妖からの守り方

垣崎 奏

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第一篇

42.手の虎は身を破る 1

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 陽が落ちて、もうすぐ見世が始まろうかというところで、ふと月を見た。毎日無意識のうちに確認はしていたが、揺れているのは翠月が来てから初めてだ。三月みつきほど間が空いた。有事でなければいいが、様子を見に行かないことには何も分からない。

「朧」
「はい、緑翠さま」
「出てくる。何かあったら、上手く対処しておいてくれ」
「かしこまりました」

 面と棒銭を懐に入れ、翠玉宮の裏口から外に出る。

 月が揺れている夜は、妙なざわつきを感じる。また新たなニンゲンが渡ってくるのかと、緑翠はゆっくりと息を吐いた。


 *****


「翠月、今日の見世だが、高位な御方が翠月ひとりを御所望だ。立てそうか?」
「はい」
「断ると一悶着ある方なんだ、助かる」

 御客の希望なら、翠月は従うだけだ。座敷にひとりで立つことになるが、実際は芸者がひとりなだけで、世話係のあずさは一緒にいてくれる。何かあれば、慣れている梓を頼ればいい。

 黎明が連れてきた、緑の宝石を腰に差した高位貴族と、座敷の敷居で対面した。目を合わせてから礼をして、頭を上げても、翠月の人間の匂いに反応を示さなかった。

(あの薄い緑…、橄欖石ペリドットだ)

 高位と会うのは蒼玉宮で見学した天月の御客・孔雀くじゃく以来で、少し緊張しながら夕星ゆうづつ黄檗おうばくの間を使った。世話係の梓を伴い、見習いではあるがひとりで楽見世に立った。

「流石、話題になるだけあるな、翠月」
「…ありがとうございます」
「舞も、この扇で見せてもらえるか?」
「かしこまりました」

 受け取りに近づくと、さっと扇を離され、翠月は勢いのまま身体を寄せてしまった。帯に指を掛けられていて、下がることはできない。あれほど、御客との距離には気をつけろと言われていたのに。

(これは……)

 目を逸らして梓の姿を探すことも、できない。相手に優位を感じさせてはいけない。目を橄欖かんらんから逸らさないことが最優先だ。逸らせば、襲われる。

「……気に入った」

 顔に触れられ、背中から全身に悪寒が走った。それに驚いて、着物の裾を踏んで後ろに倒れてしまう。馬乗りになった目の前の妖が、翠月の手を押さえて口角を片方だけ上げた。翠月は、震え出すのを止めようと、身体を強張らせた。

「…僕の座敷はここだと聞いたんだが」
「っ!」

 襖が開き、知らない声がして、橄欖の意識が外に向いた。翠月も横目で見ると、宮番ではない妖が立っていた。

(茶色い長い髪……、楼主さまみたい)

 腰には赤い石を下げているのが目に入った。何の石かは判別がつかなかったが、宝石を下げている時点で、翠月に触れている妖と同じ高位貴族の妖だ。

「…邪魔するな」
「普通は、奥の敷物の上でしますけど」
「出てけって言ってんだが?」
「いかがいたしましたか、柘榴ざくろさま」

黎明れいめいさんの声だ…。梓が、呼んでくれた?)

 安心して力を抜くと、急に身体が重たく感じた。翠月は、素直に目を瞑った。


 *****


 結局、神社に入っても、ニンゲンが関わるような事態は起こっていなかった。神社は静寂で、妖すら姿がなかったのだから、緑翠が来る必要は全くなかった。そういったことも前からあったが、今日はまだ月が揺れ続けていて、緑翠の心のざわつきも消えないままだ。翠月が来てからは初めてになる妖しい揺れの月で、過剰に心配しているだけかもしれない。

 それでも緑翠は、平民に不審に思われない、違和感のない速さで下町を歩いた。翠玉宮の裏口から戻ってすぐ、春霖・秋霖が待ち構えていた。

「…っ、緑翠さま!」
「黄玉へすぐに!」
「ん、分かった」

 何があったのかは分からないが、とにかく緊急なのは伝わってきた。できるだけ普段通りの声で返し、朧の立つ番台を通り抜ける。面も棒銭も持ったまま、階段を上がった。

 黄玉宮から聞こえてくる話を理解するのに、少々時間がかかった。

「深碧館もここまでだな。ニンゲンを守るとは」
「そのニンゲンに、熱を上げていたのはどちら様でしょう」

 御客の御前で、楼主が慌てる訳にはいかない。姿を見せる前に一度、大きく息を吐く。

「確かに翠月はニンゲンですが、芸者として魅力的だと思いますよ。だから橄欖さまも影響があったのでしょう? 本日の橄欖さまは少し悪戯が過ぎます」
「失礼」
「緑翠さま」

 黎明の横から、礼をせずに座敷に入る。明らかに御客が問題を起こしたのが分かるからだ。さっと見回すと、寝かされたのではなく、倒れている翠月が目に入る。

(…気を失っている)

 うなされてはいる様子はないから、妖力に当てられたわけではないのだろう。天月が妖力に当てられた時には、熱に浮かされ汗も酷かった。

 座敷を見回してみても、世話係しかいない。星羅も淡雪も見当たらない。ここは、元三番手・夕星の黄檗の間で、上位芸者がいないことは当然とも言えるが、緑翠の認識ではしばらく使わない予定だった座敷だ。

 何故、翠月がこの御座敷にひとりなのか。黎明を問いただすのは、後に決まっている。まずは場を治めて、翠月を視たい。

「…貴族と言えど、深碧館には深碧館の倫理がありますよ、橄欖さま」
「高位貴族がっ」

 吐き捨てるように言った橄欖からは、貴族に対する嫌味が大いに含まれていた。緑翠が橄欖に対して、何かを直接行ったわけでは当然ない。その言葉を、緑翠に向けること自体が間違っている。

「敬っているようには聞こえませんね」
すめらぎもどうせ、俺たちと同じように落とされる。天皇に従ってるんだからな!」
「不敬な。連れ出せ、深碧館うちの御客ではない」

 誰かが呼びに行ったのだろう、宮番の中でも体格のいい宵が、半ば力づくで連行していった。妖力で抵抗もできただろうが、緑翠を皇家の者だと分かっている以上、橄欖が勝てないことも明白だった。

「…緑翠さま、少しよろしいですか」
「ええ、こちらでも?」
「結構です」

(柘榴石か。居合わせた上客…、もしくは仲裁に入ったか)

 黎明が翠月に触れ、着物の乱れを確認している。やはり、乗り掛かられたのだろう。柘榴に目を戻すと、口を開いた。

「この廓では感じたことのなかった不自然な妖力があったので、不躾に襖を開けました。そちらの芸者…、ニンゲンの、まだ見習いですか? 迫られて怯えているようでした。ご無礼をお許しください」
「入っていただき感謝いたします。御礼は日を改めて」
「お気になさらず」

 柘榴が離れ、黄玉宮から番台へと続く階段を降りていくのを、姿が見えなくなるまで追った後、翠月に寄った。黎明がさっと避け空けた場所、翠月の側に膝をついた。
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