ブラックバードジャーニー

晴なつ暎ふゆ

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ジーク 1-1

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 その人を初めて見たのは、雪の降った日だった。
 たまたまその日は、小学校の帰りに寄り道をして本屋に寄ったのだ。ずっと読みたかった本が貯めた小遣いでやっと買えて、嬉しくて抱き締めながらスキップをした。
 刹那、ズルン、と滑った足。
 突然の事で、あ、と口を開けることしか出来ずに、抱き締めていた筈の本は、手元を離れ、着地を見送ることなくその場に倒れ伏した。子どもだから寒さなんてへっちゃらだ、なんて屁理屈を垂れて履いていた短パンが災いして、擦りむいた膝がジンジンとして痛い。母さんの言うとおりちゃんと長ズボンを履いておけば良かった。それよりも本、と顔を上げた先に、彼はいた。
 僅かに瞼が伏せられているのに大きいと解る蒼の瞳。
 既に黒く染まっていた空と同じ色の髪。
 雪の舞う中で、その人を見た時思った事は、きれい、の一言だった。その手にはさっきまで探していた本があったというのに、ジークの視線は彼に釘付けだった。伏せられていた瞼が持ち上がって、ジークを捉える。あ、と間抜けに口を開けたままの自分が、その宝石のように美しい瞳に映っていた。
「これ、君の?」
 少し高めの声では、男か女か解らない。
 無言で頷けば、くすりと笑ったその人は、その本に付いていた雪をパンパンと払ってくれた。あれほど痛かった筈の膝の事なんてすっかり忘れて、その人に釘付けだった。一つ一つの動作が美しく見えたから。
「雪の日にスキップするのは止めた方が良いよ」
 そんな言葉と共に差し出された手。ぶわりと耳が熱くなったのは、恥ずかしさのせいだったのか、別のものだったのか、当時は解らなかった。おずおずとその手を取って、立ち上がる。
 あ、と声を上げたのは、自分ではなく目の前の人。もう一度足元に座り込んだその人の視線は、ジークの剥き出しになって赤が滲む膝小僧に向けられている。隠そうとした手は、掴まれて、じっと見られた。こんな所見られたくなかった、と幼いながら思ったジークとは裏腹に、にひひ、と彼は屈託なく笑った。
「怪我してるのに泣かないで偉いね。こっちおいで」
 そう言って手を引いてくれたその人のことをよく覚えている。
 屈託のない笑みを浮かべて手を引いてくれた彼を、忘れることなど出来なかった。

 きっと彼は、そんな些細なことを覚えてはいないだろう。

 それでも構わない。
 一生気付かれなくても良いと思う。
 彼にとって昔のことは、思い出したくないことの方が多いだろうから。しかし確かなのは、あの日の出会いがジークの行く先を決めた、ということだ。


「――く、ジーク、おい、寝てるのか?」
 ぺしん、と弱い力で叩かれた頭。
 ゆっくりと顔を上げれば、眉を中央に寄せたノエルが立っていた。蒼い瞳がきょろきょろと動いて、こちらの様子を窺っているのが解る。こうしていると小動物のようで可愛らしいな、と場違いなことを思いつつ、耳に喧噪が戻ってくるのを感じながら辺りを見回す。
 あちこちでグラス同士がぶつかる音と、話し声、高級な楽器が未だに音を奏でているのが見えて、やっと状況を把握する。そういえば、任務でこの要人達のパーティに彼と共に参加していたのだった。上司のクロエに頼まれて二人で来たものの、ターゲットの好みがノエルのような優男ということで、待ちぼうけを食らっていた事を思い出す。
「先輩、仕事は終わったんですか?」
 柱から背中を離してから、くわっと大きく欠伸をして問う。上から下まで見た彼は、特に衣服が乱れているわけでもない。残り香も気にならないということは、今日は殆ど接触はなかったのだろう。気付かれないように小さく息を吐く。 今度はむすりと口先を尖らせたノエルは、こちらをじろりと睨んでバン、と机を叩いた。
「待っててくれなんて言ってないんだから、先に帰ってれば良かっただろ」
「俺、帰りたいとは一言も言ってないですよ」
「じゃあどういう意味で聞いたんだよ」
「もう一緒に帰れるのかなって思って」
 出来ることなら、一刻も早くこの場から離れたい。この世界のパーティはろくな事が起こらない。武器の所持を禁止されているだけまだ良いが、粉の類いは横目に確認した。どうせまた碌でもないことが始まるのだろう。その前に、ノエルと共に帰ってしまいたい。
「まだだよ。まだターゲットと話せてない」
 目をぱちぱちと瞬いてしまったのは、彼にしては珍しいと思ったからだ。ノエルの仕事ぶりは一番近くで見ている己が一番よく知っている。最低限の手管で最大限の情報を引き出す。俺なんてまだまだだよ、なんて彼は言うが、上司のクロエに匹敵するほどの仕事ぶりだと勝手に思っている。
 そんな彼が、まだ接触すら出来ていないなんて。
 途端に、ある不安が過ぎる。ノエルの耳に顔を寄せて囁く。
「……枕、するつもりですか?」
 怒気は乗らなかったと思いたい。ノエルは半眼で睨んできたけれど、そんなことよりも『枕をする』事の方が重要だった。
「必要ならする」
「貴方がそんなことまでする必要ないでしょ」
「情報を聞き出す為ならやるよ、俺は」
「クロエさんに体を大切にしろって言われたばかりなのに?」
 一番効く言葉を投げかければ、逃げるように視線が外される。ガヤガヤと騒がしい会場が、今は鬱陶しくて仕方ない。どうして彼ばかりに負担が掛けられるのか解らない。しかし己が彼の代わりになることも難しい。ジークは相手をするのは女ばかりだ。可愛らしい顔をしていない自覚はある。何の役にも立てていないことが腹立たしくて仕方なかった。
「俺はやれと言われたことはやる。それが、俺が出来る恩返しなんだ」
 彼の言うことが解るから、何も言えずに舌を打つことしか出来なかった。なんでお前が苛つくんだよ、と笑ったような声が聞こえる。

 そんなの、決まってる。
 しかし胸の中で確固たる形をしている気持ちを吐露したところで、何一つ意味を成さない事も知っていた。
 それにこの人は解りながらそうしていることも、解っている。どうしようもない。彼を安全なところに隠してしまえるだけの力が在ったら良かった。そうしたら誰も知らないところに隠して、何でも与えてやることが出来たのに。
 腹の中で蜷局を巻くドス黒い感情が、何かも良く解っている。
 ずっと前からその蜷局が消えてくれない。
 指先を伸ばせば届く距離にいるのに。こんなに、遠い。

「……付き合いますよ」
「ええ? 別に帰っても良いのに」
「貴方を一人にするなと言われているので」
 クロエの深い笑みを思い出す。

 ――出来れば彼を一人にしないでね、すぐに無理するから。まあ貴方が良ければ、の話だけど。

 あの上司もジークの想いを知っていて、そんなことを言ってきたことなど百も承知だ。
 利用されている。それでも良い。彼を二度とあんな目に遭わせないなら、なんだって。
「お前も物好きだよなぁ」
「失礼ですね。趣味が良いって言って欲しいんですけど」
「趣味悪いよ、お前は」
 カラカラと笑ったような声。影の差す横顔。
 俺食いもん取ってくる、と傍を離れたノエルの背を見ながら、ジークは一人深い溜息を落としたのだった。

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