ついてくる (T大法学教室シリーズ)

桜坂詠恋

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ついてくる

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「いい? そう言う訳だから。もう来ちゃダメよ!」
 T大付属病院に、盲腸で入院したカメラ係の品川を見舞いに来た、T大法医学教室の教授である月見里流星と秘書の深田栞は、外来の巨大なロビーからエントランスへと、包帯だらけの女を追い立てるナースに気が付いた。
 確か島田と言ったはず。職場は違えど見知ったナースだ。
 しかしそれは、普段ナースが患者を見送る際に見せるものとは明らかに違っていた。
 言葉も、表情もだ。
「どうしたの?」
 エントランスから戻ってきたナースに声を掛ける。
 ナースは少し驚いたように口元に手を当てると、ばつが悪そうに月見里を見上げ、次いで、隣の栞を見た。
「月見里先生……と……えっと」
「深田です」
「あっ、そうそう。深田さん。こんにちは」
 すらりと背の高い美人ナースに笑顔で挨拶をされ、栞は途端に頬を染めた。
 月見里の背に半ば隠れたまま、首を竦め、ぺこりと頭を下げる。
「こ、こんにちは」
「なんか……スゴイ怪我だったね、彼女。彼方此方」
 頭越しにエントランスを見遣りながらそう言った月見里に、島田は深い溜息をつくと、驚くべき事実を口にした。
「自分でやったんですよ。全部」
「えっ……自分で、ですか? 事故とかじゃなくて?」
 言いながら大きな目をぱちくりさせる栞に、島田は無言で首を振った。
 病院には色んな人間が来る。
 中には自分で自分を傷つけて来るものも少なくない。それでも、あの女の包帯や絆創膏、傷の多さは尋常ではなく、またその理由は驚くべきものだった。
「真田先生に治療して貰いたくてやってるの。最初に……これは本当に事故だったんだけど、バイクと接触してここに運ばれて来て。その時に真田先生が担当なさったのよ。それ以来毎日!」
「毎日?」
「ええ、毎日です」
 これには流石の月見里も仰天した。
 ナイチンゲール症候群とはよく言ったもので、患者が献身的に看護してくれるナースや治療してくれる医師に恋をすると言った事は多分にある。
 きっと彼女も、真田医師が白雪姫を目覚めさせた王子に見えたのだろう。
 しかし、その殆どが退院して暫くすると、スッと熱も下がってしまうものだが、それが未だに、それも毎日となるとただ事ではない。
「それは……熱烈だね」
「熱烈だなんて。ストーカーですよ……」
 島田は心底不愉快そうだった。
 入れ替わり立ち代り患者がやってくる外来のナースもハードワークだ。色恋に溺れた他人の所為で仕事を増やされれば、迷惑この上ないだろう。そう思った月見里は、心底島田に同情した。
「で、今日も真田先生が?」
「いえ。先日のお休みに、急遽小杉先生の代診で出られたので、今日は代休なんです。だから」
 一瞬、島田は口篭ったが、白衣の両脇をぐっと掴むと顔を上げた。
「だから、私、言ったんです。先生はお隣の法医学教室に移られたから、もうここに来ても会えないって。先生だって迷惑してらして……あ……」
 島田は、びくっと両肩を上げると、白衣のポケットから振動するポケベルを取り出した。
「すみません、婦長が呼んでて……。失礼します」
「あ、うん。ご苦労様」
 月見里に一礼し、栞に軽く会釈すると、患者や見舞い客の間をすり抜けるようにして、島田は持ち場へと戻って行った。
「僕らも行こうか。きっと品川君、退屈してるよ。入院なんか初めてだから。……栞?」
「あ、はい」
 ぼんやりとエントランスを見ていた栞は、慌てて月見里に並ぶと、ちらりと月見里を見上げた。
「島田さん、真田先生とお付き合いしてるんですって」
「え?」
「受付で事務をしてる友達が言ってました」
「ああ、そうなんだ」
 言われてようやく、この手の話に疎い月見里も、島田の態度に合点が行ったようだ。エレベーターのボタンを押しつつ、なるほどと言った顔をした。
 迷惑しているのは、真田医師だけではなかったと言う事だ。
 エレベーターは直ぐ上で止まっていたらしく、ボタンを押して程なく、ポンと言う音と共に、二人を受け入れるべく扉を開いた。中には誰もおらず、車椅子用の大きなミラーが、並んで立つ二人を映している。
 月見里は扉を押さえ、栞を促した。
「でも、私、あの人の気持ちも、ちょっとわかるなぁ……」
 再び扉が閉まり、静かに上昇を始めると、栞は月見里の斜め後ろで小さな見舞い用の花束を弄りながら、ぽつりと言った。
「あの人?」
「勿論島田さんの気持ちも分るんですけど……。患者さんの方です。ホントに好きで、凄く好きで。会いたくて仕方がないんですよ。多分……真剣に、恋をしているんです」
 月見里は、俯いたまま花束を弄っている、まだ幼さすら残る秘書の頭を、ポンポンと軽く叩いた。
「それじゃ、栞は医者を好きにならないようにね」
「え?」
 栞が顔を上げると同時に扉が開き、嗅ぎなれた消毒の匂いが鼻をつく。
 月見里は再び扉を押さえると、栞の背に軽く手を触れ、促しながら言った。
「栞が包帯だらけになるような恋をしたら、僕は見ちゃいられないよ」
「先生……」
 栞が慕う医者は、治療をしない、死人の医者だ。
 それを知ってか知らずか、月見里は栞がエレベーターから出ると、自身も降り、何事もなかったかのようにポケットからメモを取り出した。
「──っと、何号室だっけな」

*   *   *

「先生。すみません、お帰りになろうって時に」
「いえ、いいんですよ」
 月見里は、申し訳なさ気に頭を下げる中年刑事に愛想良く応えると、彼が運び込んできたストレッチャーを見遣った。
 そこには、人の形に盛り上がった黒い袋が乗っている。遺体袋。通称、極楽袋である。
「えっと……どう言う状況だったんですか?」
「現場はこの直ぐ近くの公園です。鉄製のフェンス……。なんて言うんですかね。三又が並んだような」
「ああ、わかります」
「それに背中から突き刺さってまして。通行人から通報がありました。ですが、正直わからんのですよ。状況からは何者かに突き倒されての他殺とも、転倒しての事故とも取れるし、自殺とも。なので、先ずは先生に診て頂いて、事件性がないようなら監察医務院に移送しようと思ってるんですが」
「わかりました。じゃ……」
 言って、ストレッチャーに乗せられた極楽袋のジッパーを引き下ろした月見里は、あっと息を呑んだ。
 中に入っていたのが、病院のロビーで見た、あの包帯だらけの女だったからからだ。

──私、言ったんです。先生は法医学教室に移られたから

 ナースの島田が言った言葉が脳裏を過ぎる。
「そう言う事か……」
 月見里は、刑事に聞こえないような声で呟くと、小さく溜息を吐いた。
 異常なまでの無茶をする割に、女は賢かったようだ。
 見るからに事故や自殺では、『真田医師がいる』ここ──法医学教室ではなく、行政解剖を行う監察医務院へと運ばれてしまう。だからこそ、不特定多数の人間が集まる公園で、且つ、見極めにくい方法で決行したのだろう。
 ならせめて──。
「監察医務院に搬送して大丈夫ですよ」
 月見里は顔を上げると、向かいで覗き込んでいる刑事に言った。
「え?」
「事故です」
 月見里は嘘をついた。
 本来なら許される事ではない。だが、彼女にも家族があり、世間体がある。
 決して良い方法だったとは言えないが、栞の言う通り、彼女は真剣に恋をしていただけに違いない。
 これ以上、死者の人生を穢す事もなかろう。
 それに、月見里は警察関係者から絶大な信頼を得ている。忙しい刑事に、このような事案で洗い直しをされる心配をする必要もないと踏んでの決断だった。
「事故。ですか」
「はい。彼女、怪我で通院してました。実は今朝、秘書と一緒に見舞いに出かけたんですが、丁度そこで見かけましたよ」
「ああ、それで彼方此方」
 刑事も不審に思っていたのだろう。極楽袋の中の女をちらと見ると、納得いったとばかりに何度も頷いた。
 流石に、その全てが自傷行為だとまでは思い至らないだろうが。
「ええ。隣の付属病院です。余りに凄い包帯だったんで、ナースに確認したくらいですよ。それで憶えていたんです。可哀想に。恐らく、バランスを崩し、滑って転倒したんでしょう。ほら、靴の裏に、腐敗した草がついてますよ」
「本当だ。いや、有難う御座います」
「いえ……」
 月見里は女の遺体に向き直ると、両手を合わせてからタオルを手にした。

──残念だけど、ここに真田先生はいないんだよ。

 心の中でそう呟きながら、遺体の汚れた顔を拭ってやる。
 そしてもう一度手を合わせてから、静かに極楽袋のジッパーを引き上げた。

*   *   *

「お疲れ様です」
「ああ、先生。お疲れさ……」
 事務所内の、パーテーションで仕切っただけのロッカースペースへ月見里が入って行くと、そこで着替えていた検査技師の宮下は、振り返るなり、一瞬、眉を顰めた。
 そして。
「先生。さっき運ばれてきた仏さんは、女ですか」
「え……? ええ」
「包帯だらけの」
 別件の検査試料の受け渡しの為に席を外していた宮下に、見事「患者」の特徴を言い当てられ、月見里は目を丸くした。
「……ええ。でも、どうして?」
 何か知っているのだろうかとも思ったが、それ以上に、宮下の視線が、自分を通り越しているように見えるのが気に掛かった。
「宮下さん? どうしたんです?」
「あ、いや──」
 はっと我に返ったように小さく首を振ると、宮下は、いつもの人のいい笑みを浮かべて言った。
「なんでも」
 

──優しい先生。

 

──ついていく。

 

──ついていく。

 

──どこまでも。
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