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第一篇
30.妖を思うは身を思う
しおりを挟む翠月は、変わらず星羅の座敷に同席し、見世の経験を積んでいた。今まで特別問題は起こらなかったものの、この日の御客は、深碧館に来る前に酒を進めすぎたようだ。足取りがおぼつかないのが、廊下から聞こえてくる黎明の不安げな声で分かる。
「お前、人間か……。ここも落ちたものだ」
まだ藤黄の間に踏み入れる前で、黎明が連れて来た御客を星羅・翠月と対面させるタイミングだった。明らかな軽蔑の目を向けた御客と翠月の間には、すっと黎明が入り引き取るよう伝え、抱えるように離れていく。翠月はそれを見送った後、星羅に慰められることとなった。
「大分呑まれていたみたいだし、貴女のせいではないわよ」
「…はい」
「この座敷に来るまでに番台は通っていて、今回は特に御客の無礼。見世がなくなっても深碧館の稼ぎは減らないわ」
「はい」
「常連というほど頻繁に来てくれる御客ではなかったけれど、あの御方はもうこの廓には入れないわね」
「え」
「深碧館の芸者への無礼は、即出禁よ。もちろん御客の言い分も伺いはするけれどね。緑翠さまがそれを徹底していらっしゃるわ」
「そうですか」
「そんな顔をしないの、翠月。私たちが守られているのは、あの方が毅然とした態度で楼主をしているから。緑翠さまのために稼ぐのは確かだけど、自分を殺すことを喜びはしないの、貴女が一番知っているでしょう?」
星羅の言う意味が分からないわけではない。それでも、深碧館の御客をひとり、失ったことに代わりはない。伝手でしか入ることのできない深碧館には、新しい御客は滅多に来ない。初めて顔を合わせる時は大抵、深碧館の誰かの座敷に入ったことがあって、よりペースの合う芸者を探したり気分転換を図ったりする場合だ。
星羅の御客はほぼ常連客だけど、今日の御方は違った。だから、人間の翠月がいて、余計に態度が素直に出たのだろう。
(あの目がなければ、そのまま座敷に上がっていた御客……)
翠月にとってその御客の態度は、頭を殴られたような衝撃だった。天月も普通に深碧館に馴染んで芸者をしているし、星羅や菘、黎明も毎日のように可愛がってくれる。翠月が星羅と一緒に座敷で御客を迎える時に、あんな視線を向けてくる妖は今までいなかった。
人間で異質な存在であることが意識から薄れていた。そうでなければ、こんなにショックを受けるはずがない。
(あんな目を向けられるのが、こんなに辛いとは……)
紅玉宮に配属された、稽古が一緒だった白露や薄氷は、関わった初めての人間が翠月だったらしい。「匂いは消えるというより、妖側が慣れるもの」と言っていた。同じ人間の天月は「よく言われることで、もう気にならなくなった」と。
(慣れたつもりなだけだった……)
座敷に上がるようになってすぐの頃は、見世の度に御客の反応を気にしていたのに、受け入れられることがすっかり当たり前になっていた。
向こうの世界で父親の商売を見ていた翠月は、店主の交友関係が商売に影響することを知っている。繁盛にも衰退にも、誰と関わるかで振れてしまうのだ。
翠月は、深碧館の楼主と同じ翠玉宮で生活をしている。廓のトップである緑翠と物理的に一番距離の近い翠月が、御客に受け入れられない。翠月が、緑翠の足を引っ張るかもしれない。そのことが、翠月の心を大いに揺らした。
*****
寝間で普段通りに日記を付けている翠月は、普段と様子が異なっていた。表情が変わらず、翠月を気に掛ける緑翠は毎度苦労するが、今夜の翠月は明らかに悲しそうだ。
(こんなに分かりやすいのは、夕星の送り出し以来か)
「……見世で何かあったのか?」
一息吐き出した翠月は、意味ありげに緑翠と目を合わせた後、逸らした。日記を見つめながら、御客に言われたことを一言ずつ、教えてくれた。
(ニンゲンであることは、変えられないからな…)
「俺は、気に入ってる。そうでなければ同じ寝間で過ごすわけがない」
「楼主さま」
「なんだ?」
明らかに、間が空いた。翠月が、迷っている。
「……なんでもないです」
「無理に聞く気もないが、話したいなら話すといい。納得できるまで付き合ってやる」
緑翠は翠月のことを、他者と比べすぎず、やるべきことが分かっている、自身を強く持っている者だと感じていた。今まで翠月のいる座敷に入った御客は、皆満足げに深碧館を後にしていった。今日の御客の一言は、そんな評価を打ち消してしまうほどに、惑わせる言葉だったのか。
あまりにもすんなりと黄玉宮の座敷に馴染んでいて、翠月自身、ニンゲンである自覚が薄れていったのだろうか。この前も買い付けの際には、ニンゲンだからと緑翠がついて行った。天月とよく一緒にいる中で、ニンゲンであることが抜けていたのだろうか。それは、こちらの世界に馴染めている証拠でもあるのだが。
完全に理解することはできないが、寄り添ってはやれると思っている。翠月が話したくなければ、聞いてやれる心構えを持って、話せるようになるのを待っていればいい。
(どうすれば、俺に話す気になる? 翠月は、俺にどうして欲しい?)
「……今日は、もう寝ます」
「そうか、ゆっくりお休み」
布団に潜った翠月の上に、妖力で狐を載せてやる。この程度の妖力は、翠月に何も影響がない。少し重たくなって、休むのを助けてくれるだろう。
今まで緑翠が保護して連れ帰り、世話係として黒系宮に配属させたニンゲンの少年少女たちは、いつの間にか地下から消えていた。こちらの世界では、妖がニンゲンより上に立つ。それは絶対だ。深碧館が嫌になって逃げ出せたところで、自由には生きられない。妖力を使われれば、ニンゲンは抵抗できない。
ゆえに、翠月がニンゲンと分かって、そういった偏見のある態度を見せるような御客からは離れた方がいい。芸者も御客も、それぞれ好みの距離を測る。より大きな被害を受ける前に、離れた方が良い御客だったと分かって、被害が最小限だったと考えるべきだ。
深碧館にいる芸者は、皆大事な商品で、守るべき対象だ。
(……決して、翠月だけが特別ではない。俺は、楼主だからな)
*
翠玉宮の広間で、翠月と天月が話しているのが聞こえる。毎日のように会って話して、飽きないのかと思うが、緑翠はそれを指摘できる立場にない。翠月とできる限り毎日話そうとしているのは、緑翠も同じだ。
緑翠は書斎で仕事をしつつ、ふたりの会話を盗み聞いている。あの座敷以降、翠月の様子が気になることもあり、あえて広間に近い位置で事務作業を進めた。
「天月は、何で攫われたの」
「攫われた…、確かに攫われたんだけど、『僕がついてきた』に近いかな」
「ついてきた?」
天月のことは、こちらの世界に来た初日に視ている。心の揺れがかなり激しく出るから注意が必要だと、それまでのニンゲンを保護する時よりも気を引き締めたことを覚えている。今では宵も傍にいて、君影を含め蒼玉宮の芸者とも仲良くやっているし、安定することが増えたように思う。
(宵に任せる決断は、間違っていなかった)
「元々、男が好きだったんだ。向こうは、それが認められていなかったでしょ?」
「…公にはしにくかったと思う」
「だから、生きにくくて。思い詰めていたら緑翠さまに出会って、ここに連れて来てもらった。今の方が自分らしく居られて、感謝しかない」
「ここにいる方が、楽しいんだ?」
「うん、帰りたくなんてないね、そもそも帰れないらしいけど。翠月はどう?」
天月の言葉を聞いて、作業を止める。事務仕事でいつでもできるものではあるが、後からやり直すことにはなりたくない。
翠月が来てからは、ふた月と少し。馴染めたかどうかを完全に把握するには早いが、少なくともこの答えで、現時点で翠月がこの世界に居続けたいのかどうかは分かる。他に、行けるところもないが。
「帰りたくない」
饒舌とは言い難い翠月は、会話する際にひとつひとつ言葉を選ぶような間を取る。振られた内容に戸惑っている場合もあるのだろうが、考えていることの方が多いと、緑翠は思っていた。そんな翠月が、ほぼ即答した。天月も驚いているのか、次に翠月の声が聞こえるまで、少し間があった。
「…ここなら、楽も書も役に立つし、芸者として頑張るしか道がない。嫌味を言われることもあるけど、あっちに居た時よりましな気がする。お琴も書道も意味があると思えなかったし、進路もたくさんの選択肢から選ばないといけなかった。ここは、やるべきことがはっきりしてる分、気楽だよ」
「そっか、よかった。安心したよ」
帰りたいと思っていないのなら、それでいい。翠月も天月も、逃げ出すことはできない。渡ってきてしまった以上、こちらの世界で生きる術を身に着けるしかないのだ。こうして廓で働くことでやりがいを持つことは、逃げ出さないための口実でしかない。妖力からニンゲンを守るための術を知る妖は、緑翠と朧、宵、月白と烏夜、そして夜光しかいない。
無意識に手が伸びていた日記を開いて目に入るのは、緑翠が守れなかった姉の写真だ。
(……俺が迷っている間は、案外少ない)
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