隠密王子の侍女

垣崎 奏

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 ノインには生まれつき、背中の肌に色の濃い部分があった。皆が痣と呼ぶその箇所を気味悪がられ、ひとりで歩き回れるようになった頃には親に売られた。

 幼すぎて、当時の記憶は曖昧だ。それでも、親からも痣を嫌われたのは覚えていた。自分が何歳なのかも正確には分からないが、貴族の主人に買われた後、親代わりとなった使用人から見た目で年齢を決めてもらい、今は十五歳として生きている。

 奴隷として働かされ、屋敷にいないことが分かった時の体罰を覚悟で、ひとりで街に出た。使用人より奴隷の方が命が軽いことは知っていたから、「調味料が足りなくなった」と料理人に面と向かって言われてしまえば、差し出された貨幣を受け取って、気を利かせるしかなかった。

 街には、数回出たことがある。親代わりの使用人が、休暇にこっそりと連れ出してくれた。ノインがまだ幼く、帰省の荷物に紛れられた頃の話だ。

 奴隷ではあるものの、物の買い方は知っていたし、文字も多少読めた。今はもう、親代わりだった使用人は亡くなって、こうして隠れてひとりで街に出る。人混みに紛れながら、たまに通る車に引かれないよう気を付ける。

 使用人たちはそんなノインを便利だとこき使う。当然だ。奴隷は使用人とは違い、無給の下働き。使用人は、主人と正式に契約関係がある。街に出て屋敷の買い物をすることは、契約の範囲外なのだ。

 無事に調味料を買い店を出て走ろうとした時、前がちゃんと見えていなかった。誰かにぶつかり、姿勢を乱してしまった。

「大丈夫か」
「……っ」
「あっ……」

 声を掛けられたが、本来ノインは街に居てはいけない。頭を布で覆った謎の人物の、一瞬合った紫色の瞳が、脳裏に焼き付いた。


 ◇ ◇ ◇


 走って逃げてしまった少年の、表情が気になった。少しでも立ち止まってはいけないと、脅迫されているようにすら見えたが、その環境で生き抜く意思を持っている、強い瞳は印象に残った。

 茶髪に茶色の目。貴族の生まれではないだろう。庶民だったとしても、あんな勢いで去る必要はないだろうに。

「…………ルー」
「気になりますか」
「ああ」
「少し、調べてみます」


 ◇


 後日届けられた側近ルーファスとその部下たちの調査結果は、王子セオドアを大変満足させた。王国有数の名家のひとつが、大昔に禁止された奴隷取引をしていたことが判明したのだ。

 三年ほど、たっぷりと時間をかけ証拠を集め取り囲み、王国の損害も少なく告発した。これから、逃げる間も与えないほど迅速に、王国の部隊がその屋敷に向かうことになるだろう。

「他の家も、探らなければ」
「ええ」

 使用人など、関与していなかった人物に対しては、再就職を斡旋する。奴隷とされていた子どもたちは、使用人として別の貴族に雇われるか、幼ければ孤児院へ送られる手筈になった。当然、親元が分かり拒否されなければ、そこへ帰すことが優先された。


 ◇ ◇ ◇


「これで家に居る者は全員か?」
「そのはずです。地下まで確認いたしました」

 玄関ホールに、公に知られていないはずの奴隷まで集められている。屋敷には色とりどりの勲章をつけた衛兵がたくさんやってきて、主人や執事は手枷を嵌められ先に連れて行かれた。

 表に出された以上、これからの人生がどうなるのかは分からない。いっそ、処刑されてしまって人生が絶たれるのもひとつ、手ではある。

 奴隷として働くことは、自分を殺すこと。給金もなく、とにかく体罰を受けないように動くだけだった。

 体罰を受けて身体が動かなくなれば、奴隷としての価値もなくなり、屋外に放置される。その結果を、十八歳になったノインは知っていた。屋敷の敷地の端、街への抜け道の近くで、白骨を見たことがある。

 たぶん、それよりはまだ、一日中何かしらの労働を与えられ、時間が過ぎる方がよかった。痛いと感じることも、徐々に無くなってはいた。

 ノインの目の前に、ひとりの大人が立ち止まった。自分に用があるのかと顔を上げようとすると、相手はしゃがみ、ノインと目線を合わせた。衛兵服ではなく、執事服よりもかっちりした衣服に見えるその人の瞳は、優しかった。

「君は、こちらへ」
「……はい」

 王家の側近を務めるという、ルーファスに引き取られた。ルーファスは車の中で、ノインが今後働く場所は王宮、しかも「セオドア王子付きの使用人になって欲しい」と言った。

 何故、奴隷として働いてしかこなかった自分が、そんな立場に選ばれたのかと混乱したが、慌てたところで何も変わらない。自由になれるわけでもなく、流れに任せることにした。

 セオドア王子については聞いたことがなく、何も知らなかった。そもそも、世間のことを何も知らないに近い。使用人の噂話を小耳に挟む程度で、王家はとても遠い存在だった。

 車はルーファスの屋敷には寄らず、そのまま王宮に直行した。奴隷として生地の薄い服を着ていたこともあり、王宮前にいた衛兵が顔を歪めるほど、身体検査の必要もない身なりだった。

 こんな格好で会うことは普通ではないと、その反応を見て思いつつ、ルーファスと共に王宮の廊下を進む。ルートが分からなくなるほど歩いて、立ち止まった。

 ルーファスに「待っていなさい」と指示され、素直に従った。ルーファスが扉をノックし、室内を窺っている。

「セオドア様、連れてまいりました」
「入って」
「…………」

 ノインは顔を伏せたまま足を動かし、書斎机の前で止まった。こんな大きな机、公爵家でも見たことがない。ノインが入るのを許されていなかった部屋にはあったのだろうか。

 ゆっくりと顔を上げると、声の主がいる。目に入った王子は、紫色の瞳をしていた。

「……っ!」
「三年ほど前になるが、覚えていたか。あの時はお忍びだったんだ。セオドアと言う」

 ノインは驚き、その場に立ち尽くした。三年前とはいえ、街に出て人にぶつかったのはそれ以外にない。使用人や奴隷、仕えた貴族を含め、ノインが知る限りのどの人間にも紫色の瞳はおらず、印象的だったのだ。

「……王子だったんですね」
「そうだ。あの時の君が気になって、今回、君の……、主人だった公爵を拘束することができた。奴隷制度はとうの昔に禁止されている。だから、きっかけとなった君を僕の使用人にしたかった。出世と言えるかは分からないが」
「そういう……」

 話を理解した。今回ここに連れてこられたのも、納得できる気がした。

「名前を聞いても?」
「あ……、えっと、ノインと、呼ばれていました」
「呼ばれていた?」
「奴隷はみな、番号で……。ここに、数字が彫られてて」

 ノインは自分の服の襟を引いて、鎖骨の下辺りを見せた。目の前にいるのが王子でも、ノインは作法を知らない。

「そうか、奴隷になる前の名は?」
「小さかったので、覚えていません」
「では、僕が名付け直そう。そうだな……、ノアはどうだろう」
「はい、なんでも」

 ノインにとって、名前などただの呼び名に過ぎない。何と呼ばれようと、誰かと区別できればそれで問題がなかった。

「今から、君はノアだ。僕の使用人で、屋敷全体に関わることは別の者に任せて問題ない」
「はい」
「一旦は、今までの侍女から仕事を引き継いで欲しい。後々、この部屋に立ち入れるのはノアと、君の後ろに立っている側近のルーファスだけにしたい」
「分かりました」

 王子の使用人がどれだけのことをやる必要があるのか、ノアは知らなかった。ただ、奴隷だったノアひとりでも、できる作業量なのだろうと、想像はついた。実際、昨日までのノアは奴隷として、他の者よりも働いていた自覚はある。たぶん、要領は良い方だ。

「それからノア、非常に言いにくいことだが、性別を偽ることを、罪だと感じるか?」
「え?」
「基本、身の回りの世話をするのは女性だ。僕の立場もあって、男性として出入りが見られると少々ややこしい。侍女の制服を着ることに、抵抗はあるか?」
「いいえ、服がもらえるならそれで」

 ノアにとっては、仕事が不自由なくできるなら、服も名前同様、何でもよかった。


 ◇


 ノアには、王家や貴族の常識が分からなかった。

 セオドアが私室で食事を摂り、誘われるまま同じ席でノアも食べた。給仕室からふたり分の食事を持ち出すと、不思議そうに見られたが、話は通っているのだろう、声を掛けられることはなかった。セオドアと同じような、様々な道具を使う食べ方はできなかったものの、咎められなかった。

 湯浴みも、セオドアを手伝うだけではなく、ノアも一緒に入った。元奴隷のノアが、王子であるセオドアの命令を拒否することはできないし、背中を見られることはどうでもよかった。それに、痣を見ても、セオドアは何も言わず、むしろ背中を流してくれた。

 ノアが寝るための部屋は用意されているらしいが、一度も入ることなく、セオドアのベッドへ誘われた。セオドアがノアの手を握ってくる。王家ではこれが普通なのかと、ノアは受け入れた。確実なのは、主人である王子の言動が絶対であることだけだ。

「ノアは、何故あの屋敷に?」
「親に売られました。生まれつき痣があって、気味が悪いと」
「ああ、背中のか……。誰かに見られることに、抵抗は?」
「『抵抗』?」
「僕に見られるのは、嫌ではなかった?」
「嫌……、じゃなかったです」
「ん……? 痛くはないのか?」
「全く」
「そうか……、辛かった?」

 ノアは、少し考えた。痛みを感じることは、ここ数年、いや、もっと長い期間なかった。嫌とか辛いとか、そんな感情を抱いたことはあっただろうか。今みたく、何か言葉を発するために、待ってもらったことはあっただろうか。

「……『嫌』も『辛い』も、分かりません。忙しく働いて、感じる余裕はなかったので」
「ここでの生活なら、時間はずっとゆっくり流れる。無くした感覚も、徐々に知っていけばいい」
「……? はい」

 奴隷として生きてきたノアは、それが自分にとってメリットがあるのかどうか、この時はよく分かっていなかった。
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