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ユージロー
⑤
しおりを挟むダイニングルームへと戻ると、コーリがのんびりと湯呑を傾けていた。
入ってきたユージローと、ひらひらと手を振るヤマセを一瞥してその湯呑を下ろす。
「もういいのか?」
「はい。十分わかりました」
軽く頷いたコーリは湯呑を調理台へと置いて、席に座ったユージローに体ごと向き直る。その反動で、前に垂れてきた細い三編みの髪。それを慣れたように後ろへとやって、で、と腕を組みながら尋ねてくる。
「大体の説明はしたが、何か質問はあるか?」
考えるまでもなく、聞きたいことは山程あった。
どうして此処に来てしまったのか、だとか、自分が誰なのか、だとか。
でも恐らく、彼らもその答えを持ってはいないのだと思う。自分を見つけた時の彼らの言動は、まるでユージローの登場を予想していなかったような反応だった。その他にも聞きたいことはあるけれど、うまく言葉がまとまらない。
ぼんやりと見つめたダイニングテーブルの木目は、ただ沈黙を返すだけで欲しい答えをくれるはずもない。
一体これから先どうすれば良いんだろう。
漠然とした不安だけが胸の内に広がっている。
「ま、最初のうちは何が分からないかすら分からないと思うから、その都度きいてくれれば良いよ、ユージロー」
ハッと顔を上げる。柔らかな笑みを浮かべるのはヤマセだ。
テーブル越しの彼が伸ばしてきた手に、肩をそっと撫でられる。
その温かさが、今はとても有り難かった。何も覚えていないことに不安はある。でも、彼らが、急がなくて良い、と言ってくれているような、そんな気にさせてくれる。
はい、という声は僅かに滲んでその場に溶けていく。
「当分の間は、此処で過ごしたら良い」
「……良いんですか?」
「もちろんだとも。管理しているボクが言うんだから。ね、構わないだろう、コーリ?」
ヤマセの視線を辿るようにコーリを見れば、構わない、と頷かれる。てっきり迷惑そうな顔をされるかもしれないと思っていたのに、全くその様子がなかった。声にも迷惑だ、なんて感情は一切乗っていなかった。
「逆に此処以外でどこで過ごそうとしてたんだ?」
「ちなみにこの店には、あの扉以外の通用口はありませーん!」
コーリに心底不思議そうに首を傾げられた上に、ヤマセのおどけた声にトドメを差されて、ぐうの音も出ない。
此処に来た方法が分からない以上、帰る方法が分かるわけもない。その上あの扉から出ることも出来ないのであれば、必然的にユージローが生活できる場所はこの店以外ない。それが解ってしまえば、ユージローが言えることは一つだけだ。
「お世話になります」
深々と頭を下げて、時間をかけて顔を上げる。
コーリもヤマセも、少しだけ頬を緩ませて頷いてくれた。
「でもただ居候するのは、ちょっと気持ち的に申し訳ないので。何かお手伝いさせてください」
「えぇ!? いいのかい!? 助かるなァ!」
いち早く喜んだのはヤマセだ。何やってもらおうかなぁ、なんてウキウキしているヤマセをよそに、コーリはまたまた深い溜め息を吐いていた。
「お前、それをユージローが言い出すの待ってただろ」
「えぇ~? ソンナコトナイヨォ~?」
「お前の声がそうだって言ってんだよ」
買い言葉に売り言葉。
そんな二人を見ていたら、なんだか笑えてきた。そのはずだったのに、ふと目頭が熱くなって視界が滲んでいく。止める間もなく落ちていく一つの雫。ズッと鼻を啜ったのが聞こえてしまったのか、戯れの口論をしていた二人の声がピタリと止まる。
「本当にありがとうございます。すいません、僕っ、なんか、安心しちゃって」
乱暴に服の袖で目元を拭う。
よくよく見れば、自分はくたびれた白いシャツのようなものを着ていた。履いているのは黒のダボついたズボン。そんなことにすら今まで意識を向けられなかった。自分が置かれた状況を把握するだけで精一杯だった。
もしも、自分のことを迎えたのが彼らのようなヒトじゃなければ、どうなっていただろう。それを考えると恐ろしくてたまらない。たまたま、彼らが親切だったから良かった。今自分がいる世界にどんなヒトがいるのか、全くわからない。それこそ人間を食べるような存在もいるかも知れない。
そんな中で、彼らの元に来ることが出来たのは本当に幸運だった。
不意に、ぽん、と頭に乗った手。
コーリだった。わしゃわしゃと犬を撫でるように手を動かした彼は、言った。
「時が来たら、お前が何のために此処に来たのか、それも分かるさ。此処は、そういうところだ」
はい、と返した声はやっぱり滲んでしまったけれど、彼らはバカにすることはなかった。
こんな温かさに触れたのはいつぶりだろうか。
そんな疑問がふと浮かんで、シャボン玉が弾けるように消えていく。
数度同じような柔らかさでユージローの頭を叩いたコーリは、作業に戻る、と言って扉の向こうへと消えていく。パタン、と扉が閉まると、ふふっ、と笑った声が聞こえてヤマセへと目を向ける。
「ボクのセリフ取られちゃったなぁ」
「ははっ、そうなんですか?」
「そうだよ、ああいうのはボクが言うって相場は決まってるんだ」
わざとらしく肩を竦めて、でも、と言ったヤマセは、セリフが取られた、という割に穏やかな笑みを浮かべていた。彼の瞳で反射するダイニングの明かりが、柔らかく揺れる。
「良かったね、ユージロー。コーリは好き嫌いがはっきりしてるから、嫌な時はいやだって言うんだ。あの子も君なら良いって思ったんだろうね」
「……そうだと良いです」
「そう思われてる自信がない?」
「実は、はい、あまり」
「そっか」
それ以上ヤマセは深く聞かなかった。
ただそっと温かいお茶を、冷たくなった湯呑に注いでくれた。
湯呑のお茶を飲み干すと、じゃあ行こうか、と声を掛けられて訳のわからないまま、店へと戻った。工房ではコーリが既に何かの作業をしている。こちらに目をくれることもなく黙々と作業をしている横顔は、とても真剣だった。声を掛けることもなく、ヤマセは足を進めていく。
丁度ユージローが最初に居たところで足を止めたヤマセが、何を思ったのか、壁を両手で押した。がちゃりと音を立ててその壁が横へと開く。すると、そこに階段が現れた。
隠し扉だよ、という言葉に感心しながら、その階段をヤマセに倣って登る。
「のちのち出た疑問は、遠慮せずに聞いてくれたら良い。ただ、今の君に必要なのは休息だ」
きゅっきゅ、と音を立てる階段。
二つ飛ばしで隅の方に置かれた灯りが、足元を温かい色で照らしている。
「朝とか夜とかそういう概念は此処にはないから、好きな時に起きて好きな時に寝てくれ。くれぐれも遠慮はしないこと。もちろん、寝ないことも可能だ」
「可能なんですか」
「可能だね。今の君なら」
キシキシと階段が鳴く。ヤマセは振り返ることなく、階段の通りに登っていく。
「今の君は少し特殊な存在でね。ボクたちと同じように食事も要らない。でも睡眠は別」
「コーリさんは寝なくても平気なんですか?」
「平気じゃないけど、コーリは寝溜めが出来るから。コーリ自身のリズムがあって、作業がある程度終わると、一気に睡眠を取る。だからあの子にも気を使う必要はないよ。でも眠気が来たら、ちゃんと寝ること」
「でも寝ないことも可能なんですよね? どうしてですか?」
やっと階段を登りきる。
ぱちりと電気が付いた音がして部屋がはちみつ色に包まれた。
屋根裏部屋というには広い空間に、二つの大きなベッド。その向かい側に小さなタンスがあった。ベッドの間には、カーテンが引けるようになっていた。窓はないが、木特有の爽やかな香りがその部屋全体に広がっている。
「今のユージローにとっては『睡眠』というよりも『夢』が重要なんだ」
「夢、ですか?」
「うん」
奥にあったベッドの傍まで歩を進めたヤマセの後ろに続く。
こっちがユージローのベッドね、と言うとユージローをそのままに、今度はタンスから何やら取り出して戻ってくる。
「夢は記憶の整理とも言うだろう? あ、これはお手伝いの時に付けるエプロンね」
記憶、という言葉に肩をゆらしても、ヤマセは変わらない笑みを浮かべたままだった。
その反応できっとバレてしまっただろう。ユージローと言う名前が偽りで、記憶がないことが。
差し出された黒いエプロンを受け取って枕元に置く。その間にユージローがベッドに入り込みやすいように掛け布団がどかされて、ベッドに入るように促された。
恐る恐る、しかし確信に似た言葉を投げかける。
「……やっぱりヤマセさんには、僕に記憶がないことがバレてるんですね」
眉を下げて笑われて、そりゃあね、と肯定された。
「見たら分かるよ」
「そんなにわかりやすいですか、僕」
「いいや。君は隠すのがとても上手だよ」
漏れた笑いを隠さずに靴を脱いで入ったベッド。
ふかふかとして温かかった。ヤマセが掛けてくれた布団のおかげで、余計にふわふわと包まれる感覚が気持ち良い。全身から力が抜けていく。
「記憶がないと言わなかったこと、怒らないんですか?」
「どうして怒るんだい?」
「だって僕は隠し事をしたから」
彼らは包み隠さず教えてくれたのに、自分はそれを裏切るような事をしたんじゃないかと思う。しかしヤマセは、柔らかな笑みを崩さなかった。それどころか、困ったような声で言う。
「誰しも隠し事はある。ボクにも、コーリにもね。それに全てを相手に言うことが、正しいこととは限らない」
そう、なのだろうか。微かな記憶しかないけれど、隠し事はするな、と言われる方が多かったような気がする。
「まあ、そんなことはどうでも良くてね」
ゆったりとした声色が、ユージローを眠りへと誘う。
微睡んでいく意識を止めらない。
閉じかけの瞼のせいで、瞳はもうヤマセの姿を捉えることは出来なかった。
「夢は、一種の扉なんだ。誰もが行くことが出来る、異世界への扉。その扉を開くことが、今の君には大事だからね」
だから今はゆっくりおやすみ。
その言葉が耳に届く頃には、ユージローの意識は完全に眠りの海へと沈んでいた。
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