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第一篇
43.手の虎は身を破る 2
しおりを挟む「…翠月」
呼び掛けてみても、返事はない。額に手を当てても、発熱している様子はなく、汗もかいていない。表情も穏やかで、ただ眠っているだけのように見える。
「黎明、見世が終わってから話がある」
「かしこまりました」
黎明の方には、顔を向けなかった。緑翠が言いたいことは、この言動で伝わるだろう。御客が通るかもしれない座敷の前で、詳しく説明したくない。
その場を黎明に任せ、ゆっくりと呼吸をしている翠月に上着を掛け、抱え上げて翠玉宮へ戻った。見世も終わりに近づき御客が引いていたのか、天月もついてきた。宵が橄欖を連れて行ったから、見世がなかったのであれば、その前に天月が宵と一緒に黄玉宮に来ていてもおかしくはない。
「天月」
「っはい、緑翠さま」
「明日見世に出ない代わりに、今晩翠月のそばに」
「僕がですか?」
「俺は、橄欖と体格が似ている。迫られたらしい。万一があるからな」
「…分かりました」
天月に寝間の襖を開けてもらい、翠月を敷物に寝かせる。下ろされたことで、翠月が身じろいだが、目を開けることはしなかった。
(男自体に、恐怖を持っていなければいいが…)
天月は、体格が華奢で男色、加えて今までの付き合いもある。怖がられはしないだろう。
見習いが襲われることも、今までなかったわけではなく、その都度対処してきたこと。今回異なるのは、それが翠月だったことだ。緑翠が寝間を共にするニンゲンなのである。楼主である以上、完全に守ることが難しいのは理解しているはずなのだが。
(…何故俺が、ここまで揺れる?)
「……今日は離れる。天月、頼んだ」
「はい」
寝間からは出たものの、緑翠が襖から離れていないのは、天月にも分かっているだろう。声が聞こえてくる。
「翠月…」
「…んん…」
「ごめん、寝てていいよ」
「…あれ、天月、見世は?」
「今日はもうないよ」
「そう」
「ここに、僕がいることになった。緑翠さまは戻らないよ」
「え?」
「翠月に迫った妖と、体格が似てるから」
「……」
声は聞こえるものの、表情は分からない。緑翠が妖力を使えば、天月は当たってしまう。宵から天月を借りている以上、使わない方がいい。
(俺は、何も手を出せない。視れないままだ)
状況を説明してほしいと、天月に目で言われたのだろう。翠月が、普段よりもさらに言葉を選びながら、声を出した。
「……何か、なんて言ったらいいんだろう。あの妖からは寒気がした」
「ぞわぞわする感じ?」
「うん」
「どこか、触れられた?」
「頬」
「今は? 今もぞわぞわする?」
「大丈夫。今は何もない」
(…それだ)
緑翠はひとり、寝間の外で納得した。橄欖は翠月を床に誘おうと頬に触れた際に、興奮を抑えきれずニンゲンが当たらないほど、微量の妖力を放出したのだろう。その感覚に驚いた翠月が、運悪く後ろに倒れてしまった。もしくは、妖力に関係なく、男に乗りかかられ襲われる恐怖に気を失ったか。
(後者もあり得るだろうな…、しかし、発情期の妖を、翠月に近づけてしまったか)
高位の貴族であるほど、子孫を残す本能が強いために、強力で明確な発情期がある。緑翠は貴族最上位だが、昔から特別感じたことがなかった。平民である宮番たちにも、貴族ほど剥き出しの欲はない。深碧館で発情期がはっきりと強いのは、糸遊や淡雪、君影くらいだろうか。
宝石持ちである橄欖から、翠月ひとりを求められ、黎明は断れなかったのだろうし、翠月はその指示に従っただけだろう。楼主代理の朧が対応していても、同様だったはずだ。今晩は、緑翠が外に出ていたため、御客の不信感を煽るべきではなかった。廓での面倒の火種は、できるだけ排除するべき見世だった。黎明の判断は間違っていない。
柘榴は、たまたま黄檗の間の前を通ったのだろうか。深碧館で感じるには不自然な妖力だったと、柘榴は言っていた。ニンゲンが当てられない程度の妖力は相当小さいものだし、意識していなければ感じられないはずだ。
緑翠には、違和感が拭えなかった。深碧館で高位貴族が顔を合わせることは、深碧館が最高級館で伝手での集客をしている以上起こり得ることだが、対面して話すことはないだろう。貴族同士で用があったとしても、そのやり取りの場に廓を使うことはない。芸者を楽しむ場で交渉をするのは、緑翠と裏家業で繋がっている者だけだ。
少々ぎこちない翠月と天月の話し声をしばらく聞いてから、緑翠は朧の書斎へと向かった。
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