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第一篇
3.袖振り合うも他生の縁 1
しおりを挟む不自然に揺れた月が見える。前回からはまだ、ふた月も経っていない。今夜は、向こうの世界へ渡る必要がある。陽が落ちて妖の意識が廓に向いてからが、緑翠の裏家業の時間だ。
見世が始まったこの刻になって突然、心臓の音がやたらと大きく聞こえた。
(…俺以外に、俺の妖力を持った者がいる)
広間で使っていた丸台を片付けに書斎へ入り、そのまま梯子を下りて廓の番台へと顔を出した。
「朧」
「急いていかがされました、緑翠さま」
「少し出る」
「かしこまりました」
念のために、番台の引出から棒銭を取り出し、懐へしまった。翠玉宮の土間から草履を履いて歩き出す。焦っているわけではないが、少々早足で進みつつ自身の妖力を追うと、あの本殿の方角を示した。
(俺の妖力を宿すのは、あの指輪だけ)
彼女が、渡ってきてしまった。意識をすればするほど匂いが濃くなり、先客がいるのだろう、声も聞こえてくる。
(……っ、無い、だと)
緑翠としたことが、面を持ち出すのを忘れたようだ。いくら心が騒がしかったからといえ、らしくない過ちだ。
もし他の人攫いと顔を合わせるのであれば、面がないと後々面倒になる。緑翠は、夜光に認められて裏家業をやっている。裏である以上、他の妖には隠さなければならない。ただ居合わせただけの妖であれば、表の顔で処理できる。近づいていることを相手に知られない程度、少し離れた位置で、様子を伺う。
「おお、これはこれは…」
「珍しい。迷い猫だ」
「これまた明らかな匂いのする…」
あの翠色の瞳が、揺れているのが一瞬見えた。緑翠が自身の体裁を気にしている間は、存在しない。
「奴隷としては優秀そうじゃないか」
「ニンゲンは妖力に弱いと聞くが」
「失礼する」
(この輩、指輪に気付いていない……?)
男たちの前に棒銭を落とす。廓を生業とする緑翠にとっては見慣れたものだが、下町ではまず目にしないだろう。輩が一歩下がって、緑翠から距離を取る。
「っ…!」
「…深碧館の楼主が、何故ここに?」
緑翠は、頭の半分の高さでまとめた銀髪に、淡緑色の瞳をした、この辺りの下町では名の知れた楼主だ。片耳に垂れる耳飾りは、代々深碧館の楼主が廓と共に継承してきた代物で、それ以外にも、着物の内側に隠れる長さの首飾りを下げている。
「ほう、僕の顔を知っていましたか。では話が早い」
「お前の獲物ではないだろう、俺たちが先に見つけたんだ」
「残念ながら、彼女には僕の印が既に着いていますよ」
「なっ!」
転んだのだろうか、地面に座ったままの彼女に目線を合わせるように屈み、左手を引いて親指にある指輪を目の前でちらつかせる。本当に、気付いていなかったらしい。
(俺には、はっきり感じられるのだが…)
「立てるか? 来てしまったからには、この世界の生き方を覚えてもらう」
やはり、この瞳だ。
見上げられた翠色の瞳を見て、立ち上がった彼女がひとりで歩けることを確認しつつ、そのまま手を離さなかった。身長差があるせいで、横を向いても旋毛しか見えない。合わせるように、ゆっくりと歩を進めてやる。
輩たちは棒銭に目が眩んでいるのか、追って来ない。口止め料だから、それで構わない。人攫いを生業とするには、あの輩たちは妖力を持ち合わせていなかった。彼女に会ったのは偶然だろう。
下手にニンゲンに近づかれると、緑翠が守りにくくなる。彼女が緑翠の指輪をつけていたからすぐに駆けつけることができたが、到着が遅れていたら、どうなっていただろう。考えても、道はひとつしかない。
(…いや、待てよ?)
彼女がいたのは鳥居の外で、参道や本殿ではなかった。だから、緑翠以外の妖に見つかってしまった。
「……ひとりで、歩いて来たのか?」
「歩いて?」
「長い通路がなかったか」
「御神木にもたれたら、あそこに」
「そうか」
いきなり話しかけたが、会話は返ってきた。妖力を使って彼女を探るのは、翠玉宮に帰ってからだ。ここは下町で、ニンゲンを連れて歩くだけでも本来危険だが、緑翠の外見と威圧感、そして彼女の匂いと妙な装いに、皆が近寄ってこない。
ここら一帯で最大の屋敷は、夜の賑やかさの象徴でもあり、見世の最中である今は正面からは入りづらい。長屋の隙間にのびる路地へ少し回り道をして、細い橋を渡った向こうに、翠玉宮に繋がる裏庭がある。土間に彼女を先に入れ、扉を閉めてから改めて翠色の瞳を見た。
「緑翠と言う。ここ、深碧館という廓を生業としている楼主だ。お前の名は?」
「…鳳翡翠です」
その名に、またも息を呑むこととなった。
翡翠は、姉の名だ。
「…ここでは、翠月と名乗って。真の名を言ってはいけない、いいな」
翠月の返事を待たずに、脱いだ草履を揃えるために視線を逸らした。名に驚いたことを、気付かれたくはない。
人攫いを裏家業としている以上、大抵の妖よりはニンゲンに詳しい。それでも断片的にしか知らないと思うべきだが、考えて分かるものでもない。たまたま姉と同じ名だっただけで、特別な意味はないと思いたい。
翠月の家名も、こちらの世界では貴族と同様のもので、名乗らせない方が無難だ。もし翠月がニンゲンの貴族だとしても、あの神社にひとりでいるわけがない。
緑翠に倣い、翠月が履物を脱ぐ。こちらではまず見かけない、足の甲全体を覆うような、素材も馴染のないものだ。「ついて来い」と声を掛け、梯子を上る。
「俺が生活する翠玉宮だ。翠月も、ここで生活することになる」
灯りの漏れている書斎を覗くと、朧が記録を取りまとめていた。すでに受付は終了している時刻で、見世を楽しんだ御客が帰るのを待っているのだろう。来客の勢いが落ち着いてくれば、朧が番台に居なくても、宮番たちで対応できる。
「おかえりなさいませ、緑翠さま」
「朧、寝間の用意を頼む」
「かしこまりました」
普段なら侍女に頼むが、少々翠月を見極めたかったのもあって、翠月に近づける妖の数を減らしたかった。大きく深呼吸をする。深碧館に来たニンゲンは今までも居たが、翠月は何かが異なっている気がするのだ。
広間へと移動しながら、考えを巡らせる。姉と同じ瞳と名を持つニンゲンで、迷うことのできる翠月。基本的に保護して連れて来たニンゲンは、翠玉宮とは別の、黒系宮の世話係として働かせるが、翠月にはもったいない。
(となると、芸者として育てるか? 前にもひとり、例外はいるしな……)
妖はほぼ皆、匂いが酷いからとニンゲンを遠ざけるが、緑翠はその匂いを避けるほどに感じたことはなかった。むしろ、しっかりと意識を向けないと素通りしてしまうくらいだ。黒系宮の世話係になったニンゲンも、目の前にいる翠月も、例外として芸者をやっている天月も、妖にはない変わった匂いを発しているとは思うが、嫌ではない。
広間からは、下を向けば裏庭が見えるし、前を向けば下町の繁華街と、長屋が広がっている。翠月が、露台まで出て、手すりの手前で止まる。
白の上衣に、赤い襟巻、ひらひらと揺れる紺の腰巻、膝まである足袋。やはり、変わった衣服だが、その後ろ姿は不思議とこちらの世界に馴染んで見えた。
(…この子は、ここに居続けるだろうな)
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