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第四章
4 悪戯
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「ご馳走様でした~!」
結局氷室の家まで付いてきた翔平は、氷室の手製の料理に舌鼓を打ち、満足げに腹を撫でる。
今日はブルスケッタにアラビアータソースのパスタ、サーモンとアボカド、ルッコラのサラダを、氷いっぱいの白ワインで楽しんだ。
ワインのボトルが1本空になるほどに。
翔平は器に残ったソースを、未練がましく見つめた。
パンがもう一切れあれば、これを綺麗に食べられるのに……。
しかし、それはあっという間に氷室によって下げられてしまった。
翔平は仕方なく、テーブルを拭いた布巾を持って氷室の後を追うようにキッチンに入る。
キッチンは相変わらず綺麗に片付いており、無駄なものが一切ない。
そこからも氷室の完璧さが窺えた。
「主任はすごいっすよね。仕事は出来るし、カッコイイし、料理まで作れるんすもん。俺なんか、殆どチンっすよ」
翔平はそう言って洗い物をする氷室の手元を眺める。
氷室の長い指についた泡が、水で滑るようにシンクに落ちて行く。
「お前だって凄いじゃないか。トラック、乗れるんだろ?」
「まあ、そうですけど~」
実際に乗ったのは教習所でだけで、実はペーパートラックドライバーなのである。
翔平はソファーへ戻ると、クッションを抱きしめ、その上に顎を乗せて言った。
「警官ムリーってなった時に、仕事に困んないようにと思って……。それだけっすよ」
あの頃の自分は、一体何がしたいのか、どうしたいのかサッパリ分からなかった。
毎日楽しく過ごせればそれで良かった。辛いこともなかったが、理想も目標も何もない、周りに合わせ、浮かないようにすることに忙しかった。
「今はどうなんだ?」
キッチンカウンターの向こうから、氷室が聞いて来る。
翔平はニッと笑うと氷室にブイサインをして見せた。
「刑事、面白いっす。俺、主任みたくなりたいんすよ! 主任が理想! 主任が目標!」
しかし、直ぐに唇をへの字に曲げると、ため息をつく。
「でも、難しいっす。俺、直ぐに感情移入しちゃうし、人の顔色見ちゃうし。あっ、冷てっ」
頬がヒヤッとして、翔平は思わずカメのように首を竦める。
ぎゅっと瞑ってしまった目をゆっくりと開けると、目の間にレモンサワーの缶があった。
「そこがお前のいい所なんだろ。警部も素晴らしいと褒めてたじゃないか」
そんな言葉と共に、氷室の手が翔平の頭をくしゃりと撫でる。
その兄のような優しさに、翔平の鼻の奥がツンとした。
「しゅ、しゅに~ん!」
それは唐突だった。
ふざけて飛びつこうとした翔平の首に、氷室の右手が掛かっていた。
自分に向けられた氷室の目は穴ぼこのようだ。そこにあるのは、なんの感情も感じられない、黒い穴。
氷室の長く美しい指に次第に力がこもり、動脈を圧迫し始める。
命の鼓動が耳元で反響し、霞む視界で、氷室の唇が僅かに上がるのが見えた。
冷たい恐怖が背筋を凍らせ、同時に息が詰まる。脳が膨れ上がる感覚に翔平は目を剥いた。
耐えきれず氷室の腕を掴む。
「ちょ……なに……」
「プッ……」
氷室は吹き出すと翔平を開放し、レモンサワーを押し付けた。
「な、なんすかもう~!」
肩を上下させながら、翔平は必死に酸素を吸い込んだ。
脳に一気に血液が回ったことで、目の前がちかちかする。
そんな翔平の顎を持ち上げると、氷室は口の端を上げた。
「冗談だよ」
ふわりとワインの香りがする。
翔平は氷室の手から逃れると、咳き込みながら抗議した。
「冗談て! ひどっ!」
氷室はふっと笑うと、酔っぱらいを大人しくさせるにはこれが一番なのだと言って翔平の額を指で弾いた。
その仕草や表情は楽しげで、黒い穴ぼこのような目はどこにも見当たらない。いつもと変わらない氷室だ。
「酔っぱらいは主任でしょ! サド! いじめっこー!」
翔平は後退ると、わざと冗談めかして言った。
本気の怒りをぶつける勇気はなかった。
氷室は肩を竦めると、今更だと言って笑う。そして、エプロンを外すと、ソファーの背にかけた。
「さて、風呂に入って来るよ。適当に呑んでていいが──うろつくなよ」
そう言い残し、氷室は何事もなかったかのように踵を返す。
翔平は氷室がバスルームへ消えるのを見届けると、その場に座り込んだ。
「なんなんだよ、もう──」
* * *
スーパーで仕入れて来たポテトチップスを摘まみながら、翔平はレモンサワーを啜った。
喉を刺激する炭酸が心地良い。
上下する喉に触れ、生まれて初めて感じた『窒息する感覚』を思い返した。
カッコ良くてスマート、いつも完璧で優しい氷室に、翔平は憧れている。
そんな氷室を、完璧すぎるが故に怖いと思った事はあっても、『恐ろしい』と思った事はなかった。
なのに──。
一瞬でも、氷室を恐ろしいと感じた。
あれは一体何だったんだろう。
「何考えてるんだ、俺は!」
妙な考えを追い出そうと、翔平は頭をガリガリと掻いた。
氷室はかなり飲んでいた。酔っぱらっていたのだ。
自分は彼を信じ、そして追いかけていればいい。
これまでと変わらず、弟のように愛される翔平でいればいいのだ。
──うろつくなよ?
ふと、氷室の言葉が頭を過る。
「それはフリってやつかな?」
翔平はにやりと笑うと立ち上がった。
TVを付け、ほんの少しだけ音量を上げる。
これで自分の気配を消して探検開始だ。
思えば、自分は氷室に関して何も知らない。
半年氷室に付いて行動しているが、プライベートに関してはさっぱりだ。
最近になって、もっと距離を縮めようと竹山に頼んで家を教えて貰ったが、ここに来てもプライベートな話題を氷室はしない。
「ホントは彼女がいたりして……」
とすれば、寝室だ。
そこを覗けば女の影ぐらい分かるやもしれない。
翔平はそっとバスルームを通り過ぎ、玄関に一番近いところにある、寝室と思しき部屋のドアに手を掛けた。
結局氷室の家まで付いてきた翔平は、氷室の手製の料理に舌鼓を打ち、満足げに腹を撫でる。
今日はブルスケッタにアラビアータソースのパスタ、サーモンとアボカド、ルッコラのサラダを、氷いっぱいの白ワインで楽しんだ。
ワインのボトルが1本空になるほどに。
翔平は器に残ったソースを、未練がましく見つめた。
パンがもう一切れあれば、これを綺麗に食べられるのに……。
しかし、それはあっという間に氷室によって下げられてしまった。
翔平は仕方なく、テーブルを拭いた布巾を持って氷室の後を追うようにキッチンに入る。
キッチンは相変わらず綺麗に片付いており、無駄なものが一切ない。
そこからも氷室の完璧さが窺えた。
「主任はすごいっすよね。仕事は出来るし、カッコイイし、料理まで作れるんすもん。俺なんか、殆どチンっすよ」
翔平はそう言って洗い物をする氷室の手元を眺める。
氷室の長い指についた泡が、水で滑るようにシンクに落ちて行く。
「お前だって凄いじゃないか。トラック、乗れるんだろ?」
「まあ、そうですけど~」
実際に乗ったのは教習所でだけで、実はペーパートラックドライバーなのである。
翔平はソファーへ戻ると、クッションを抱きしめ、その上に顎を乗せて言った。
「警官ムリーってなった時に、仕事に困んないようにと思って……。それだけっすよ」
あの頃の自分は、一体何がしたいのか、どうしたいのかサッパリ分からなかった。
毎日楽しく過ごせればそれで良かった。辛いこともなかったが、理想も目標も何もない、周りに合わせ、浮かないようにすることに忙しかった。
「今はどうなんだ?」
キッチンカウンターの向こうから、氷室が聞いて来る。
翔平はニッと笑うと氷室にブイサインをして見せた。
「刑事、面白いっす。俺、主任みたくなりたいんすよ! 主任が理想! 主任が目標!」
しかし、直ぐに唇をへの字に曲げると、ため息をつく。
「でも、難しいっす。俺、直ぐに感情移入しちゃうし、人の顔色見ちゃうし。あっ、冷てっ」
頬がヒヤッとして、翔平は思わずカメのように首を竦める。
ぎゅっと瞑ってしまった目をゆっくりと開けると、目の間にレモンサワーの缶があった。
「そこがお前のいい所なんだろ。警部も素晴らしいと褒めてたじゃないか」
そんな言葉と共に、氷室の手が翔平の頭をくしゃりと撫でる。
その兄のような優しさに、翔平の鼻の奥がツンとした。
「しゅ、しゅに~ん!」
それは唐突だった。
ふざけて飛びつこうとした翔平の首に、氷室の右手が掛かっていた。
自分に向けられた氷室の目は穴ぼこのようだ。そこにあるのは、なんの感情も感じられない、黒い穴。
氷室の長く美しい指に次第に力がこもり、動脈を圧迫し始める。
命の鼓動が耳元で反響し、霞む視界で、氷室の唇が僅かに上がるのが見えた。
冷たい恐怖が背筋を凍らせ、同時に息が詰まる。脳が膨れ上がる感覚に翔平は目を剥いた。
耐えきれず氷室の腕を掴む。
「ちょ……なに……」
「プッ……」
氷室は吹き出すと翔平を開放し、レモンサワーを押し付けた。
「な、なんすかもう~!」
肩を上下させながら、翔平は必死に酸素を吸い込んだ。
脳に一気に血液が回ったことで、目の前がちかちかする。
そんな翔平の顎を持ち上げると、氷室は口の端を上げた。
「冗談だよ」
ふわりとワインの香りがする。
翔平は氷室の手から逃れると、咳き込みながら抗議した。
「冗談て! ひどっ!」
氷室はふっと笑うと、酔っぱらいを大人しくさせるにはこれが一番なのだと言って翔平の額を指で弾いた。
その仕草や表情は楽しげで、黒い穴ぼこのような目はどこにも見当たらない。いつもと変わらない氷室だ。
「酔っぱらいは主任でしょ! サド! いじめっこー!」
翔平は後退ると、わざと冗談めかして言った。
本気の怒りをぶつける勇気はなかった。
氷室は肩を竦めると、今更だと言って笑う。そして、エプロンを外すと、ソファーの背にかけた。
「さて、風呂に入って来るよ。適当に呑んでていいが──うろつくなよ」
そう言い残し、氷室は何事もなかったかのように踵を返す。
翔平は氷室がバスルームへ消えるのを見届けると、その場に座り込んだ。
「なんなんだよ、もう──」
* * *
スーパーで仕入れて来たポテトチップスを摘まみながら、翔平はレモンサワーを啜った。
喉を刺激する炭酸が心地良い。
上下する喉に触れ、生まれて初めて感じた『窒息する感覚』を思い返した。
カッコ良くてスマート、いつも完璧で優しい氷室に、翔平は憧れている。
そんな氷室を、完璧すぎるが故に怖いと思った事はあっても、『恐ろしい』と思った事はなかった。
なのに──。
一瞬でも、氷室を恐ろしいと感じた。
あれは一体何だったんだろう。
「何考えてるんだ、俺は!」
妙な考えを追い出そうと、翔平は頭をガリガリと掻いた。
氷室はかなり飲んでいた。酔っぱらっていたのだ。
自分は彼を信じ、そして追いかけていればいい。
これまでと変わらず、弟のように愛される翔平でいればいいのだ。
──うろつくなよ?
ふと、氷室の言葉が頭を過る。
「それはフリってやつかな?」
翔平はにやりと笑うと立ち上がった。
TVを付け、ほんの少しだけ音量を上げる。
これで自分の気配を消して探検開始だ。
思えば、自分は氷室に関して何も知らない。
半年氷室に付いて行動しているが、プライベートに関してはさっぱりだ。
最近になって、もっと距離を縮めようと竹山に頼んで家を教えて貰ったが、ここに来てもプライベートな話題を氷室はしない。
「ホントは彼女がいたりして……」
とすれば、寝室だ。
そこを覗けば女の影ぐらい分かるやもしれない。
翔平はそっとバスルームを通り過ぎ、玄関に一番近いところにある、寝室と思しき部屋のドアに手を掛けた。
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