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第一篇
1.廓の楼主
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(あちらの世界に行くのは、久々…。もう半年が経とうか)
普段通り見上げた月は、妖しく不自然に揺らめいて、緑翠の心を少々騒がせた。
今日の廓は、無理な要求をする御客も居らず、緑翠の表の顔、廓の長である楼主が出る幕はなさそうだった。代理の朧に任せても、無事に見世を終えるだろう。
なびく銀髪はそのままに、土間で面を着け草履を履いて、ひっそりと抜け出した。楼主である以上、見世の時刻に廓に居ないと御客に思われたくはないし、舐められたいわけでもない。あくまで別の用があるだけだ。
夏へ移ろう今の時期は、少しじめじめとして、着物が肌に張り付く感覚がある。あまり外で動きたくないが、これも仕事のひとつだ。廓の裏から、あちらの世界との玄関口となる神社へと向かう。
鳥居を潜り参道を抜けて、妖力を放ちながら本殿の奥へ進む。神に許された妖力を持つ者しか入れない場所だが、最近は無理に侵入を試みる輩もいる。妖力の不一致で逆に当てられ、図体がいくつも転がっている。
神とは、天皇の先祖の集合体であるらしい。現世では亡くなった者だが、実際には神社で生活しているとされ、緑翠にもその真偽は分からない。現世に生きる者が近づくには、天皇に位が近く、持っている妖力も高い、貴族の中でも高位でなければならない。
(浅ましい…。身の程を知れ)
道中に倒れている妖を足で端へ寄せながら、緑翠は歩き続ける。やがて見えてくる光の中へと進むと、その先には御神木と呼ばれる、注連縄の巻かれた一本の大樹が現れる。それが見えれば、ニンゲンの世界へ入った証拠だ。
(静寂で、無人であれ)
願いつつ顔を上げると、御神木に背中を預け、風になびく肩程の黒髪が目に入った。妖に連れられていない彼女は、匂いからも間違いなくニンゲンである。その目線を追って見上げると、こちらの世界でも月が揺れていた。
緑翠は、一息吐いた。見つけてしまったものは仕方がない。
やや上を向いた彼女は、空を見て何を思うのだろう。ニンゲンは、特に月を意識せずに日々を過ごすらしいが、全員がそうとは限らない。
表情までは見えず、衣の擦れる音すら立てずに近づいた。妖力を張って、彼女の心を視る。ニンゲンは、妖力に当てられる。それが妖の共通認識だが、調整をしてやれば気を失うなどの大きな問題にはならないはずだ。
確信を持てないのは、緑翠が連れて来たニンゲンの天月が結界の弱い妖力ですら当たっており、個体差が激しいらしいからだ。その程度でも耐えることが難しいのであれば、心を探るのは負荷だろうと分かりつつ、渡って来たばかりの天月には少々手荒い真似をさせてもらった。
妖の世界に迷い込んだニンゲンを連れ帰り、囲って生活させることが、緑翠の裏家業だ。大昔には否応なくニンゲンを攫ってきたことから、《人攫い》と呼ばれているが、現在は天月のような例外もありつつ、保護を主軸としている。
ニンゲンは、神社から妖の世界にやってくる。神の住処から入ってくるニンゲンを、妖は拒絶できない。一緒に生活する道を数百年かけて見出したが、それはニンゲンの立場を下げることだった。妖力すら持たないニンゲンを、とにかく弱い立場として扱うのが妖だ。緑翠は、ニンゲンに生きる場所を与え味方となることを、現天皇である夜光に裏家業として頼まれているのである。
目の前の彼女が御神木に近づいているということは、時期や場所を間違えれば、妖の世界へと渡って来てしまうことを意味する。多少、何かに迷ってはいるようだが、大きな動揺ではない。他の意見に言いなりにならず、考えているからこそ迷うことができる。そのための、純粋な心が残っている。
妖の世界に迷い込んでしまうには、もったいない子だ。自分の世界で、生きるべき意思がある。背後まで近づいた緑翠は、彼女に話しかけた。
「ここから先に、来てはいけない」
「……?」
振り返って緑翠を見るその瞳は、見開かれていた。彼女は、緑翠に真っ直ぐ視線を向けたまま、逸らそうとも逃げようともしない。
緑翠も、息を呑んでいた。彼女は、緑翠が会うことを許されていない、姉に似寄った翠色の瞳を持っている。
「…僕の他にも人攫いはいるが、僕以外の妖について行ってはいけない」
「妖?」
「これがあれば、君を守ることができる」
左の人差し指に着けていた指輪を外し、さっと握って微量の妖力を込めてから、小さな手に乗せた。心を視た時と同じく、ニンゲンが耐えられる量のはずで、指輪自体の価値も大したものではない。一瞬でも、その指輪を感じた妖が怯めばいい。
「これは、指輪? 守る?」
「君は狙われるよ」
「ねえ、何を言って…? 狙われるって?」
「僕はもう行かないと。いいかい、ここにはもう近づいてはいけない」
時間を掛けて説いてやることもできるが、誰かに見られていれば厄介だ。それに、彼女とはまた会う予感がしたから、指輪を与えた。
(次に出くわすのが、妖の世界でないといいが…)
*
(…何故、こんなにも頭から離れない?)
ここまで頻繁に思い浮かべることになるとは想定外である。
今日の月は妖しく光っているが、揺れてはいない。あちらの世界に行くべき日ではない。問題を起こすような御客も居らず、朧に任せた廓は、平和に見世を過ごしていく。
緑翠は自身の生活する翠玉宮の広間から繋がる露台で、胡坐をかいてじっくりと本を読むつもりが、気も漫ろで文字が頭に入らない。一息吐いてみても、何も変わらない。
こんなにも落ち着かない理由は、ひとつしかない。前回渡った時に出会った、あの翠色の瞳だ。本と一緒に持ってきた、日記に挟んでいる一枚の写真を手に取る。やはり、似ている。
あの日から、ふとした瞬間にあの瞳が過ぎる。ただ似ているだけだと思っても、心を奪われる瞳だった。
本と日記、それから写真を書斎に戻し、組紐を組むための丸台を出してくる。緑に染色された糸で自作した組紐は、手首や足首にも身に着けているし、毎日髪を結うことにも使っている。長く組めば帯の飾り紐にもできるが、緑翠は芸者ではないため巻いていないし、芸者に贈ることもない。読書よりも考えることの少ない単純作業は、心を休めてくれる。
(…それにしても、嫌な気掛かりが残ったものだ)
普段通り見上げた月は、妖しく不自然に揺らめいて、緑翠の心を少々騒がせた。
今日の廓は、無理な要求をする御客も居らず、緑翠の表の顔、廓の長である楼主が出る幕はなさそうだった。代理の朧に任せても、無事に見世を終えるだろう。
なびく銀髪はそのままに、土間で面を着け草履を履いて、ひっそりと抜け出した。楼主である以上、見世の時刻に廓に居ないと御客に思われたくはないし、舐められたいわけでもない。あくまで別の用があるだけだ。
夏へ移ろう今の時期は、少しじめじめとして、着物が肌に張り付く感覚がある。あまり外で動きたくないが、これも仕事のひとつだ。廓の裏から、あちらの世界との玄関口となる神社へと向かう。
鳥居を潜り参道を抜けて、妖力を放ちながら本殿の奥へ進む。神に許された妖力を持つ者しか入れない場所だが、最近は無理に侵入を試みる輩もいる。妖力の不一致で逆に当てられ、図体がいくつも転がっている。
神とは、天皇の先祖の集合体であるらしい。現世では亡くなった者だが、実際には神社で生活しているとされ、緑翠にもその真偽は分からない。現世に生きる者が近づくには、天皇に位が近く、持っている妖力も高い、貴族の中でも高位でなければならない。
(浅ましい…。身の程を知れ)
道中に倒れている妖を足で端へ寄せながら、緑翠は歩き続ける。やがて見えてくる光の中へと進むと、その先には御神木と呼ばれる、注連縄の巻かれた一本の大樹が現れる。それが見えれば、ニンゲンの世界へ入った証拠だ。
(静寂で、無人であれ)
願いつつ顔を上げると、御神木に背中を預け、風になびく肩程の黒髪が目に入った。妖に連れられていない彼女は、匂いからも間違いなくニンゲンである。その目線を追って見上げると、こちらの世界でも月が揺れていた。
緑翠は、一息吐いた。見つけてしまったものは仕方がない。
やや上を向いた彼女は、空を見て何を思うのだろう。ニンゲンは、特に月を意識せずに日々を過ごすらしいが、全員がそうとは限らない。
表情までは見えず、衣の擦れる音すら立てずに近づいた。妖力を張って、彼女の心を視る。ニンゲンは、妖力に当てられる。それが妖の共通認識だが、調整をしてやれば気を失うなどの大きな問題にはならないはずだ。
確信を持てないのは、緑翠が連れて来たニンゲンの天月が結界の弱い妖力ですら当たっており、個体差が激しいらしいからだ。その程度でも耐えることが難しいのであれば、心を探るのは負荷だろうと分かりつつ、渡って来たばかりの天月には少々手荒い真似をさせてもらった。
妖の世界に迷い込んだニンゲンを連れ帰り、囲って生活させることが、緑翠の裏家業だ。大昔には否応なくニンゲンを攫ってきたことから、《人攫い》と呼ばれているが、現在は天月のような例外もありつつ、保護を主軸としている。
ニンゲンは、神社から妖の世界にやってくる。神の住処から入ってくるニンゲンを、妖は拒絶できない。一緒に生活する道を数百年かけて見出したが、それはニンゲンの立場を下げることだった。妖力すら持たないニンゲンを、とにかく弱い立場として扱うのが妖だ。緑翠は、ニンゲンに生きる場所を与え味方となることを、現天皇である夜光に裏家業として頼まれているのである。
目の前の彼女が御神木に近づいているということは、時期や場所を間違えれば、妖の世界へと渡って来てしまうことを意味する。多少、何かに迷ってはいるようだが、大きな動揺ではない。他の意見に言いなりにならず、考えているからこそ迷うことができる。そのための、純粋な心が残っている。
妖の世界に迷い込んでしまうには、もったいない子だ。自分の世界で、生きるべき意思がある。背後まで近づいた緑翠は、彼女に話しかけた。
「ここから先に、来てはいけない」
「……?」
振り返って緑翠を見るその瞳は、見開かれていた。彼女は、緑翠に真っ直ぐ視線を向けたまま、逸らそうとも逃げようともしない。
緑翠も、息を呑んでいた。彼女は、緑翠が会うことを許されていない、姉に似寄った翠色の瞳を持っている。
「…僕の他にも人攫いはいるが、僕以外の妖について行ってはいけない」
「妖?」
「これがあれば、君を守ることができる」
左の人差し指に着けていた指輪を外し、さっと握って微量の妖力を込めてから、小さな手に乗せた。心を視た時と同じく、ニンゲンが耐えられる量のはずで、指輪自体の価値も大したものではない。一瞬でも、その指輪を感じた妖が怯めばいい。
「これは、指輪? 守る?」
「君は狙われるよ」
「ねえ、何を言って…? 狙われるって?」
「僕はもう行かないと。いいかい、ここにはもう近づいてはいけない」
時間を掛けて説いてやることもできるが、誰かに見られていれば厄介だ。それに、彼女とはまた会う予感がしたから、指輪を与えた。
(次に出くわすのが、妖の世界でないといいが…)
*
(…何故、こんなにも頭から離れない?)
ここまで頻繁に思い浮かべることになるとは想定外である。
今日の月は妖しく光っているが、揺れてはいない。あちらの世界に行くべき日ではない。問題を起こすような御客も居らず、朧に任せた廓は、平和に見世を過ごしていく。
緑翠は自身の生活する翠玉宮の広間から繋がる露台で、胡坐をかいてじっくりと本を読むつもりが、気も漫ろで文字が頭に入らない。一息吐いてみても、何も変わらない。
こんなにも落ち着かない理由は、ひとつしかない。前回渡った時に出会った、あの翠色の瞳だ。本と一緒に持ってきた、日記に挟んでいる一枚の写真を手に取る。やはり、似ている。
あの日から、ふとした瞬間にあの瞳が過ぎる。ただ似ているだけだと思っても、心を奪われる瞳だった。
本と日記、それから写真を書斎に戻し、組紐を組むための丸台を出してくる。緑に染色された糸で自作した組紐は、手首や足首にも身に着けているし、毎日髪を結うことにも使っている。長く組めば帯の飾り紐にもできるが、緑翠は芸者ではないため巻いていないし、芸者に贈ることもない。読書よりも考えることの少ない単純作業は、心を休めてくれる。
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