ブラックバードジャーニー

晴なつ暎ふゆ

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ノエル 2-1

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 ぴちぴちと外で鳥が鳴いている窓をぼんやりと見つめたまま、ノエルは静かに息を吐いた。
 いつもならベッドの下に脱ぎ捨てたジャケットもスラックスもネクタイもベルトも片付けてくれる後輩は、昨日この家には帰らなかったらしい。おかげで、日が高くなってもノエルの事をたたき起こす人間はいない。
 ワイシャツ一枚でベッドに寝転がったまま、ブランチも口にしないまま、時間を食い潰している。
 ノエルさんはもう少し生活力付けた方が良いですよ。
 いつかの後輩に小さく笑って言われた余計な一言を思い出して、チッと舌を打つ。
 何も考えずに眠ってしまえれば良いのに、瞼を閉じるとジークのことが思い出されて逆に目が覚める。
 はああ、と大きな溜め息を吐いて、体を起こす。
 妙に肌寒い気がする部屋の床をどしどしと踏み鳴らして、適当にラフな格好に着替える。鏡の中の己の顔は、見て解る程不健康そうだ。まるで背中に暗雲でも背負ってるようだった。ハッ、と自嘲でその顔を笑い飛ばす。酷い顔をしているときには、適当にぶらつくのに限る。それでも直らないのなら、別の方法で発散させればいい話だ。
 プライベート用の携帯端末を手に取ってポケットに突っ込んで、眩しいほどに日が降り注ぐ街へと繰り出した。


――俺の本心を貴方に言っても、貴方は受け取るつもりはないだろうし。

 その時の冷ややかな色素の薄い瞳が網膜に張り付いてしまったように、何度も蘇ってくる。でもその瞳に映し出されていたのは、諦念だけではなかった。やりようのない憤怒が見て取れたから、余計にノエルの脳裏に染みついて離れない。
 ジークが向けてくる感情を知らないわけでも、気付いていないわけでもなかった。
 これでも諜報の人間だし、人の感情の動きには敏感な方だ。声に含まれる感情、笑みに滲む感情、僅かな表情に出る感情。実際に口から語られることはなくても、大体何を考えてどんな感情を自分に向けているのかは、それなりに解った。諜報として働く前から、相手の感情の揺れには敏感であった。
 怒りたい。
 気持ち良くなりたい。
 虐めてやりたい。
 泣き叫ぶ姿が見たい。
 罵倒してやりたい。
 欲望を露わにする人間達には、よく逢っていたしそういう人間を嫌でも相手にしてきた。あの豚男の商売で一番の売上を誇っていたノエルにとっては、客の意図を読み取るのはお手の物だったのだ。体を売っていたときはそれを使うしかなかった。そうすれば、余計な苦痛を与えられずに済むから。自分の感情を殺して、相手が無意識に要求してくることを態度と体で示せば、反吐が出るほど嫌な事もすぐに済んだ。

 その経験と敏感さが今の生き方に活きているし、少なからずクロエから直接伝授されたもの相まって、今では表情、指先、目の動き、口元の動きを見れば、大体の事は解る。
 ノエルを見つめてくる瞳に込められた感情の多くは、欲情だ。

 そんな中で、ジークは唯一いろんな感情を瞳に乗せる。
 喜び、嬉しさ、尊敬、敬意、怒り、悲しみ。
 その中でも特にノエルが目をそらしてきたのは、火傷してしまうのではとこっちが心配するほどの恋情。確かに欲情も彼の瞳に映ることがある。でもそれ以上に、ジークの瞳に映る恋情の方が、苦手だった。手っ取り早く抱いてしまえば良いのに、ジークはそれを耐えるのだ。
 初めの頃は、向けられる感情に笑えてきてそんなものは幻想だと揶揄うように、よくちょっかいを掛けた。だというのに、ひらひらと手招きをしても、目の前に餌を用意しても、絶対に貴方の罠にははまらない、と言いたげにジッとジークは耐えた。
 一時的な快楽に身を任せてたまるか。
 何度も揶揄っているうちに、ジークのそんな意思が垣間見えた気がして、物凄く居心地が悪くなった。
 だからちょっかいを掛けるのも、今ではしていない。
 恋情なんて偽物だ、と罵ってしまえればどんなに楽か。でもそれをジークは一度たりともさせてくれなかった。そんなに瞳は雄弁だというのに、肝心のジークの口はその想いを紡ぐことはない。その事実がまた癪に障る。じゃあ遠回しに嫌味でも言ってやれ、と口を動かすのに、それに動じることもないどころか、褒め言葉ですかと躱される。
 遠ざけておきたいのに、今の関係がそれすら許さない。
 仕事の邪魔をするのに、正当な理屈を言ってくる。昨日だってそうだ。本人にはそんなつもりはないかもしれないが、劣っている、と言われているような気がした。感情を去なすのは得意の筈なのに、昨日はそれすら出来なかった。腹の底に湧き上がった激情に任せてみっともなく大声を上げた。
 だというのに、感情を制御しきれなかったノエルとは対照的に、ジークは何処までも冷静だった。
 ジークよりも長く生きているのに、そこで培ったものなんで無駄だ、と感じさせられる瞬間にどうしようもない劣等感を抱く。ノエルとそう大差ないくらい、ジークは優秀だ。しかし、その真っ直ぐすぎるところが、言葉に表すには難しい感情をノエルに呼び起こす。自分が凄く汚いもののように思えてしまう。
 だというのに。
 俺はノエルさんのことをとても優秀な先輩だと思ってます、なんて。
 どの口が言うんだ。

 手のひらに走った痛みに、ハッと顔を上げる。
 気付けば、呑気な鳥がぴよぴよと鳴く大通りの隅で足を止めていた。道行く人が迷惑そうな顔をしているのを見ながら、ノエルはさっき痛みが走った手を見下ろす。いつの間にか握り締められていた拳をゆっくりと開けば、そう長くもないもないのに爪のせいで、赤い線が出来ていた。ぷつりと浮き出た赤い雫が、涙のように零れていく。
 また湧き上がってきた溜め息を隠すことなく、大きく吐き出した。

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