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第一篇
29.商屋と紅玉宮の芸者 2
しおりを挟む商屋のいる賑やかな深碧館から戻り、翠玉宮の広間で茶を啜ってくつろぐ翠月と天月の会話を聞きながら、緑翠は日記を開いた。読み直したかった頁は、糸遊と初めて出会った時のものだ。
当時の緑翠は、楼主として深碧館の中を昼間にも見回っていて、たまたま宮番や婆のいない折に、見習いとして藍玉宮で生活していた糸遊と対面してしまった。糸遊は、緑翠がどの立場の妖なのか理解していなかったようで、緑翠へ熱を帯びた目を向けていたのを覚えている。
緑翠は、一旦その熱から逃げるために、妖が追って来ない黒系宮へと入った。緑翠には着物の色で糸遊の立場が、身体の大きさで大体の年齢が把握でき、糸遊が世話係ではなく芸者志望の妖であることも分かった。婆に素質を認められて芸者になるのであれば、いずれ話が上がってくると踏み、その時は特に誰なのかを問うことはしなかった。
その妖が、糸遊という名を持ち、驚くべきことに緑翠と同い年であることを知ったのは、紅玉宮へ見習いとして配属される折だった。楼主として、配属を許可するために聞かされたからだ。藍玉宮で姿を見られた時の純粋な反応から、五つは年下だと思っていた。
稽古を担当した婆からは、「身分を隠した貴族ではないか」と報告を受けていた。詳しく話を聞けば、「所作は完璧だが、見世に関しては誇りの高さが邪魔をしている」とのことだった。平民では邪魔をするほどの誇りを持つ者はいないと言っていい。皆、日々を生きることに精一杯で、深碧館に来て余裕を持ってから生きる目的を見出し、活き活きとし始める者が圧倒的に多い。
二十で深碧館に来た糸遊が、本当に貴族であれば、嫁ぎ遅れて廓に流されたのだろう。芸者として身請けされるには全く問題がないが、一貴族の本妻として嫁ぐのであれば、やはり十八までだろうか。
糸遊は実家と連絡を取っている様子もなく、とにかく芸者としての結果を欲しがった。黄玉宮配属の星羅や淡雪も似た境遇の芸者だが、ふたりは実家とのやり取りが今も続いているし、ふたりの身請けに関して実家は口を出さない。だからこそ、ふたりの見世には余裕が見える。糸遊と同時期に藍玉宮で生活し、紅玉宮に配属された飛燕と胡蝶にも、深碧館に来た時点ですでに実家との繋がりはなかった。この五名は全員、婆の見立てでは貴族だ。直接聞いたわけではないが、稽古初日から、座敷の所作が平民のそれではなかったらしい。
見習いとして先輩芸者の座敷に出るうちに、糸遊は緑翠が誰であるかを把握し、手紙で約束を取りつけ対面で話そうとしてきた。紅玉宮の宮番である東雲が、「楼主に対して取る態度ではない」と注意をしても、糸遊は変わらなかった。
糸遊以前に、緑翠に迫ってくる芸者がいなかったわけではない。ただ、緑翠が深碧館を継いだ際に散々な目に遭っており、全てを知っている朧を含め、糸遊の程度が可愛らしく思え、厳しい対処を行なって来なかった。
厄介だと感じるようになったのは、東雲から「糸遊が内儀の座を狙っている」と聞いた時だ。何の拍子で、楼主の妻の立場である《内儀》の存在を知ったのかは分からないが、飛燕や胡蝶も味方に取り入れ、緑翠が気に掛ける黄玉宮の上位芸者への嫌がらせが増々酷くなっていった。
緑翠としては、単に廓の売上に貢献している宮への感謝を伝えているだけだったが、昼間など芸者が自由に動ける時間に行くことは辞めた。見世が始まる直前であれば、紅玉宮の者と会うこともなく、黄玉宮や蒼玉宮に顔を出せるため、その時間帯に動くようになった。
天月が来た際も、糸遊はかなり反発した。ニンゲンである天月を、簡単に受け入れられない芸者は多かったが、糸遊はそれ以上だった。宵が面倒を見れるようになるまでは、緑翠が世話をしていたのは事実だが、一週間ほどで短かった。男色である天月に、緑翠が絆されるとでも思っていたのだろうか。
そして、翠月がやってきた。緑翠は、分かりやすく翠月を翠玉宮に囲っている。その事実は深碧館で働く全員が知っている。ただ、翠月はニンゲンで、通常であれば、高位貴族である緑翠の内儀になることはできない。あの熱量の嫉妬を抱くには、違和感しかないのだ。
糸遊が翠月に対して妖力を行使する前に、どうにか落ち着かせたいが、言葉での説明を糸遊は受け入れられない。だから、「紅玉配属にしたい」と婆に言われたのは腑に落ちるが、楼主としては非常に面倒なことになってきた。
(あの時、厳しく対処していれば…。妖力を使ったとしても大して堪えないかもしれないな)
緑翠は楼主として、芸者をはじめとした深碧館で働く者たちの生活を守っていかなければならない。誰かに我慢を強いると予想できても、その方が全体として丸く収まるなら、それを選ぶことも当然ある。当時は、糸遊からの熱に緑翠が耐えていればいいだけだったが、今は黄玉宮や蒼玉宮の皆が紅玉宮に気を遣っているし、特に天月と翠月には無理をさせてしまっている。
(そろそろ、本格的に考える時期か)
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