T大医化学研究所シリーズ

桜坂詠恋

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ホワイトデー

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「おは……」
 T大医科学研究所病理研究室のドアを開けるなり、墳堂慎太郎は眉を顰めた。
「なんだ越君。その手は」
 墳堂のくたびれたシャツの胸に突き出された、准教授、越真樹の白く滑らかな手の平。
 それをまじまじと眺めると、墳堂は至極嫌な顔をした。
「おい。生命線が長いぞ。越く……」
 
  ぱーん!
 
 白い手の平が、見事なまでのスナップを利かせて空を切った次の瞬間、墳堂は、ずれたサングラスを直しもせず、ヒリヒリと痛む頬を押さえて抗議した。
「いっ、いきなりビンタとは、どう言う了見だ!」
 にじむ涙が否応無しに視界を歪める。
 それでも、手を払いながら、30㎝は高い位置にある自分の顔を見上げ、キリリと睨む真樹のシルエットは確認できた。
「ワタシの生命線が長いと、何故教授がそのような珍妙な顔をなさるのか、そちらの方が疑問ですが」
「珍妙だと?」
「滑稽なほどに歪んでます。実にアンバランス!」
「それは君のビンタのせいだろうが!! 大体俺はだな、この上なく正直に出来っ……」

 しぱぱぱぱぱぱーん!

「ふぅ」
 真樹は小さく息をつくと額を拭い、満足気に墳堂を見上げた。
「上手くバランスが取れました」
「そのようらな……」
 左の頬が先ほど以上に膨れ上がったが、右頬も晴れた所為で、確かに真樹の言う通りバランスは取れた。
 がしかし、頬だけではなく、唇や舌まで痺れて動かず、おまけに口の中は鉄の味がする。
 虫歯の治療に何度か麻酔を打った事があるが、墳堂は縺れた舌で返事をしながら、ふとそれを思い出していた。
 とは言え、痛みは虫歯を遥かに凌ぐ。
「……れ? なんら」
 言いながら部屋を横切ると、墳堂は長身を折り、備え付けの冷凍庫を覗き込んだ。
 先日、退院祝いにT大法医学教室の月見里から貰ったゼリーに付いていた保冷材を突っ込んでおいたのだ。
 何かに使えるかもしれないと思っての事ではあったが、まさかぶたれた顔を冷やす為に使う事になろうとは。
「今日が何の日かご存知ですか?」
「お。あっら、あっら……。ヴ~ッ」
 墳堂は、冷凍庫から取り出した保冷材を頬に押し当てると唸った。
 火が点いた様に熱かった頬が急激に冷され、心地よい。
 それを左右何度か繰り返すと、最後に鍔関節を回すかのように動かして解し、背後の真樹を振り返った。
「で? 何だって?」
「ですから、今日が何の日かご存じですかと申し上げたんです」
「今日……?」
「3月14日です」
「さんがつ、じゅうよっか……か」
 墳堂は腕を組むと、首を傾げた。
 3月14日。さんがつじゅうよっか。
 何度か呪文のように日付を口にしてみたものの、これと言って思い当たらない。
 はて。何だったか。
 3月3日はひな祭りで耳の日だ。3月10日は砂糖の日だと聞く。
 となると。
「さ……さ……さ……サ、イ、ヨ。採用? 採用試験? 面接?」
「語呂は……関係ありません」
「なに? 関係ないのか?」
「ありません! 全く、今頃になって何を。3月ですよ? それに、ウチの研究室を希望する学生なんかいなかったでしょう」
「いなかった? 何故だッ」
「アンタの所為だろ」
「おっ、俺の所為だと?」
「…………」
 真樹は無言で墳堂を睨みつけると、入り口に貼られた張り紙を指差した。
 すっかり陽に焼けてインクが薄くなり、紙自体も黄ばんではいるが、右下には、薄っすらとベルギーの民族衣装に身を包み、白い帽子を被った少女の絵が見て取れる。少女はにこやかに手を掲げ、そしてこう言っていた。

 ──アロアのような済んだ心の女性、優遇します(墳堂)

「アレの何処がいかんのだ?」
「権力を手にしたキモオタのパワハラです!」
「なにィ? 馬鹿にするなッ! 誰がコンニャクを手にしてパラパラなんぞ踊るか」
 キモオタは否定しないらしい。
 真樹は小さく息をつくと、話を戻しましょうと言った。もう2~3発殴ってやりたい気もしたが、ここはどうあっても今日が何の日であるか、認知させねばならない真樹の……いや、大人の事情がある。
「もっと一般的な、誰でも知ってるものですよ?」
「誰でも……? ん! 分かった!」
「分かりましたか」
「うむ。1953年、衆議院で野党3派提出の吉田内閣不信任案が可決され、衆議院が解散した、所謂『バカヤロー解散』があった日だな!」
「違います。いえ、違いませんが、それではありません」
「ふむ……。おっ! 分かったぞ!」
「……分かってない気もしますが、一応聞きましょうか」
「1970年、大阪・吹田市で日本万国博覧会、通称『エキスポ'70』の開幕!! こんにっちわ~♪ こんにっちわ~♪ ってヤツだろ? 三波春夫がこう……」
「もっと……個人的な行事です」
「個人的! なんだ、早く言えよ、越君。アレだな? ええっと、赤木春江」
「赤木春江ぇ?」
「そう。赤木春江。それから片岡孝夫だろ? 五木ひろしにジェニーいとう、山口智充。あと重要な所じゃ、ほしのあきだな! 誕生日だろう?」
「……良く憶えてますね」
 いっそアフロにピンクのスーツでも着たらどうだと言いたくもなったが、それより、何故ほしのあきが重要なのか。
「そりゃ、美人で細身で……いや、君も確かに美人でスリムだがな」
 言ってちらりと真樹の白衣の胸元に視線を移すと、墳堂は勝ち誇ったように続けた。
「彼女のアレはホンモのぉう!」
「……今日はホワイトデーです」
「ホ……ホワイトデー……だと?」
 鳩尾に受けた真樹の拳は例によって重く、墳堂は、床に蹲ったまま顎を上げるのが精一杯だ。そんな墳堂の前に膝を着くと、真樹は言った。
「バレンタインにチョコレートを贈られた男性が、贈った女性にお返しをする日です」
「そんな恐ろしい事、君に出来る男がいるかっ」
「誰が仕返しだと言った。ああん?」
「イダダダダダダダダダ!」
 髪を掴まれ、無理矢理顔を引き上げられた墳堂は悲鳴を上げた。
 真樹のタイトスカートから伸びた立て膝に顎を乗せられ、更に、髪を掴み上げられた事によって、彼女の恐ろしくも美しい顔が近付く。
 一部のマニアにはこの上なく美味しいシチュエーションだが、残念ながら墳堂はマゾヒストではない。
 ──と云うのは墳堂の主張であって、本人の知らぬ所では、『後天性マゾヒスト』と専らの噂である。
「いいですか?」
 真樹は墳堂を解放すると立ち上がった。
「ホワイトデーと言えばお返しです。つまるところプレゼントです。贈り物です。時にサービスだったり、食事だったりもしますが」
 お忘れになりまして? そう言うと、真樹はヨタヨタと立ち上がる墳堂の胸を指で突いた。
「ワタシ、教授にはちゃんと義理! チョコを差し上げたでしょう」
「フツーは、『義理』でもストレートに言わないもんじゃないか……?」
「何涙目になってるんです。たった! たった1個でも! ……貰えたんですから、喜んだらどうですか」
「何気に止めを刺すな! ……立ち直れんじゃないか」
 最後は消え入りそうだった。
 何しろ、研究員の郡是の話によると、墳堂の友人である、T大法医学教室の月見里は、受け取ったチョコの搬送にトラックを呼んだらしいとの事だが、自分が貰えたのは真樹の言う通り、彼女からの、しかも義理チョコ1つだけだった。
 しかし、勘違いをして貰っては困る。
 別に期待をしていた訳ではない。
 期待をしていた訳ではないが、出来る事なら、月見里の秘書、深田栞からチョコが届くといいなとか、それが叶わなくとも、研究所には女性が沢山いるのだから、生協のチョコのひとつくらいはあるだろうと思ったくらいだ。
 期待など、これっぽっちもしていない──。

 ──それが、内心バレンタインへの期待に胸を膨らませていた墳堂の、密かな言い分である──。筒抜けであるが。

「や……。けどな、越君」
「なんです」
「その、バレンタインと云うのは、好きな男にチョコレートを渡して告白したり、上司や同僚に日頃の感謝の気持ちを込めて贈るものだろう?」
「ま、そうです」
 真樹の返答に、そうだろうそうだろうと頷くと、墳堂は続けた。
「しかしだな。正直、君が俺にくれたものには、そー言う気持ちの欠片も見受けられんかったぞ」
「そうですか? 手作りですよ?」
「うむ。実に凝ったドリフだった」
「トリュフだ」
「……そう言ったろ」
「言ってません」
「まあいい」
「よか有りませんよ」
 真樹は不服そうだ。しかしそれを無視すると、墳堂は問題はそこではないと前置きし、びしりと真樹の鼻先を指差した。
「問題はな、あれがロシアンルーレットだった事だっ!!」
「楽しいじゃないですか」
「誰がッ」
「ワタシが」
 そうじゃないかとは思っていたが、改めて事実を口にされ、墳堂はがっくりと肩を落とすと、恨めしそうに真樹を見た。
「だからアレか? アタリが無かったのか?」
「おや? そんな事は無いはずですが?」
「そんな事あったぞ! マトモなチョコなんかひとつも無かった! 入ってたのは唐辛子、ワサビ、辛子、カレールウ!! いや、これはまだ可愛い方だ!」
 常人なら怒り狂う所かも知れない。
 だが、送り主は病理研究室の女ヒットラーなのだ。この程度の嫌がらせは日常茶飯事なのだから、墳堂とて笑って済ませられた。
 しかし、その後口にしたフィリングが明らかに普通ではなかった。
「思い出すのもおぞましいが、言って聞かせよう」
 そう言うと、墳堂は痛む胃を擦る手を止め、再びキリリと眉を吊り上げた。
「どうだ。チョコに鰻や梅干し、生牡蠣を入れるか? 冷凍ギョーザを入れるか? ええ? 何処にアタリがあったんだ! アタリがあると信じ込んで、全部食っちまったじゃないか!」
「でも当たったでしょう?」
「なぬ?」
 形の良い唇に、細く白い指を当てると、真樹は固まる墳堂の周りをゆっくりと歩き出した。
「鰻に梅干し、生牡蠣は正直賭けでしたけども、冷凍ギョーザは、ちゃんと件の回収対象品を使いましたから……」
 そこまで言うと、真樹は墳堂の正面でぴたりと足を止めた。
「バッチリ、当たったでしょう?」
「おお当たったわ! お陰で1週間丸々入院し……ちょっと待て」
「なにか?」
 聞き返す真樹の唇が上がり、美しく整った顔に艶やかな笑みが浮かんだ。と同時に、墳堂の全身が粟立つ。
 つまり。
「当たりってのは……そう言う……イミ……なのかな? うん?」
 愚問だ。
 そうも思ったが、墳堂は敢えて聞いてみた。
 真樹とて鬼では──いや、やっぱりどう考えても鬼でしかないのだが、万に一つ、いや、億に一つ。間違いと云う事も──
「ちょっとしたシャレです」
 ──なかった。
「それで死んだらシャレにならんだろうがッ! つか、本来ロシアンルーレットは、アタリじゃなくて、ハズレがひとつ入ってるモンなんじゃないのか!」
「あら。それは気付きませんでした」
「嘘をつけ! 嘘を!」
「嘘です」
「ず……随分と素直じゃないか。まさか、まだ他に何かあるんじゃないだろうな」
「そんな訳で、その容姿と言動が災いし、全くモテない教授が、唯一チョコを恵んでくれたワタシに、感謝と賛美。そして、崇拝と忠誠の気持ちを込めた品を献上するホワイトデーです」
「軽く侮辱しながら、婉曲と誇張を加えて話を戻さんで貰おうか」
 墳堂は目の前でふんぞり返る真樹を軽く睨んだが、軽く溜息をつくと腕を組み、明後日の方向を向いて言った。
「しかしまあ……。仕掛けや動機は最悪だが、君が俺の為に時間と手間を掛けたのは事実だから……」
 言いながら、パンツのポケットを探る。
 目当ての物は直ぐに指に触れたが、何となく、直ぐに差し出すのが気恥ずかしく、真樹の顔を見る事すら難しい。
 不思議な感覚だった。
 いつも傲慢で、いつも憎たらしく、いつも側にいるのが当然の女。
 今更何を思うことがある。
 礼をしろと言うからくれてやるに過ぎないのだ。
「ここに──」
 墳堂は奇妙な動悸を無理矢理押さえ込むと、ピッと勢い良くポケットから二枚の券を出して見せた。
「生協食堂の食券が二枚ある」
「……生協……食堂?」
「うむ。その……ひ、昼飯でも一緒に……あっ、コラ!」
 墳堂の抵抗虚しく、食券はあっという間にまきの手中に収まった。
 真樹はそれをジロジロと見、内容を確認すると、全く──そう言って、ピラピラと食券を振った。
「日替わり定食の食券二枚程度じゃ、ホワイトデーのプレゼントどころか、バレンタインの材料費にもなりませんが」
 最もである。しかし墳堂は食い下がった。
「あのな。こう言うのは気持ちの──」
「あら。どんな気持ちですか?」
「どんなって……。だから……」
 思いもよらぬ切り替えしに、墳堂の心臓はまたも跳ね上がった。
 別に特別な意味はない。意味はないのだ。
 そう思っているのに、何故だろう、舌が縺れる。
「れ、礼だ。お返しを……しろ、と、言ったのは、君だろう」
「……そうですね」
「こ、越君……」
 墳堂は動揺した。
 真樹の顔は見えない。だが、つむじが直ぐ下に見える。
 ──至近距離。
 鼻先が触れ合うほどに顔を近づけ、脅された事なら数え切れない。
 だが、このような形で彼女が近付いて来たのは初めての事だった。
「いいですよ。教授」
 墳堂の胸に手を滑らせながら、真樹が呟く。
 その甘ったるい声に、墳堂は理性が吹き飛びそうだった。
「い……いいって……越く……」
「ええ。いいですよ、今日のところはこれで」
「むぅ? 今日の……ところ?」
 真樹は、墳堂の胸に手を突いて離れると、もう一度食券をピラピラと振ってから、自分の白衣のポケットに押し込んだ。
「ええ。どうせそんな事だろうと思って、教授の名義で着物を新調させて頂きましたし」
「な、なんだとッ?」
「それ、請求書」
 真樹に指し示されたシャツの胸ポケットには、いつの間にか伝票が入れられていた。
 大方、先ほど墳堂の懐に入り込んで来た時に突っ込んだのだろう。
 それを見た途端、墳堂のモヤモヤとした思考が、霧が晴れたかのようにハッキリとした。
「貴様……」
 次いで怒りが沸々と湧いてきた。結局この女への感情はこれに尽きる。
 いつも傲慢で、いつも憎たらしく、いつも側にいて──。
「ご安心下さい。教授の懐具合を考慮して、仕立て上がりです。税込み、シメて10万円のセット」
 ──そして図々しい。
 ポケットの請求書を広げると、しっかり墳堂の名前と住所が書かれていた。
 そして、真樹の言う通り──。
「じゅ……じゅうまんえん……」
 涙が出た。
 ゲテモノチョコを受け取ったばかりに病院送りにされ、更に食券二枚を強奪。オマケに10万円の着物。
「割に合わん!」
「あら。女を美しくするのは男性の仕事です。と言う訳で、週末はそれでイタリアンをご一緒しましょう」
「何がと言う訳でだ! 貴様はその上、ピザまで食わせろと……」
「まさか。見縊らないで下さい」
「なんだ、違うのか?」
「ええ。ピザだなんて生ぬるい。コースに決まっているじゃないですか」
 そう言って、真樹が突き出した銀座の高級イタリアンレストランの予約票に目を落とした墳堂は、その日付から、事が全てバレンタイン以前に準備されていた事を知る。


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