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本編:第二章
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「その、御山の鬼とやらが殺人事件に関わっていたとして、それとうちが契約したアスリートの失踪と一体なんの関係が──」
バン! と、遠子の掌が松岡のデスクを打った。
じろりと松岡を見据える。
「関係ないとは言わせないわよ? いい? 無能な警察は気付いてないでしょうけど、アタシの目はごまかせないわ」
「…………」
「あんたたちが屈強な男を使って御山の鬼を増やそうとしてることなんざ、この水野遠子はそうッ!」
びしり! と、遠子は松岡に指を突きつけ続けた。
「とっくに、お見通しなのよ!」
決まった! 今のは完全に見せ場だったわ。深爪がちょっぴり残念だけど。
何故録画しておかなかったのかしら。なんなら堂本を連れてくればよかった。
そう心の中で呟き、遠子はひとしきり自分に酔いしれた。
松岡は全てを遠子に知られたと悟り、膝を折る。そしてここからサスペンスドラマのクライマックスのごとき告白が始まるのだ。
ここが崖っぷちじゃないのが実に残念だと、ひとり悦に入っていた遠子だったが、松岡の告白はいつまでたっても始まらない。いい加減腕も疲れてきた。
「あの……、ねぇ、告白は……?」
「随分と自信たっぷりだが、当然根拠があるんでしょうね」
松岡は告白するどころか、ため息をつくと冷ややかにそう言った。
「あ、あるわよ」
実のところ、豪語出来るようなものは何ひとつないが、ここはハッタリで乗り切るしかない。何しろ遠子の目論見では、ここで松岡が自ら告白をするはずだったのである。
こういった勢いだけの見切り発車が遠子の悪い癖だったが、もはや引っ込みがつく筈もない。咄嗟にハンドバッグを探り携帯電話を取り出すと、頭上に高々と掲げた。
「あるわよ! ここにね!」
「……なるほど」
松岡がゆっくりと立ち上がった。
「な、なによ……」
遠子は思わず数歩後退った。立ち上がった松岡はすらりと背が高く、何の感情も見えない暗い目で遠子を見下ろしていた。
じっと遠子を見つめ、ゆっくりとデスクの向こうからこちら側へと回って来る。遠子はじりじりと後退るが、あっという間に松岡は遠子の目の前までやって来た。
ふわりと、ドンキで嗅いだことのある香水より遥かに良い匂いがする。
「威勢のいいお嬢さんは、嫌いじゃない」
松岡の長い指が遠子の顎に掛かり、くいと持ち上がった。
自然と二人の視線がぶつかる。松岡はまっすぐに遠子の目を見つめていた。
「えっ? えっ?」
ちょっとまって! なんてこと! まさか、六本木ヒルズにロマンスの神様が──!
急展開に、単純な遠子の心臓は跳ね上がった。
何しろ相手はライブ製薬の社長、大金持ちである。これが玉の輿でなくてなんなのか。
次第に遠子の目はうっとりとだらしなく垂れ下がり、脳内ではセレブ生活の妄想がむくむくと膨み、新聞記者としての僅かなプライドをグイグイと頭の隅へ押しやった。
携帯を握る遠子の手首に、そっと、松岡の冷たい手が触れる。
ああ、ついに。ついに水野遠子も人のもの。そう心で独り言ち、遠子の目が閉じられる──と同時に、松岡の、遠子の手首を握る手に力がこもった。
「痛ッ!」
「余計な好奇心や顕示欲は時に命取りになると、誰も教えてくれなかったようだ」
耳に、松岡の息がかかる。途端、全身が泡立った。
「いだだだだだだ! いだい! いだい!」
掴まれた手首を後ろ手に捻り上げられ、遠子は顔を歪めた。水野遠子、人生最大のピンチである。
「ちょっ……」
歯を食いしばり、身を捩る。すると意外な程あっさりと、松岡は遠子を解放した。
「こんの……ヤロー!」
体勢を整えて松岡に向き直り、見るからに高級そうなスーツの襟元を引っ掴んむ。
「乙女心を弄びやがっ……」
「おいコラ! 変態女!」
がなり声と共に、勢いよく社長室のドアが開いた。
「テメー! 自分が何やったのか分かってんのか!」
眉尻を上げ、憤怒の表情でズカズカと肩を怒らせ入ってきたのは──。
「た、高瀬……」
「警視庁の高瀬です。すみませんね、松岡さん。このクソ女新聞屋が失礼を働いたんじゃないですか?」
呈示した身分証をポケットにしまいながら、高瀬は遠子を睨みつけたあと、松岡の目をじっと見つめた。後ろから高瀬を追って来た柴田は、さりげなく遠子に並び、腕を取って松岡から引き離す。
松岡は襟元を正すと、高瀬ににこりと笑って見せた。
「いえ、単なるインタビューですよ。彼女はすこし興奮されたようですが……、それも思い違いです」
松岡の視線の先には、毛を逆立てた猫のような遠子が、柴田の手を振りほどこうと暴れている。高瀬もそれをちらと見遣ったが、ひとつ舌打ちすると視線を外した。
「気分を悪くされたでしょう。心中お察ししますよ。こちらで厳重注意しておきますんで。おい、柴田! 今度はワッパ掛けて車に繋いでおけ」
「にゃにぃ? ワッパぁ?」
「まぁまぁ。水野さん、落ち着いて。とりあえず行きましょ、ね」
遠子は何やら喚き散らしていたが、柴田はフニャフニャとした笑顔でそれを受け流しながら、部屋の外へと誘った。
遠子が出ていくと途端に部屋は静かになり、松岡は盛大なため息をつくと、再び自席に腰を下ろしてリモコンを手にした。
白濁していた巨大な窓がクリアになり、東京の街が眼下に広がる。
「うわっ、すっげぇ……」
高瀬は思わず感嘆の声を漏らした。
それが液晶ガラスに対してなのか、広がる東京の景色に対してなのか分からなかったが、高瀬の驚き方がまるで中学生のようで、松岡は頬を緩めた。
「ここから東京湾の方まで見えます。気持ちがいいですよ」
松岡は窓の外に目を向けたまま足を組み、目を眇めた。
他のビルの窓の反射や照り返し。東京の街は、昼間ですら輝いている。
「この景色をごちゃごちゃしていると言う人もいますが、私は嫌いじゃない。元々田舎者だからですかね。ここに座って見下ろしていると、自分が憧れていた都会人になって、それでいて東京を掌握したかのような、そんな気分になります。可笑しいでしょう?」
「どちらの出身なんですか?」
「富山です。高瀬さんは、富山の薬売りと言うのを聞いた事はありますか?」
「ひょっとして、置き薬と言うやつですか」
確か、自分が長く世話になっていた天海のところにも置き薬があった。元テニスプレーヤーがキャラクターを務める会社のものであったと記憶している。
営業マンが時々やって来て、薬を補充し、紙風船を置いて行った。
腹を壊せば、毎度天海がプラスティックの引き出しケースから「赤玉」と言う、赤いBB弾のような薬を出しては高瀬に飲むよう勧めていたものだ。
高瀬は天海を「父」と言い換え、その話をしてみせた。
「そう、それです。よくご存じですね」
松岡は嬉しそうにふわりと笑った。
「先用後利という商法で、医薬品を家庭などに預けおき、必要な時に使って頂く。そして、次の訪問時に使用した分の薬代を頂くという、独特の商法で利用客を増やしていきました。今でもそう言った販売店はありますが、ドラッグストアの普及で多くの薬屋は消えていきました」
「確かに便利ですしね。ドラッグストアは」
高瀬自身もコンビニ代わりに世話になることもあるし、千里の友人である大沢は、東京じゃ彼方此方で目にする「オオサワドラッグ」の次男坊だ。その勢いと需要はよく耳にする。
松岡はそうなんですと、昨今のドラッグストアがとても便利であることや、商品が多岐にわたっており、医薬品で収益を上げられている分、その他の商品を安く設定し還元している話などをひとしきり高瀬に聞かせた。
「──という訳で、ドラッグストアは大変素晴らしいですし、我々も当然、処方薬以外に市販薬も作っておりますので、小売りであるドラッグストアの存在は大きい……と、少し話が横道にそれましたが、実を言うと、私の実家はそのドラッグストアの勢いに押されて廃業を余儀なくされた、富山の薬屋のひとつでした。私自身、高校まで富山で過ごしたんですよ」
「へぇ~。起死回生ってのも失礼かもしれませんが、すげぇな……。ライブ製薬は日本でも指折りの一大企業ですしね」
「恐縮です」
「いや、お世辞じゃありませんよ」
東京の一等地に、これほどのオフィスを構えられる企業は限られているのだ。高瀬には分からないが、調度品ひとつをとっても、恐らくとんでもない値の付くものばかりなのだろう。
ふと、目の前の黒光りする紫檀のデスクに置かれた日売の朝刊が目に入った。先ほど高瀬も目にしたものだ。
「そういや、最近アスリートが失踪してるとか。あの記者がここへ来たと言うことは、ひょっとして?」
高瀬の問いに、松岡は眉尻を下げると頷いた。
「ええ。そのようです。私共も困っていましてね。所属クラブに問い合わせています」
「なるほど。申し訳ありませんが、お宅と契約されているアスリートのリストを頂くことは出来ますか」
「秘書に用意させます」
「助かります! 他、何かわかりましたらご連絡頂けると助かります」
「勿論ですよ。本来なら私どもがお願いすべきところです」
松岡はスッと立ち上がると、高瀬に一礼した。
「いやいや、頭を上げてください。参ったな。ええっと……」
頭を掻きつつ、尻ポケットから財布を出す。
札入れに名刺を突っ込んでいたはずだ。滅多に使わないため、2、3枚しか入れていない。
ゴソゴソと探すが、出てくるのは自分でもよく分からないポイントカードばかりだ。次第に焦ってくる。
「あ! 良かった。残ってた。すみません、なんかあったら、ここにご連絡下さい」
「承知しました」
松岡は頷き、名刺を受け取った。シンプルな名刺は高瀬の財布の中で擦れて薄汚れていたが、松岡は気にする風でもない。そして腕時計を見るとため息をついた。
「ああ、申し訳ない。次のアポイントメントが迫ってきました」
「そりゃいけない。長々とお邪魔してしまって申し訳ありませんでした」
「いえ、私の昔話に付き合って頂いて、むしろ高瀬さんのお時間を頂いてしまった。もう少し色々とお話ししたかったな。また是非寄って下さい」
「ええ、是非」
高瀬はニカッと笑うと、軽く片手を上げて出て行った。
「へぇ。おれ、刑事って初めて見た」
社長室に不似合いな少年の声。
松岡はゆっくりとその声の塗へと顔を向けた。
「憂夜」
「ごめんなさい。でもおれ、退屈なんだもん。ゲームも飽きちゃったしさ」
そう言って、藤田憂夜はぷうっと頬を膨らませた。もうずっと、社長室の隣でじっとしていて、体も鈍りきっていた。
「なら、外で遊んで来い」
途端に憂夜の顔が、ぱあっと明るくなった。
「外に出てもいいの?」
「必ず、始末しろ」
「うーん、誰? さっきの変なオバサン? いいの?」
「構わん。そろそろあれも、腹がすいて限界だろう」
憂夜はやったぁ! 声を上げると、社長室を飛び回り、豪奢なソファーに飛び乗った。
「やった! やった!」
「今夜、月が出る頃に行ってこい」
あの女は知り過ぎた。余計なことを知り過ぎたのだ。
小さな石ころであっても、それでいつ足を取られるか分からない。些細なことと侮り、失敗した経営者達を幾人も見てきた。
自分が成功したのは、取るに足らない石ころであっても、つぶさに処理して来たからだと自負している。
この男も注意した方がいいだろう。
松岡は高瀬の名刺を摘まみ上げると、ぐしゃりと握り潰した。
「高瀬、文孝……ね」
バン! と、遠子の掌が松岡のデスクを打った。
じろりと松岡を見据える。
「関係ないとは言わせないわよ? いい? 無能な警察は気付いてないでしょうけど、アタシの目はごまかせないわ」
「…………」
「あんたたちが屈強な男を使って御山の鬼を増やそうとしてることなんざ、この水野遠子はそうッ!」
びしり! と、遠子は松岡に指を突きつけ続けた。
「とっくに、お見通しなのよ!」
決まった! 今のは完全に見せ場だったわ。深爪がちょっぴり残念だけど。
何故録画しておかなかったのかしら。なんなら堂本を連れてくればよかった。
そう心の中で呟き、遠子はひとしきり自分に酔いしれた。
松岡は全てを遠子に知られたと悟り、膝を折る。そしてここからサスペンスドラマのクライマックスのごとき告白が始まるのだ。
ここが崖っぷちじゃないのが実に残念だと、ひとり悦に入っていた遠子だったが、松岡の告白はいつまでたっても始まらない。いい加減腕も疲れてきた。
「あの……、ねぇ、告白は……?」
「随分と自信たっぷりだが、当然根拠があるんでしょうね」
松岡は告白するどころか、ため息をつくと冷ややかにそう言った。
「あ、あるわよ」
実のところ、豪語出来るようなものは何ひとつないが、ここはハッタリで乗り切るしかない。何しろ遠子の目論見では、ここで松岡が自ら告白をするはずだったのである。
こういった勢いだけの見切り発車が遠子の悪い癖だったが、もはや引っ込みがつく筈もない。咄嗟にハンドバッグを探り携帯電話を取り出すと、頭上に高々と掲げた。
「あるわよ! ここにね!」
「……なるほど」
松岡がゆっくりと立ち上がった。
「な、なによ……」
遠子は思わず数歩後退った。立ち上がった松岡はすらりと背が高く、何の感情も見えない暗い目で遠子を見下ろしていた。
じっと遠子を見つめ、ゆっくりとデスクの向こうからこちら側へと回って来る。遠子はじりじりと後退るが、あっという間に松岡は遠子の目の前までやって来た。
ふわりと、ドンキで嗅いだことのある香水より遥かに良い匂いがする。
「威勢のいいお嬢さんは、嫌いじゃない」
松岡の長い指が遠子の顎に掛かり、くいと持ち上がった。
自然と二人の視線がぶつかる。松岡はまっすぐに遠子の目を見つめていた。
「えっ? えっ?」
ちょっとまって! なんてこと! まさか、六本木ヒルズにロマンスの神様が──!
急展開に、単純な遠子の心臓は跳ね上がった。
何しろ相手はライブ製薬の社長、大金持ちである。これが玉の輿でなくてなんなのか。
次第に遠子の目はうっとりとだらしなく垂れ下がり、脳内ではセレブ生活の妄想がむくむくと膨み、新聞記者としての僅かなプライドをグイグイと頭の隅へ押しやった。
携帯を握る遠子の手首に、そっと、松岡の冷たい手が触れる。
ああ、ついに。ついに水野遠子も人のもの。そう心で独り言ち、遠子の目が閉じられる──と同時に、松岡の、遠子の手首を握る手に力がこもった。
「痛ッ!」
「余計な好奇心や顕示欲は時に命取りになると、誰も教えてくれなかったようだ」
耳に、松岡の息がかかる。途端、全身が泡立った。
「いだだだだだだ! いだい! いだい!」
掴まれた手首を後ろ手に捻り上げられ、遠子は顔を歪めた。水野遠子、人生最大のピンチである。
「ちょっ……」
歯を食いしばり、身を捩る。すると意外な程あっさりと、松岡は遠子を解放した。
「こんの……ヤロー!」
体勢を整えて松岡に向き直り、見るからに高級そうなスーツの襟元を引っ掴んむ。
「乙女心を弄びやがっ……」
「おいコラ! 変態女!」
がなり声と共に、勢いよく社長室のドアが開いた。
「テメー! 自分が何やったのか分かってんのか!」
眉尻を上げ、憤怒の表情でズカズカと肩を怒らせ入ってきたのは──。
「た、高瀬……」
「警視庁の高瀬です。すみませんね、松岡さん。このクソ女新聞屋が失礼を働いたんじゃないですか?」
呈示した身分証をポケットにしまいながら、高瀬は遠子を睨みつけたあと、松岡の目をじっと見つめた。後ろから高瀬を追って来た柴田は、さりげなく遠子に並び、腕を取って松岡から引き離す。
松岡は襟元を正すと、高瀬ににこりと笑って見せた。
「いえ、単なるインタビューですよ。彼女はすこし興奮されたようですが……、それも思い違いです」
松岡の視線の先には、毛を逆立てた猫のような遠子が、柴田の手を振りほどこうと暴れている。高瀬もそれをちらと見遣ったが、ひとつ舌打ちすると視線を外した。
「気分を悪くされたでしょう。心中お察ししますよ。こちらで厳重注意しておきますんで。おい、柴田! 今度はワッパ掛けて車に繋いでおけ」
「にゃにぃ? ワッパぁ?」
「まぁまぁ。水野さん、落ち着いて。とりあえず行きましょ、ね」
遠子は何やら喚き散らしていたが、柴田はフニャフニャとした笑顔でそれを受け流しながら、部屋の外へと誘った。
遠子が出ていくと途端に部屋は静かになり、松岡は盛大なため息をつくと、再び自席に腰を下ろしてリモコンを手にした。
白濁していた巨大な窓がクリアになり、東京の街が眼下に広がる。
「うわっ、すっげぇ……」
高瀬は思わず感嘆の声を漏らした。
それが液晶ガラスに対してなのか、広がる東京の景色に対してなのか分からなかったが、高瀬の驚き方がまるで中学生のようで、松岡は頬を緩めた。
「ここから東京湾の方まで見えます。気持ちがいいですよ」
松岡は窓の外に目を向けたまま足を組み、目を眇めた。
他のビルの窓の反射や照り返し。東京の街は、昼間ですら輝いている。
「この景色をごちゃごちゃしていると言う人もいますが、私は嫌いじゃない。元々田舎者だからですかね。ここに座って見下ろしていると、自分が憧れていた都会人になって、それでいて東京を掌握したかのような、そんな気分になります。可笑しいでしょう?」
「どちらの出身なんですか?」
「富山です。高瀬さんは、富山の薬売りと言うのを聞いた事はありますか?」
「ひょっとして、置き薬と言うやつですか」
確か、自分が長く世話になっていた天海のところにも置き薬があった。元テニスプレーヤーがキャラクターを務める会社のものであったと記憶している。
営業マンが時々やって来て、薬を補充し、紙風船を置いて行った。
腹を壊せば、毎度天海がプラスティックの引き出しケースから「赤玉」と言う、赤いBB弾のような薬を出しては高瀬に飲むよう勧めていたものだ。
高瀬は天海を「父」と言い換え、その話をしてみせた。
「そう、それです。よくご存じですね」
松岡は嬉しそうにふわりと笑った。
「先用後利という商法で、医薬品を家庭などに預けおき、必要な時に使って頂く。そして、次の訪問時に使用した分の薬代を頂くという、独特の商法で利用客を増やしていきました。今でもそう言った販売店はありますが、ドラッグストアの普及で多くの薬屋は消えていきました」
「確かに便利ですしね。ドラッグストアは」
高瀬自身もコンビニ代わりに世話になることもあるし、千里の友人である大沢は、東京じゃ彼方此方で目にする「オオサワドラッグ」の次男坊だ。その勢いと需要はよく耳にする。
松岡はそうなんですと、昨今のドラッグストアがとても便利であることや、商品が多岐にわたっており、医薬品で収益を上げられている分、その他の商品を安く設定し還元している話などをひとしきり高瀬に聞かせた。
「──という訳で、ドラッグストアは大変素晴らしいですし、我々も当然、処方薬以外に市販薬も作っておりますので、小売りであるドラッグストアの存在は大きい……と、少し話が横道にそれましたが、実を言うと、私の実家はそのドラッグストアの勢いに押されて廃業を余儀なくされた、富山の薬屋のひとつでした。私自身、高校まで富山で過ごしたんですよ」
「へぇ~。起死回生ってのも失礼かもしれませんが、すげぇな……。ライブ製薬は日本でも指折りの一大企業ですしね」
「恐縮です」
「いや、お世辞じゃありませんよ」
東京の一等地に、これほどのオフィスを構えられる企業は限られているのだ。高瀬には分からないが、調度品ひとつをとっても、恐らくとんでもない値の付くものばかりなのだろう。
ふと、目の前の黒光りする紫檀のデスクに置かれた日売の朝刊が目に入った。先ほど高瀬も目にしたものだ。
「そういや、最近アスリートが失踪してるとか。あの記者がここへ来たと言うことは、ひょっとして?」
高瀬の問いに、松岡は眉尻を下げると頷いた。
「ええ。そのようです。私共も困っていましてね。所属クラブに問い合わせています」
「なるほど。申し訳ありませんが、お宅と契約されているアスリートのリストを頂くことは出来ますか」
「秘書に用意させます」
「助かります! 他、何かわかりましたらご連絡頂けると助かります」
「勿論ですよ。本来なら私どもがお願いすべきところです」
松岡はスッと立ち上がると、高瀬に一礼した。
「いやいや、頭を上げてください。参ったな。ええっと……」
頭を掻きつつ、尻ポケットから財布を出す。
札入れに名刺を突っ込んでいたはずだ。滅多に使わないため、2、3枚しか入れていない。
ゴソゴソと探すが、出てくるのは自分でもよく分からないポイントカードばかりだ。次第に焦ってくる。
「あ! 良かった。残ってた。すみません、なんかあったら、ここにご連絡下さい」
「承知しました」
松岡は頷き、名刺を受け取った。シンプルな名刺は高瀬の財布の中で擦れて薄汚れていたが、松岡は気にする風でもない。そして腕時計を見るとため息をついた。
「ああ、申し訳ない。次のアポイントメントが迫ってきました」
「そりゃいけない。長々とお邪魔してしまって申し訳ありませんでした」
「いえ、私の昔話に付き合って頂いて、むしろ高瀬さんのお時間を頂いてしまった。もう少し色々とお話ししたかったな。また是非寄って下さい」
「ええ、是非」
高瀬はニカッと笑うと、軽く片手を上げて出て行った。
「へぇ。おれ、刑事って初めて見た」
社長室に不似合いな少年の声。
松岡はゆっくりとその声の塗へと顔を向けた。
「憂夜」
「ごめんなさい。でもおれ、退屈なんだもん。ゲームも飽きちゃったしさ」
そう言って、藤田憂夜はぷうっと頬を膨らませた。もうずっと、社長室の隣でじっとしていて、体も鈍りきっていた。
「なら、外で遊んで来い」
途端に憂夜の顔が、ぱあっと明るくなった。
「外に出てもいいの?」
「必ず、始末しろ」
「うーん、誰? さっきの変なオバサン? いいの?」
「構わん。そろそろあれも、腹がすいて限界だろう」
憂夜はやったぁ! 声を上げると、社長室を飛び回り、豪奢なソファーに飛び乗った。
「やった! やった!」
「今夜、月が出る頃に行ってこい」
あの女は知り過ぎた。余計なことを知り過ぎたのだ。
小さな石ころであっても、それでいつ足を取られるか分からない。些細なことと侮り、失敗した経営者達を幾人も見てきた。
自分が成功したのは、取るに足らない石ころであっても、つぶさに処理して来たからだと自負している。
この男も注意した方がいいだろう。
松岡は高瀬の名刺を摘まみ上げると、ぐしゃりと握り潰した。
「高瀬、文孝……ね」
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