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ノエル 1-2
しおりを挟むノエル・ミラー。
その名を名乗るようになったのは、もう十年以上も前の事だ。
朽ちるのを待つ樹木のように、ただ息をするだけが日常のどん底にいた。ずっと続くはずだった幸せは、たった一度の恋人の裏切りで露と消え、小汚い男達に食い物にされ操り人形になる日々。悲しいとか苦しいとか気持ちが芽生える時期は過ぎ、死んだ魚のように虚ろの目を宙に泳がせていた。
そんな生活に終止符を打ってくれた人が、今のノエルのボスであり、今の名を名乗るようになったきっかけを作ってくれた。
その日のことは良く覚えている。
春の木漏れ日が窓から溢れ落ちる日だった。いつも通り娼婦まがいの仕事を終えて、事務所というにはあまりにも粗末な建物に朝帰りしたノエルを迎えたのは、下卑た笑みを浮かべる豚男ではなかった。
仕事を終えたと報告に行く部屋の扉を開けて、一番に目に入ってきたもの。
ノエル達をボロ雑巾のように使い捨ててきた豚男の亡骸だった。
既に床に倒れ伏している男の腹から流れ出した真っ赤な血が、くすんだ床を染めていた。どんなクズでも血は真っ赤なのか。陽光に照らされた豚男の亡骸を見ながら、そんな感想を抱いた。ふと視線を動かせば、その豚男の頭から少し離れた所に磨き抜かれた光沢を持つ革靴がある事に気付く。
全く気配がしなかったから、今の今まで気が付かなかった。
輝く焦げ茶の革靴から、白の縦ストライプの入ったグレーのスラックス。更に視線を上げていけば、口元に笑みを灯した若い男が立っていた。
ノエルと同じ黒髪に、ルビーのように輝く瞳。背は高く、すらりとしていた。
嗚呼ここで遂に俺も殺されるのかな、と他人事のように思う。そうだったとしても、抵抗する気は起きなかった。ゆっくりと口を開く。
「貴方が俺を殺してくれるんですか?」
微笑んでいた男の瞳が僅かに見開かれる。違うんですか、と追撃の一言を投げてもその人はまた笑みを戻して、首を横に振った。
「なぜそう思うんだい?」
尋ねてきた声は、ここ数年聞いてきた声で一番柔らかで穏やかなもの。何故か亡き母の声と笑みを思い出すような、懐かしく温かな響き。
ちらりと足元の男を見遣って、指を差す。
「だってその豚男を殺したのは貴方でしょう?」
問えば、そうだね、と返ってくる。
やはりその声はとても人を殺すなんて一ミリも思えないのに、それと同じくらいこの人が豚男を殺したのだと確信があった。目の前の男が人殺しと言うことが分かっても、ショックを少しも受けていないのを感じながら、口を開いた男を見つめる。
「でもこの男を殺す事と君を殺すことはイコールではないよ」
「……そういうものですか?」
いつだって自分が見てきた光景はゼロかイチかだった。
白か黒か。黒だと判断されれば全てを消され、何もかも奪われる。それこそ跡形もなく。争い事も競い事も全てそうなっているのをずっと見てきた。少なくとも、この掃き溜めのような場所に来てからの二年間はそうだった。
しかし不思議そうに首を傾げた男は、笑みを浮かべたまま問うてきた。
「少なくとも私にとってはそうだね。……もしかして、君は殺されたいのかな?」
殺されたい、のだろうか。解らない。
でも生きていても無駄だと感じているのは確かだった。恋人に裏切られたあの日から、泥水を飲むような生活をずっとしてきた。幼くバカな子どもだった己が招いてしまった悲劇を悔いることももう止めた。悔いたところで、もう大切なものは戻っては来ない。残ったのは自分の名前のみだ。もっと大切なものは、あの日に全て失った。ノエルを愛してくれた家族も、愛してくれていると思っていた恋人も、平凡で退屈な、しかし、大切な日々はもう返っては来ない。
それならば。ここで。
「でもね、私は君を殺すつもりはないよ」
くすんだ床ともう何年も変えていない靴を見つめていた視線を、勢い良く上げる。
その男からは手が差し出されていた。その意味が分からずにその手と彼の顔を交互に見る。
「もう捨ててしまってもいい命なら、私と一緒においで」
春の木漏れ日が照らすその手を、ノエルはほぼ無意識に取ってしまったのである。
後悔しているか、と聞かれれば、とんでもない、と答える。
手を取ってしまった事によって、もう二度と堅気には戻れない深さの闇の世界で生きる事になった。それでも、こうして日の下を、生意気で可愛い後輩を連れて歩ける。誰かに媚びへつらうこともなく、密かな願望を胸に秘めながら堂々と歩くことが出来る。
あのまま掃き溜めのような場所にいたのなら、きっと根腐れを起こして今頃何処かで野垂れ死んでいた。そうならなかったのは、ボスのおかげであり、ノエルとジークを可愛がってくれる上司のおかげだ。だから、出来る限り彼らの為に尽くしたいと思う。
突如、ずいと目の前に出てきたジークの端正な顔。過去に投げていた意識を無理やり今に戻されて、うわっ、と足を止める。
「話聞いてますか、先輩」
レンガ畳みの裏通りを歩いていたことを、思い出しつつ、ノエルと同じく足を止めているジークをじろりと睨み付ける。ぴよぴよと呑気な鳥の鳴き声が、陽光を包む陽気に響き渡っていた。
「あのなぁ、いきなり覗き込んできたら危ないだろ」
「何度呼んでも返事をしなかったのはそっちです」
「だからってその整った顔をいきなり目の前に出してくるな」
ぐい、とジークの肩を押して目の前から退かせる。
俗に言うイケメンという部類の人間には幸いにも沢山出会ってきた。性格が最悪な者もいれば、性癖がねじ曲がっている者もいたが、その経験が今になって少しだけ役に立っている。目が慣れているおかげで、この後輩にもさして動揺せずにいられるのだから、まあ一応の感謝はしている。
「俺じゃなかったら、キスされるんじゃないかって心臓止まってたぞ。気を付けろ」
「ノエルさんはそう思ってくれないんですか?」
「ちょっとも思わないよ。本気じゃないだろ、お前」
べえ、と舌を出して先に進もうとジークの脇を通り過ぎた。
筈だった。
がしりと掴まれた腕。え、と声を零した時にはもう背中が通りの建物に叩き付けられて、顔の両側に退路を塞ぐように、壁に付かれたジークの両腕が檻を作っていた。
「なんだよ、邪魔なんだけど」
「これなら本気にしてくれますか?」
「おいおい、冗談言うな。俺に色仕掛け使ってどうするんだ」
言葉は無駄だ、と言いたげにジークの顔が近付いてくる。だとしてもノエルが動揺することはなかった。いざとなれば鳩尾に蹴りでもいれてやれば良い。入るかは別だが、行動を阻止することくらいは出来るだろう。
「あ~ら、昼間からお熱いのねぇ」
緊迫を破る間延びしたソプラノが、二人の間を裂いていく。
二人揃って声の方へと顔を向ければ。
「クロエさん?」
「はあい。大事な部下ちゃん達が来ないから迎えに来ちゃった」
ひらひらと手を振る女上司――クロエが、立っていた。
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