PRISONER 2

桜坂詠恋

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 伏見高校2年の桜井鈴音は、同じクラス委員の倉木柊斗と、普通教室棟から離れたところに位置する科学準備室へ向かっていた。
 担任のもとへ毎朝出席簿を取りに行くのが、クラス委員である鈴音の日課だからである。
 勿論、ここへ来る理由はそれだけではない。だからこそ、倉木はついてきた。鈴音を1人でここへ向かわせたくないのだ。
「おはよーッス」
 いつもの如く、倉木はノックもせずに準備室のドアを開けた。
「あれ?」
 室内は無人だった。しかし、窓は大きく開け放たれており、この部屋の主が既に出勤している事を示している。
「都筑いねえじゃん。ラッキー」
 倉木はパチンと指を鳴らすと、ずかずかと部屋の中へ入っていく。
 そして、憎き美貌の担任の椅子に腰掛けると、窓の桟に寄りかかる鈴音に向き直った。
 目の前の、自分よりも20センチ以上小さくて、白く華奢な少女は倉木の想い人だ。この春に思い切って想いを告げたものの、見事玉砕。
 だが、勿論未だに諦めてなどいない。隙あらば狙っていくつもりでいる。
 彼女の恋人が、ある意味最強の男であっても、大人しく引く気などさらさらなかった。
 爽やかで快活なスポーツ少年との呼び声高い倉木だが、その負けん気としつこさは意外と知られていない。
 一時は告白した所為と、その際にキスまでした所為で避けられていたが、鈴音と同じ店で暫くバイトする事になったお陰で、その溝は埋められたようだ。
 最近は前以上に親しくなれたと倉木は自負している。これは有り難い事だった。
 鈴音の恋人にはつくづく腹が立つが、このチャンスを与えてくれた事には感謝している。
 倉木はしつこいが素直なのだ。
「あのさ」
 鈴音のスカートから伸びる足にドキドキと跳ね上がる心臓を押さえ付けると、倉木はにっこりと笑って見せた。
「俺、新しくバイト始めたんだよ。言ったっけ」
「ううん」
 鈴音はふるふると頭を振った。だが、それだけで何も聞いて来ない。
 倉木はポリポリと頬をかくと、苦笑した。
「どんなのか、聞かないの?」
 一瞬の沈黙。
 そしてようやく倉木が聞いて欲しいのだと言う事を悟ったらしい。
 小首を傾げると「どんなの?」と聞いた。
「ま。そうまで聞かれちゃ、言わないわけにもいかないかなー」
「じゃあいい……」
「聞いて、桜井。お願い」
 結局倉木は懇願した。
 その余りの低姿勢振りに、思わずくすくすとくすぐった気に肩を震わせ、鈴音も笑い出した。
「どんなバイト始めたの?」
「執事カフェ」
「執事カフェ?」
 鈴音は目をぱちくりさせて倉木を見た。
 その驚きように満足気な笑みを浮かべると、倉木は椅子の上で足を組み、膝を抱えた。
「そ。執事よ、執事。メイドじゃないぞ?カッケーっしょ?」
「うーん。よく分んないけど……」
「制服がまたイカスんだよ。ノーブルってヤツ。惚れるよ」
「そうなの」
 鈴音はやはり相槌しか打たない。ソワソワしているようにも見える。担任の所在が気になるのだろうか。
 倉木は唇を突き出すと、上目でちらりと鈴音を見上げた。
「なんでバイト始めたか聞かないの?」
「……どうしてなのかな」
 一瞬の間があったものの、自分の思い通り聞き返してくれた鈴音に「フフン」と得意気に鼻で笑うと、倉木は「ジャーン」と自ら効果音をつけて財布から1枚のカードを取り出した。
「俺ね、中免持ってんの。実は」
 鈴音は免許証を受け取ると、まじまじとそれを見た。
 そこには人相の悪い倉木が写っている。それと本人を見比べ、鈴音はコッソリ笑った。
 倉木はそれに気付いていない。鼻の穴を広げ、フンフンと自慢気だ。
「なんつーかさあ。バイク買ったら、やっぱ一番最初に乗せんのは惚れた女だって思うのは、定石じゃん?」
 言いながら、倉木は事務椅子に座ったまま鈴音の直ぐ前まで進み出ると、鈴音の小さな手を握った。
「ね。わかる?」
 言って、鈴音の両脇を広げた膝でブロックする。鈴音との距離はもはや20センチもないだろう。
 倉木の心臓は、鈴音から漂う石鹸の匂いに爆発しそうだった。
 かっと身体が熱くなり、息が上がる。
 それを悟られまいと俯くと、倉木は搾り出すように言った。
「俺、桜井乗せたいんだよ」
「あの……倉木君、後ろ……」
「そう。俺の後ろ」
 倉木は鈴音のウエストに手を伸ばした。
 これはチャンスだ。
「桜井、好き……げこっ!」
 鈴音の細い身体を抱き締めようとした倉木は、潰れたカエルのような悲鳴上げ、がくっと項垂れた。その頭の上に生えているのは、ブリケンシュトック。ではなく。ブリケンシュトックを穿いた足が踵から落とされていた。
「ったく。懲りんヤツだな」
 そう静かで冷たい声が倉木の背後から響いた。
 聞き間違えるはずがない。
 倉木の担任であり、鈴音の恋人である都筑駿、その人である。
「……ってぇな!」
 倉木は頭上の足を払い落とすと、背後を振り返った。
 しかし、すでに都筑の姿はない。そして直ぐにまた背後から都筑の声がした。
「鈴音」
 倉木の想い人の名を呼ぶその声は優しく、甘い。
 倉木はムッとした。
「無視かよ!」
 そう言って眉を吊り上げる倉木が座った事務椅子を、くるりと振り返った都筑は、容赦無くガツンと蹴り飛ばした。
「コラーーッ!!」
 倉木の絶叫も虚しく、事務椅子は勢いよく部屋の隅に向かって滑り出して行く。
 都筑はそれを見送りもせず、鈴音の頬に手を伸ばした。
「お、おはよう……ござい、ます」
 おずおずと自分を見上げる鈴音に、都筑はにっこりと笑いかける。
 そして
「おはよう」
 そう言うと、倉木の眼前であるにも拘らず、長身を屈めて堂々と鈴音にキスをした。
 と同時に、部屋の隅でガチャンと大きな音がし、次いでバサバサと書棚から大量の本が落ちた。激突した倉木が椅子ごとひっくり返ったのだ。
「テメーは……」
 崩れ落ちた本の山から、倉木はゆらりと立ち上がった。
「なんだ、倉木。いたのか」
「踵落としした挙句に蹴り飛ばしといて、今更いたのかはねえだろ!」
 頭に載っていた本を床に叩き付けると、倉木はギリギリと歯噛みしている。
 そんな今にも飛び掛ってきそうな少年の前に立つと、都筑は白衣の腕を組み、床を見渡した。
「あーあ。こんなに散らかして。ちゃんと片付けろよ」
 倉木が怒りをむき出しにしているのとは対照的に、都筑は涼しい顔だ。
 大人の余裕をまたしても見せ付けられ、倉木は地団駄を踏んだ。
 世の中、なんて不公平なのだろう。
 この男は、倉木の前では冷徹極まりない鬼であるにも拘らず、一歩外へ出れば、金八先生も徳川龍之介も真っ青の人気教師だ。
 温和で紳士的。優しく真面目な都筑先生。
 そのイメージを徹底して守り、教員を始め生徒の信頼も厚い。
 その上、その辺のモデルも、イケメン仮面ライダーも降参するほどの美貌。
 皆騙されているのだ。倉木はそう思っている。
 オマケに自分の好きな女まであっさりと手に入れてしまった。
 あんなサドの何処がいいんだと、何度鈴音に言ったかわからない。
「あのなあ!」
 倉木は肩を怒らせ、都筑を指差した。
「俺が桜井に惚れてんのイヤって程知ってるくせに、目の前でチューとはなんだ!いたいけな少年のガラスのハートを滅茶苦茶に踏み躙りやがって!罪の意識はないのか!このケダモノ!鬼畜!エロオヤ……」
「失せろ。単細胞」
 悪口雑言を吐き暴れる倉木の首根っこを掴むと、都筑は廊下へと放り出した。
 そしてピシャリとドアを閉めると、内鍵をかける。
「開けろ!このヤロー!桜井ぃぃぃ!」
 倉木は大声で叫びながら、どかどかとドアを叩いている。古い引き戸はがたつき、今にも外れそうだ。
 都筑は大きく溜息をつくと、巨大な標本棚をいともたやすく移動させ、ドアの前にバリケードを作ってしまった。
「よし」
 そう言ってパンパンと手をはたくと、都筑は倒れた椅子を起こしてデスクの前へと戻し、よっこいしょ。と腰掛けた。
「オジサンみたい」
「鈴音までそう言う事言わないの」
 都筑はメガネの奥から軽く鈴音を睨む。だが直ぐにその目を細めた。
「今日は職員朝礼に遅れなかったよ」
 そう言うと、自分の真新しい腕時計をコツコツと指先で叩く。
「有難う」
 それは、鈴音がメイドカフェでバイトをして資金を作り、都筑にプレゼントしたものだ。
 都筑の使っていた時計が、いつも遅れていたのを知っていたからだった。
「大事にしてね」
「するよ。でも、2番目にね」
 都筑は座ったまま鈴音を引き寄せると、その腰に手を回した。
「2番なの?」
 鈴音は不満そうだ。都筑の白衣の襟を弄りながら唇を尖らせている。
 そんな様子を楽しそうに眺めながら、都筑は「そうだよ」と、鈴音の尖らせた唇に軽くキスした。
「俺の1番は鈴音だからね」
「ホントに?」
「俺がウソ吐いた事ある?」
 言ってから、都筑ははたと考え込んでしまった。鈴音がスッと目を逸らしたからだ。
 途端に不安になり、体中からダラダラと嫌な汗が流れて出てくる。
「いや……ちょっと待って」
 記憶にはない。記憶にはないが……都筑は慌てた。
「えーっと。あったかな。あった?」
「さあ。憶えてません」
「そりゃ良かった」
 心底ホッとして胸を撫で下ろす。
 鈴音はそんな都筑を見て、くすくすと笑い出した。
「この──」
 鈴音の膝の裏側に手をかけて引く。
 不意に足を折られ、腰から落ちていく鈴音の身体をふわりと抱き上げると、都筑はデスクの上に鈴音の身体を倒した。
「やっ」
 小さく悲鳴を上げる鈴音の足の間に身体を滑り込ませると、都筑は鈴音の上に覆い被さり、制服の襟元を飾るネクタイに指をかける。
 その顔には、意地の悪い笑みが浮かんでいた。
「俺をからかうとどうなるか、教えてあげる」
 鈴音は慌てて都筑の手を掴んだ。校内でだなんて冗談じゃない。
「だっ……だめっ。誰か来たら──」
「誰も入って来れないよ」
「でもっ」
 シュルシュルと音を立ててネクタイが抜き取られ、鈴音の両手首はあっという間に縛られてしまった。
「お仕置きしてやる」
「ねえ、もう教室に……」
 都筑に頭上で縛られた手を押し付けられた鈴音は、なんとか逃れようと身を捩っている。
 その身体を自分の胸で押さえ付けると、都筑は鈴音の顎を捉えた。
「ダメ。朝礼まで、まだ時間あるでしょ」
 言いながら舌先で鈴音の唇をなぞる。すると、鈴音の胸がピクンと小さく跳ね上がった。
「ふ」
 短く息を漏らし、歯を食いしばると、苦しげに唇を真横へ引く。
 それを確認すると、都筑は鈴音の襟元を広げた。
「直ぐ終わらせてあげるから。ね?」
 上目で鈴音の表情を眺めながら、鎖骨から首筋、耳へと唇を滑らせる。
 このルートは鈴音の弱点だ。あとはスイッチを入れてやればいい。
「鈴音、愛してる」
 鈴音の耳に唇を押し当て、そう言った時だった。
 都筑の後頭部に、何かがボコッとぶつかり、次いでゴトリとデスクに転がった。
「いって。何だこれ」
 クラキ。
 灰色に変色したそれにはそう書かれていた。
「朝っぱらから何やってんだ!淫乱教師ッ!」
「……ここは3階だけど」
 ゆっくりと鈴音の上から身体を起こすと、都筑は窓から進入してきた倉木を睨み、自分の頭を直撃した汚いズックを投げ返した。
「フッフッフ。どうだ。驚いたか。隣の実習室の窓とここの窓は1メートルと離れてねえんだ。つか、今実際渡って気付いたけど。流石に死ぬかと思ったぜ!」
「曲芸師か、オマエは」
「桜井の為なら命はれんだよ、俺は」
 言いながら、倉木はガタガタとバリケードを移動させる。
 それを人事のように眺めながら、都筑はパチパチと拍手した。
「天晴れ、下僕魂」
「誰が下僕だ。ったく。行くぞ、桜井」
 倉木は出席簿と鈴音を抱えると、肩を怒らせ準備室を後にした。



 「ねえ、倉木君待って」
 倉木に引き摺られるようにして歩いていた鈴音が苦しげに訴えるのを聞いて、倉木はようやく我に返った。
「なに?どうした?」
「これ」
 腰を折り、乱れた息を整えると、鈴音は両手を差し出した。
「あ」
 倉木の目は鈴音の手首に釘付けになった。
 その手はネクタイで括られたままだったのだ。まるで中世の囚人である。
 鈴音は自分よりずっと上にある倉木の顔を見上げると、眉尻を下げた。
「お願い。取って?」
 その声と目にくらくらする頭をブルブルと振ると、倉木は頷いた。
「ったく、あの先公はしょうがねえな。見してみ」
 さも仕方がないと言わんばかりに差し出された鈴音の手を取り、結び目を探す。初めて握る鈴音の手首は、折れるのではないかと危惧するほどに細かった。
「しっかし、女の手縛るなんて……」
 と、突然倉木の言葉と手が止まった。
 縛られた手首と鈴音の顔を交互に見て片手で口元を覆い、あらぬ方向を向いている。その顔は明らかに高潮していた。
「どうしたの?」
「いや……。なんかこう……確かに」
 鈴音の手首を握る手に力がこもる。
「ムラっとするかも」
 倉木がぐっと手を引くと、鈴音の身体はあっさりと倉木の胸の中へと転がり込んだ。
「ちょっ」
 抵抗する鈴音を後ろから抱きすくめると、倉木は鈴音の耳元に唇を寄せた。
 これだけ近づけば、ドキドキどころか、ドカドカ鳴り響いている自分の心音を聞かれるかもしれない。でも、倉木は止められなかった。
 ガマンの限界など、とっくの前に過ぎている。
「桜井、今抵抗出来ないじゃん?このまま、征服してしまいたくなる」
「バカッ!」
「シッ。桜井」
 倉木は暴れる鈴音を押さえ付けると口を塞ぎ、後ろから抱きかかえたまま廊下に張り出した梁の陰に座り込んだ。
「んんーっ!んーっ!」
「しーっ。アレ見てみ。森じゃね?」
 倉木は梁からほんの少しだけ顔を出すと、右手に伸びる廊下を顎で杓った。
「んー!んー!」
「わかった、わかった。取るから。静かにして」
 倉木がそっと手を離すと、鈴音はぷはっと息を吐き出し、大きく深呼吸した。
 そして、そっと倉木の視線を辿る。そこには鈴音の友人でもある、森雪乃の姿があった。
 それだけではない。その雪乃の前には、こちらに背を向けた長身の男。
 制服でないところから見て、どうやら教員らしい。
「ちょっと離れすぎてて表情までハッキリ見えないけど、告ってんな。森のヤツ、好きだって言ってる。桜井、なんか聞いてる?」
 倉木は耳をそばだて、成り行きを見ている。
 興味津々と言った体だ。
「聞いてない……って言うか、立ち聞きなんて悪いよ」
「立ち聞きじゃないって。座ってんもん。それに、今出てく訳にいかないじゃん」
 くいくいと制服のシャツを引く鈴音を覗き込むと、倉木は小学生のような言い訳をしてにんまりと笑った。結果を見届ける気だ。
「だからって、この体勢」
 鈴音は倉木の足の間に座らされていた。倉木の胸は鈴音の背中にピッタリと合わせられ、腕は鈴音の小さな身体をしっかりと抱いている。所謂カップル座りである。
 こんな所を都筑に見られたら──。
 だが、倉木は鈴音の心配など何処吹く風だ。
 嬉しそうに鈴音の髪に頬を寄せる。
 そして。
「いいから、いいから。ね?鈴音ちゃん」
 ここぞとばかりに、思い切り鈴音を抱いた。
 が、しかし。
「ぎっ!」
 調子に乗ったばかりに鈴音に内腿をつねられ、倉木は声を押し殺して悶絶した。
「ごっ……ごめ……なさ……」
 切れ切れに謝り、倉木はがくりと鈴音の肩に頭を垂れる。
 その頭に、鈴音は縛られた手をコツンと当てた。
「これ。取って」
「はいはい、お姫様」
 結局下僕と化した倉木は、ぷうっと頬を膨らませている鈴音の手を、縛り付けていたネクタイから解放した。
「つーか、相手誰だ?」
 倉木が内腿を摩りながら再び覗きを始めると、上手い具合に男が顔を横に向けた。
 すっとした鼻筋、切れ長の目。都筑と同じ位に整ってはいるが、一般的な生徒や教員の前で見せている都筑とは対照的な冷たい印象。
 倉木は目をぱちくりさせた。
「あれ、藤堂じゃん」
 藤堂は、倉木達2年の英語を担当している、都筑と同じ27歳の教員だ。
 無表情で、どこか割り切った冷たい印象があるが、女子生徒には密かな人気がある。
 その藤堂の横顔には、生徒に告白されて困ったと言うより、どちらかと言うと面倒臭げな表情がありありと見えた。
「森、完全振られるな」
 結果は倉木の言葉通りだった。
 藤堂は漆黒の髪をかき上げると短く溜息をつき、「悪いけど」と、横目で雪乃を見た。
 雪乃はそれだけで全てを悟ったようだ。下唇を噛むと、俯いた。
「先生と生徒だからですか」
「そういう事じゃない」
「じゃあ……」
 涙で潤んだ目を上げ、更に追求しようとする雪乃を一瞥すると
「タイプじゃないんだ」
 藤堂は雪乃の気持ちを、たった一言で片付けてしまった。
「うーわっ。ひっでぇ。森、カワイソー」
 泣きながら廊下を走り去る雪乃の背中を影から見送りながら、倉木は痛そうな声を上げた。
 と、突然視界が鈴音の太腿でいっぱいになった。立ち上がったのである。
 倉木が、うおっと声を上げて喜んだのもつかの間
「先行ってて」
 そう言うと、鈴音は梁の陰から出て行った。
「おい、桜井」
 大慌てする倉木に構わず、鈴音はスタスタと藤堂の下へと歩み寄っていく。
 校内履きの底がリノリュウムの床にすれ、キュッキュッと音を立てると、藤堂がゆっくりと振り返った。
 生徒に告白されていた現場を見られたかも知れない。と言う心配など全くしていないようだ。
 ただ、相変わらずの無表情と冷たい視線を鈴音に向けた。
「どうした。そろそろ予鈴がなるぞ。教室に──」
「酷いんじゃないですか」
 静かな廊下に、鈴音の声が響いた。
 音の伝わりと同じ様に、鈴音の握り締めた手も、細かく震える。
 藤堂は鈴音を見下ろしたまま、長い溜息をついた。
「……何が」
 その言葉に、鈴音は顔を上げた。
 藤堂のシャツの胸を掴み、キッと睨む。
「雪乃、本気だったんでしょう?なのにあんな言い方!」
「本気かどうかなんて、俺にはわからん。でも──」
 言いながら藤堂は鈴音の手を掴み、シャツからそっと外した。
 そして、長身を折ると鈴音の目を覗き込む。
 その、額が触れそうなほどの距離に、鈴音は驚いて藤堂の手を振り解いた。
 そんな鈴音の動揺振りに、藤堂は意地悪く口の端を吊り上げる。
「でも、中途半端な期待を持たせるよりいいんじゃないの?」
「だからって!」
「じゃあ、君はどんな風に振られたい訳?」
 自分から顔を背ける鈴音の顎に手をかけると、藤堂は自分の方へと向け、更に追求を続けた。
「されて嬉しい振られ方でもあるの?どんな振られ方したって同じじゃない?」
「でも、雪乃は先生のこと」
「君ね」
 藤堂は呆れたようにそう言うと、鈴音を解放した。
「俺だって誰でもいい訳じゃないんだよ。君も、そうなんじゃないの?」
「でもっ」
 鈴音は引き下がらない。だが、それとは裏腹に情けないほど涙が出た。
「でも、さっきの、は、酷すぎ……ます。あんな風に、あからさま、に、拒絶すること……無いじゃないですか」
 切れ切れに訴える鈴音を、藤堂はまじまじと眺めた。
 少しくせのあるダークブラウンの髪。
 白い肌。
 高潮する頬。
 大きな目と、それを縁取る長い睫毛。
 小さく戦慄く唇。
「フー……ン」
 片眉を上げ、藤堂は、まるで珍しいものでも見たかのような驚きの表情を浮かべた。
 それを見て慌てたのは、梁の陰に身を潜めていた倉木である。
 うげっ、と声を上げると、形振り構わず飛び出し鈴音の手を取った。
 倉木の本能が危険を察知したのである。
「来い、桜井」
「ちょっ……倉木君っ」
「いいから!行くぞ」
 そう言うと、再び出席簿と鈴音を抱えてその場を離れた。


「フーン。桜井……か」
 倉木と鈴音が廊下の角を折れて見えなくなった頃。藤堂は自分の指が鈴音の涙で濡れている事に気が付いた。
「ああ、泣かせたっけな」
 藤堂に振られて泣いた女の顔は山ほど見て来た。
 だが、誰かの為に泣く女を見たのは初めてだった。
 そんな事をぼんやり考えながら、藤堂は濡れた指をぺろりと舐めた。
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