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しおりを挟む見上げた先は、四階建てのアパート。
思わずノクスに目を向けてしまったのは、本当なのか、と思ったからだ。ボスになるつもりはなかった、と言っていたが実際に彼は一組織のボスであるし、もっと豪邸のような場所に住んでいるのかと思っていたのに。
本当に、普通の人が住むような至って普通のアパートだ。
「ホントに此処なのか?」
「文句があるのか?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
セキュリティも特に厳しいわけではなく、キーさえ持っていれば入れてしまうような構造だった。胸の裏ポケットから出したキーで扉を開け、そのままエントランスを通り過ぎたノクスに着いていく。
「お前にも後で鍵を渡すが、無くすと入れないから気を付けてくれ」
「わかった」
エレベーターは最新式で、ボタンの下にあるキーで止まる階を判別しているらしかった。
「必要な物は自分で買い足していいし、僕の家にあるものはノートパソコンを除いて、何を使って貰っても良い」
「わかった」
表示がないせいで、どの階に止まったかまでは分からない。体感で言えば、二階か三階だろうか。エレベーターから降りると、扉は左右にそれぞれ二つずつと、奥に一つあった。ノクスは真っ直ぐに一番奥の扉に足を進めて、ドアノブにそのキーを翳す。赤のランプが緑に切り替わって、彼はドアノブを引いた。
「それなりに綺麗にしてるつもりだが、気に食わないところは自分で掃除してくれ」
大人二人が並んで通れる短い廊下。
左手にあった扉はスルーしたノクスに続いて、リビングへと足を踏み入れる。リビングには、ソファとローテーブルと本棚、廊下の右手壁沿いにキッチンと小さな冷蔵庫。その奥にさらに扉がある。そして、リビング奥の左手にはもう一つの扉。
シンプルそのものの家だ。
「冷蔵庫の奥にあるあっちの扉の先は、洗面所とバストイレだ。それからこっちは、」
ゆったりと足を動かして、リビング奥の僅かに開いた扉の前に立ったノクスが、ちらりとこちらを見る。じっと見たまま動こうとしない彼に、首を傾げた。
「何だよ」
「……聞き忘れたことがあった」
「聞き忘れたこと?」
「お前、」
ノクスが言葉を紡ぐよりもより先に、にゃあ、という鳴き声が耳まで届く。開いた扉からするりと出てきたのは、真っ黒な毛並みの猫。レオの姿を一対の金の瞳で捉えると、ピタリと足を止めた。
「見ての通り猫がいる。問題ないか?」
猫。この男が、猫を飼ってる?
見るからに冷徹な空気を纏っているのに、猫を飼っている姿が想像出来ずに頭が混乱したまま立ち尽くす。そんなレオを見かねたのか、もう一度、にゃあ、と鳴いた猫が尻尾を立てたまま寄ってくる。するりと足に体を押しつけられた。歓迎されている、のだろうか。分からないが、とりあえずしゃがんで頭を撫でてみる。ゴロゴロと喉が鳴る音が聞こえてきた。
「問題なさそうだな」
黒猫から顔を上げると、わずかに口角を持ち上げたノクスと目が合う。ふいと視線をそらした彼は、そのまま扉の向こうへと消えた。あいつが猫って柄か? そんなことを頭で思いながら、立ち上がって彼の後を追いかける。
暗いトーンで纏められた寝室だった。左手に大きなサイズのベッド、真正面に布団と同じネイビーのカーテンで覆われた窓。チェストがないな、と思ったのだが、ベッドの隣にクローゼットらしき扉がある。その前にノクスは立っていた。
「見ての通り、ベッドはクイーンサイズのが一つだけだ。寝相は良い方か?」
「まあ、うん」
「じゃあ問題ないな」
「…………、同じベッドで二人で寝る気か? 俺はソファでいい」
「問題か?」
「フツーに考えて同じベッドで寝るのはおかしいだろ」
「ベッドで寝ないでシゴトに支障を来す方が問題だと僕は思うが」
いや確かにそれはそうなのだが、だからといって知り合って間もない赤の他人と、同じベッドで寝るのは些か抵抗がある。それ以前に、彼はギャングだ。他のギャングのように暴力で他人を屈服させるような人間でないのは、出会ってから今ままでの彼の言動からなんとなく分かる。分かりはするが、全く手を出さないとは言い切れない。
それに、と思う。
今ノクスが手を出してこないのは、レオが何者が知らないからだと思うのだ。レオが何者かを知れば、間違いなく消しに掛かってくるだろう。例外はない。死にかけたのだってそれのせいなのだから。
「アンタが俺を殺さない保証がない」
言うに事欠いて、本音が漏れた。
ハッと我に返った時には、すでに遅い。ノクスが大きく目を見開いているのが見えて、顔を背けた。
一番のバカは俺じゃないか。こんな手の内をバラすようなこと、言うべきじゃなかった。これでアイツが確信を持ったら自業自得すぎる。本当になんて馬鹿なことをしたんだ。
フッ、と吹き出すような音。ついで喉で笑う声がする。
目を見開いてしまったのは、レオの方だった。笑いが止まらないのか、ノクスは肩を揺らしている。
「僕がお前を殺す理由がどこにある?」
可笑しくて仕方がない、と笑いの交じる声が言っている。顔を顰めてもその笑いは止まらない。
そんなの、今だけだ。アンタがもしも俺のことを知ったら絶対に手のひらを返すに違いない。生まれながらにして業を背負っている自分を、誰が見逃すというのか。そうとなれば話は別だ、ときっと銃口を向けるに違いない。それと共に向けられるのは、冷ややかな瞳だろうか。或いは、嬉々とした瞳かもしれない。わからないが、きっと彼は俺を殺す。例外なんてない。
「否、今の所お前を殺す理由がない、が正確か。心配しなくてもお前が僕を殺すつもりがないなら、僕がお前の命を取ることはない」
「信用しろ、って言いたいのか」
「いいや、信用する必要はない。お前が敏感になる理由が分かるだけさ」
「どういう意味だ」
「お前は誰かに殺されかけた。理由が何かは知らないが、お前が追われている、という話も聞いてるから、殺されたくないと思う理由も、僕相手に敏感になる理由も、推測するのは簡単だ」
「ハッ、なんでもお見通しってことか?」
鼻で笑えば、笑いを完全に引っ込めたノクスが首を横に振る。
「全てを見通せるなら、苦労しないよ。僕もお前も。そうだろう?」
確かに彼が言うことは尤もだった。
全て見通せたなら、大きく胸の奥を抉って今でも巣食い続けている惨劇も、回避できたかもしれない。もしも回避できたなら、今こんな所にはいなかった筈だ。きっとこんなギャングのいる街ではなく、穏やかに時間が流れる街にいたはずだったのに。
首からぶら下がっている指輪をぎゅっと握り締めた。
「たしかにな」
同意した声は随分と沈んだ色をしていた。
二人の間を遮るように電子音が響き渡る。
聞き覚えのない音だから、ノクスので間違いないはずだ。予想した通り、スリーコールの後、彼が電話に出る。
「僕だ。……うん、うん。それは僕が直接行かないといけない案件か? ……なるほど、わかった。三十分後にはそちらに着くように行くよ」
二、三、話をしてその通話は終わった。通話を切ったノクスがこちらを向く。
「呼び出しが入ったから僕は行くけど、お前は外に出るか?」
「いや、多分出ない」
「そうか。一応鍵は渡しておく」
クローゼットの扉の向こうに一度消えたノクスだったが、すぐに出てくると真っ直ぐレオの方へと向かってきた。手を出せ、と言われて素直に出せば、その上に彼が持っていたのと同じキーを渡された。
「使い方はさっき見せたから問題ないだろうが、万が一解らなくなったら、お前に支給されてる携帯端末で1229を押せば電話が繋がる」
「へえ? 機械担当にでも繋がるのか?」
口を動かしながら寝室を出て、黒猫を撫でていたノクスの背中に問いかける。立ち上がって裾を伸ばしたノクスは、振り返ると言った。
「僕だ」
「は?」
「僕に繋がる」
その場で固まったレオの返事を待つことなく、ノクスは出ていってしまって、黒猫と一緒に取り残された。にゃあ、と足元で黒猫が鳴いてくれなければ、ノクスが帰ってくるまでそこに立っていたかもしれない。丸い瞳で見上げてくる猫を見下ろしてから、しゃがみこむ。来たときと同じように撫でてやれば、またゴロゴロと喉を鳴らしてくれた。
「お前の飼い主はいつもああなのか?」
あまりにも無防備だ。
知り合って間もない人間に自分の家の鍵まで渡してしまうなんて、この街の人間であれば考えられない。間違いなく自殺行為だ。鍵の複製を作られたらどうするのだろう。レオ自身はやるつもりはないが、非道だと言われることを簡単にできてしまう人間もいるのに。本当にあれで組織の長が務まるのか甚だ疑問だ。まあ知ったことじゃないか、と自己完結するものの、少し気になってしまうのは何故なのだろう。
にゃあ、と鳴いた猫を見れば金の瞳がジッとレオを見つめている。
「俺は何もしないよ」
なんとなく考えを見透かされた気がして、そう言っておく。
スイ、と視線を流した猫はするりとレオの手を抜けてどこかに行ってしまった。することも特に見当たらなくて、とりあえずソファに座ってみる。おお、と思わず声を上げてしまう程に、低反発の座面にじっとりと体が沈んでいく感覚が気持ちが良かった。こんなソファに座るのは初めてだ。
全身の力を預けて、ぼんやりと天井を見つめる。
壁掛け時計の規則的な音が、部屋に響いている。
呑気な空気が流れる部屋に、だんだんと弛んでいく意識。今はノクスもいない。
少しだけ、と言い訳をして襲ってくる睡魔に身を任せた。
***
暗闇に街がどっぷりと浸かった頃。
やっと家まで辿り着いたノクスは、大きく息を吐いた。
頭の痛い案件の報告が数個、部下からあったせいだ。ノクスとしては出来る限り面倒事は避けたいのだが、そうは問屋が卸さない。自分が身を置いている世界は、強欲な人間が溢れているせいで、抗争が絶えない。全くもって面倒な連中である。いっそのこと面倒な連中同士で潰し合いをしてくれたらいいのに。そうしたらこっちが出る必要も無い。そして一番厄介なのが、会合に呼ばれることだ。あの空気感が好きではない。大抵の場合、宣戦布告だし殺気と敵意に満ちた空間で、どうでも良い話を聞かなければいけない。そんなことをしているくらいなら、パソコンの画面に向かっていた方が有意義だというのに。しかし顔を出さなければ出さないで反感を買うし、攻撃の矛先を向けられることもある。
さて、どうしたものか。
ネクタイを緩めながら、鍵を開けた扉の先。
電気は付いていない。出かけているのかもな。
そんなことを思いながら電気を付けて、ソファを見たノクスは目を見開く。出かけているかもな、と今しがた思った人物が、足は床に下ろしたまま体を丸めて寝入っていた。
「おい、レオ」
声を掛けても、軽く肩を揺すっても、彼は目を覚まさない。
よほど疲れていたのだろうか。もしかしたら、あのマンションでは少しも眠れていなかったのかもしれない。いつ殺されるかわからない恐怖に近い心配のせいで、眠りが浅くなってしまうこともあるだろう。だからといって、こんな窮屈そうに寝るくらいなら、ベッドで寝ればいいのに、とは思うのだが。
そのまま放っておこうか、と考えなくもないが、ソファがヘタるを黙って見過ごすわけにもいかない。ふーっと息を吐いてから、ジャケットとネクタイを外して、ソファに適当に掛ける。腕の可動に問題がないベストは、着たままでも良いだろう。
「よっ、と」
膝裏と肩に腕を回して持ち上げる。案外簡単に持ち上がった体。長い前髪から覗く顔は、起きているときとは違いとても穏やかだ。キャンキャンと吠える仔犬の様相はない。
小さく漏れた笑い。もしも己に弟がいたらこんな感じなのだろうか。そう考えれば、憎まれ口も可愛く思えてくるから不思議だ。一人っ子として育ったから、あくまで憶測でしかないのだが。
ベッドに下ろして布団を掛けてやると、レオは体を丸めてまた穏やかな寝息を立て始めた。ポケットに手を入れてレオの寝顔を見ながら、嗚呼でも、と思う。
もしも弟がいたとしても、こんなに大きくなるまでは見守れなかっただろう。
ノクスの両親が命を散らしたあの日に、弟もきっと道連れにされていた。
「……母さん」
不意にそんな声と鼻を啜る音が聞こえて、レオの顔を覗き込む。彼の目から流れた小さな雫。
雫を拭うことはしない。彼が母親のことで泣くのなら、それはもしかしたら彼のギャング嫌いに関係しているかもしれない可能性を考えたからだ。わかりもしないくせに、と彼が吠えることも簡単に想像がつく。放っておいてくれ、と言うから大きく踏み込むこともしない。
シーツに吸い込まれていった雫を眺めるだけに留めたノクスは、部屋を後にして今日一日の疲れを落とすためにバスルームへと向かったのだった。
翌朝、レオの野太い悲鳴に叩き起こされるなんて知りもせず。
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