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第一篇
10.蒼玉宮の一番手・天月 5
しおりを挟む天月と翠月が出て行った後、緑翠は書斎にひとり籠った。本を読み進めたいが、ここは楼主としての仕事を先に片付ける。
まずは朧が付けている入退館記録や出納帳を確認して、今日の予測を修正する。厄介な御客が来そうな時期は勘で分かることもあるが、記録から読めてくることもある。翠月がこちらに来たばかりだし、常連客の発情期の周期から外れていることを願う。
(…向こう数日は、大丈夫だろう)
不自然に月が揺れる日を除いて、緑翠が見世の時刻に深碧館にいないことはほぼない。外部での商談、つまり身請けの条件交渉が長引くことで、見世の始まりに間に合わないことはあるが、終わりには戻ってくるようにしている。そうでないと、楼主として芸者や宮番、世話係など働く者を守ってやれない。
ここら一帯の花街の中で、最高級館の深碧館の御客は、妖の中でも貴族が多い。必然的に、持っている妖力も、発情期の欲も強力だ。貴族最高位の皇の家名を持つ緑翠くらいしか、この廓には咄嗟に対抗できる妖はいない。ニンゲンのふたりを除いて皆、妖で、妖力は持つが、その程度はそれぞれで、平民出身が多い深碧館は、緑翠が飛びぬけて強い。
(ニンゲンが、ふたりか…)
天月はニンゲンだが宵がいて、特別守りについて考えることは少なかった。翠月にも、相手が必要だ。
(……直感を信じるなら、俺だろうな)
*
「緑翠さま、いらっしゃいますか」
「天月か」
「はい。そろそろ見世の準備があるので」
「ああ、ご苦労」
ふたりが翠玉宮の広間に戻ってきていたのには、気付いていた。ただ、出ていく前の天月が楽しそうだったのもあって、時間が許す限りふたりにさせておこうと、あえて会話に交じろうとはしなかった。
読んでいた本を閉じ広間に向かうと、紙を見ている翠月が目に入った。
「何か書いたのか?」
「天月が、宮と宮番の名前を」
「そうか」
隣に腰を下ろし、天月の書いた文字を眺める。あちらでも書くことはあったようだが、使う筆記具が違っていたらしく、天月の字はこれでも綺麗になったものだ。
ただ一語、明らかに天月のものではない文字があった。《翠月》と書かれたそれは、天月の字ではなく、翠月の字だ。確かに、天月が書見世を勧めたのも分かる。二文字しか書かれていないが、均衡の取れた達筆である。
翠月が、天月と仲良くやれそうなことは、この数時間で十分に分かった。攫われたわけでもなくこの世界に来て、孤独に思うよりはいいだろう。元の世界には、戻れない。
この世界の筆でも文字が難なく書けるのであれば、緑翠にも勧められる事はある。
「翠月は、日記をつけるのか?」
「日記?」
「自分の思いを綴るものだ。他には見せない記録で、好きに書くといい。後で一式、寝間に用意しておく。書が綺麗だから、維持のためにもな」
「はい」
深碧館で働く妖は、趣味が少ない。正確には、趣味と得意見世が一致している者が多い。特に舞見世と楽見世は、その傾向が強いように思う。
ニンゲンのふたりには、ひとりで外に出ないように言ってあるが、基本的に商屋が廓に直接売りに来るため、芸者も買い付けのために下町に下りることがない。世話係や侍女・近侍も、芸者の頼みで物を買い付けに行くことはあっても、それぞれの希望で下りる者は少ない。よって、寝間でひとりでできる日記を、趣味としている者も多い。
「紙も、準備が要るな。天月は蒼玉の一番手。御客の要望があれば、早い時は昼間でも見世に入る。話したくてもなかなか捕まらない時期もあるだろう。ニンゲンの書き言葉は、妖には部分的にしか分からない。ある程度、隠した内容も書ける。手紙として宵に渡すといい」
「ありがとうございます」
「逆に、俺や朧、侍女に何かを伝えたいときは口頭で頼む。天月から手紙をもらったことがあるが、内容がいまいち理解しきれなかった」
「分かりました」
「何か、話しておきたいことはあるか? なければ、俺も見世の準備に入る」
少し考えたのだろう、翠月の声が聞こえるまで間があった。
「……いいえ」
「食事もここに運ばせるから、用があれば侍女へ。俺が離れるから、翠月はここから出られなくなる」
「はい、分かっています」
「なら、いい」
物分かりのいい翠月が、広間を退出する緑翠に頭を下げた。天月と話したことで、緑翠が深碧館で一番上に立っていることは理解できているのだろう。手を上げ梯子を下り、侍女の双子に一言掛けてから、深碧館の上階の様子を見に行った。
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