釈をしてから世話係が入ってきた。茶と菓子を載せた盆を持ってきているから、梓に翠月が気付かなかっただけだろう。梓にとって翠月は仕えるべき芸者で、上下関係もはっきりしているが、御客への礼と同じものを翠月が望まなかった。梓は翠月に敬意を払いつつ、少し砕けた口調で話す。
「私も、初めて夕星さまの御座敷に出た時は緊張しましたよ。芸者とは、程度が異なるとは思いますが」
「ううん、緊張度合いなんてそれぞれよ」
「そうやって、世話係の私を気遣ってくださるところが、翠月さまの良いところです。黄玉の方は皆お優しいですが、翠月さまはまだ半分ほどの年齢でしょう?」
思い浮かべた一番手の星羅は確か三十二。十四の翠月とは一回り以上年齢が上だ。
「…そうかも」
「そのお年で、他者を気遣えていること、自覚なさってくださいね。御客もそこに惹かれるのですから」
「……」
「できていたら、苦労しませんね?」
「うん」
「ふふ、翠月さまらしいです」
今、このタイミングで梓に会えて、話せてよかった。梓は、言葉にしなくても感じ取ってくれる。
芸者として、空いている黄玉宮の三番座敷を踏むことを考えなかったわけではない。天月だって、この世界に生きる人間で、蒼玉宮の一番手を張っている。
翠月も、上位芸者の仲間入りをすることがあり得ないわけではなかった。それでも、天月とは性別と趣向が異なる。基本的には構えていられる翠月も、多少の不安は抱えていた。
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