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第一篇
2.ハーフの中学二年生
しおりを挟む真っ黒なセミロングの髪が風になびくのを払いながら、神社の中心にある御神木に触れる。大きな幹は葉をたくさん揺らして、まだ成長し続けていることを教えてくれる。少し撫でるように手を上下させると、なぜか気分が落ち着いて、呼吸が深くなる。
翡翠は、放課後になると制服のままここに寄る。昼寝をしているうちに陽が落ちて、街灯が照らすようになってから家に帰る。この神社が特別好きなわけではないけど、半袖から見える二の腕が樹皮に当たらないようにして、身体を預けている御神木は、なんとなくあったかい。
翡翠の母は一度離婚していて、今の父は小学二年の時に再婚した相手だ。そんな父は、駅前の商店街にある住宅兼店舗で、世界から集めた宝石の原石やアクセサリーを売る店を営んでいる。会社員ではないし、変わった仕事だと翡翠は思っているが、母も普通ではなく、筝曲家として各地を回って演奏活動をしている。「簡単にはできない仕事をしている人だから惹かれた」と、初めて父と顔を合わせた時に母から紹介された。
翡翠の実父は、日本の会社で働く外国人だ。幼稚園の頃までは定期的に会っていて、金髪で背が高かったことだけは覚えている。母は、実父のグリーンの瞳が好きだったらしい。日本人にない珍しい色だから結婚したのは、聞かなくても分かる。その証明に、実父と同じ瞳を持つ翡翠に、その色を連想できる名前を付けたのは母だ。
その母の影響で、当然のように幼い頃から琴に触れていた。今では神社で近所のお年寄りに交じって練習をしている。この地域に引っ越してきた時に、母が広めて地域に定着させてしまった。
先生として立つのは、母ではなくその弟子のひとりで、毎週違う人が来る。たまに馴れ馴れしく、「大きくなったね」と声を掛けてくる先生もいるが、翡翠には区別がつかず、当たり障りのない返事をするだけだった。どうせ、一度会ってもその後年単位で会わなくなるから、覚えておく必要もない。
母の言う日本人の教養として、書道も習っている。手本が経典だったこともあり、漢字を覚えるのは同級生よりずっと早かった。日常の書き取りではもちろん楷書を使うけど、気にしていなかった頃に行書でノートを書いて、担任の先生に「字は丁寧に書きなさい」と怒られた。行書なんて、書けるわけがないと思われたんだろう。
父の商品である宝石に触れることは禁止されていたけど、小学校を卒業した二年前からできるようになった。キラキラしていて綺麗だと、ずっと思っていて、触れられるようになってすぐの頃は嬉しかった。手袋をした両手で取って、くるくると回しながら、光に当てたときの色や輝きの違いを覚えた。
誰もが経験できることではないと分かっていても、続けていくうちに、あまりポジティブには捉えられなくなった。
琴や宝石に関係するものだけではなく、和雑貨や骨董品など、高価な物で家は溢れていた。そんな中で暮らす翡翠は、《普通》に憧れた。元々、瞳の色が異なっていることで仲間外れにされやすかったし、両親の仕事も特殊だ。学校での居場所を失い辿り着いたのが、琴や書道を習いに来る神社の、御神木だった。
稽古の時は、社務所で挨拶をして、敷地の奥にある明らかに増築された、和風の外観をしたホールに向かう。でも、今みたく昼寝をする時は誰にも声を掛けない。きっと、ひとりで夜遅くまで神社にいるのを怒られるから。
琴や書道も、宝石の知識も、学校では習わない。受験でも必要ないし、知り続けて何になるんだろう。
子どもは親を選べないし、どうやっても手に入らない。翡翠は、見た目も家庭も、《普通》を欲しがった。
*
特に理由もなく、ただ眠たくならないから、御神木にもたれて空を眺めていた。陽が落ちるまではまだ時間がある。何もしていなくても、雲は流れていく。それを追いかけているだけだった。
急に低い声がして、振り返った先にいたのは、月に照らされた男の人だ。まだ、夕方で明るいのに、この人は月の光で見えていると、翡翠は思った。胸まである銀髪をなびかせ、顔を面で隠している。暗い色の着物を着て、白に近い色合いの帯を締めていた。その独特な、普通ではない外見に、目を奪われた。
その人が話した内容はほとんど理解できなかったけど、手のひらに載せられた指輪は、なんとなく身に着けておく方がいいと思った。左の親指にはめてみると、少し緩くても落ちはしない。淡い緑色は、不思議と手に馴染んだ気がした。
*
宝石やアクセサリーに目がない父に何か言われると思ったのに、目を向けられもしない。試しに学校へそのまま着けて行っても、誰も触れてこない。
(…この指輪、もしかして見えてないの?)
次の日もその次の日も、わざと左手を、親指が見えるように使った。父もクラスメイトも先生も、絶対に見えているはずなのに、気にする様子がない。
(あの、お面の人に、また会わなきゃ…!)
御神木には悪天候でない限り毎日通っているが、今まで会ったことがなかったあの人に、どうしたら会えるのか、全く分からなかった。翡翠にできることは、あの日と同じように、とにかく毎日、御神木にもたれかかって月を見上げることだけだった。
*
街では夏祭りが行われ、この暑い中みんなが騒いでいるんだろう。でも翡翠は、いつもと同じように静かな神社に来た。
数年前まで神社の参道に出されていた屋台は、今では再整備された駅前広場に移され、神社は夏祭りの中心地ではなくなった。御神木が大量に葉をつけているからか、神社はなんとなく涼しい。
父は、小ぶりの手に取りやすいアクセサリーを売る屋台を店前に出しているはず。この時期には必ず帰ってくる母は、弟子と一緒に駅前の特設舞台で琴を鳴らしているはずだ。帰りが遅くなっても、いつも通り、何も言われない。
(月が、綺麗だ…)
そう思いながら御神木にもたれかかると、そのまま後ろに倒れ込んだ。身体を起こして見た景色は、さっきまで見ていた神社とは異なっていて、翡翠の記憶にはないものだった。
(…中華街みたい。なんだここ…?)
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